2~3日前、頭だけでわかっていて、腹の底から納得しているわけではなく、「そうあるべき」と考えていたから実行していたことが、ひとつの体験を通して経験的に「そういうことか」と理解できたことがありました。これを一つの悟りと表現していいのかなと思っています。
問は、この活動の骨子そのものであり、「ダイバーシティとインクルーシブで起きる矛盾」というブログの中で書いた二律背反や二項対立や二元論的な宇宙の構造の不思議さ、わたしがその時点では「運動」と捉えていたことに対する、新たな回答を得たということでもあります。
この気づきの前後で、実際的には何も変わらないのに体験している世界観は大きく違っています。言葉で説明してどのくらい伝えられるかわかりませんが、少しでも誰かの役に立つことを祈りつつ、言語化してみたいと思います。
欲とコンフリクト
人の間にはコンフリクト(不一致、対立、確執)が起きます。
何を大事にして瞬間瞬間を選択しているかということがそれぞれの人間によって違うので、まったく同じ環境、同じ条件下において、「どうしたいか」という問いに対する答えは違います。
例えば、同じ家の中で物や時空間を共有する家族という間にも、何を夕飯に食べたいか、テレビが見たいか見たくないか、どんな番組を見たいか見たくないか、休みの日に出かけたいか出かけたくないか、誰がごみを捨てるか、いつ捨てるか、お風呂は夜入るか朝入るか、自分の部屋が必要か必要じゃないか、掃除するかしないかなどなどきりなくコンフリクトの種があります。
またしても認知症の父の話で恐縮ですが、父と先日4日間過ごしている中でこのコンフリクトがたくさん起こりました。父には「どうしたいか」ということがはっきりとあります。以前のブログ「老いとアイデンティティ危機」で書いたように、生活の中の細かい不文律とルーチンが認知症の父の一人暮らしを支えています。それらは彼の自分らしく生きるという欲の表れでもあります。わたしはわたしで快適に過ごしたいので、わたし流のやり方などがあります。そこでコンフリクトが起きてしまったのです。
欲もコンフリクトも二人以上の人間がいれば、当然起きるものです。共通の目的のために欲を出し合ってコンフリクトを認識し、理想を描いてそれに向けて協力できればよいだけなのだと思います。こう書いてみると、なんときれいごとだろうと自分でも思いますが、まったくそういうものではありません(笑)今回はその理想的なきれいごとについては書きませんが、そのうち書きたいと思います。
欲とコントロール
欲は最終目的を果たすために起こります。最終目的は、「心の平安」ということじゃないでしょうか。でも、わたしたちはたいてい、その目的を果たすための方法論で揉めるのです。他者とは言うまでもなく、自分自身の中でも揉めるようです。心の平安を得ようとして、その方法が違うためにコンフリクトが起きて揉めるというのは何という皮肉でしょうか。できれば平和に解決したいものですよね。
ところで、心理学ではブーメラン効果という用語があります。これは「ハラスメントと良心」でも書いたのですが、「説得されると反発したくなる心理」のことで、コンフリクトが平和解決しない理由の一つでもあります。Aさんはいかに自分のやり方が合理的で正しいか、相手を説得して平和的に解決したいと考えます。でも、Bさんは自分の意思決定権を自分の手に持っていたいので、どんなに相手の言い分が合理的で理に適っていても、自分のやり方を諦めたくないのです。
ここで、AさんにもBさんにも思い通りにしたいという次の欲が出てきます。Aさんは「自分の正しさを証明する」という欲を持ったとしましょう。Bさんは「自分の自由を守る」という欲を持ったとしましょう。そうなると、もう心の平安を得るという最初の目的はどこかへ飛んでしまいます。何としても思い通りにしたいという戦いが始まりました。思い通りにするというのは「コントロール」です。
辞書を調べてみると、Controlという言葉には次のような意味があることがわかります。
1.〈人・組織などを〉統制する
2.〈危険な状況を〉抑え込む
2a.〈感情などを〉抑制する,抑える,〈自分自身を〉コントロールする
2b.〈出費・経費などを〉制限する,抑える
3.〈実験結果などを〉照合する;〈品質などを〉検査する,チェックする
小学館 プログレッシブ英和中辞典
コントロールしようとしている人の心理には、危険な状況を抑え込むような正義感もあるでしょうし、人や組織を統制するという責任感もあるでしょう。感情を抑制し自分自身をコントロールし、節制して、事実照合し、いいことをしているという確信があるはずです。相手が逆の考え方でまったく違う方法論を持っていたら、「この人は知らないのだろう」と保護する責任と正義感をもって接している可能性もあります。
説得すると逆効果だから別の方法で自分の方法が通るようにしよう、と考えるかもしれません。
ハラスメントと信頼
前述の「ハラスメントと良心」に書いたり、もうひとつ「思うツボとモラハラ」にも書いたのですが、手段を選ばずに相手を思い通りにするということは、ハラスメントになってしまうと思っています。それがいかに最終的には相手のためになるのだと信じていたとしてもです。
思い通りにするために使う手段はあからさまなものからわかりにくいものまでいろいろあります。
- 暴力でねじ伏せる
- 怒鳴る
- 無視する
- 脅迫する
- 立場を利用する
- 罪悪感を煽る
- 悪口などを言って回って孤立させる
- 経済的に困るように仕向ける
- おだてる
- 少しずつ譲歩するように仕向ける
これらがハラスメントになるのは、相手に断る権利を何らかの方法を使って渡さないからです。断る権利があるなら喜んで引き受けたかもしれないことすら、この方法で選ばされると嫌なことを無理やりさせられた気分になるからです。
面と向かって何かを頼まれたのであれば、その人はそれを引き受けるかどうかを選ぶことができるのに、頼まれていないどころか自ら進んでそれを選ばざるを得ないところへ半ば強制的に押しやられる感じがするからです。
罪悪感を使って思い通りにするということについては、わたしのこれまでの人生のテーマのひとつであったので、いくつもブログで書いています。以下にリストを置くので興味があれば読んでみてください。
- 共依存の正体:拒絶されたくないという思いや感謝されつつ思い通りにしたいという隠れた意図が「罪悪感の誤用」と「余計なお節介」にはあるということを書いています。下の2つのブログと併せて3部作になっています。
- 悪意の善人あるいは善意の悪人:余計なおせっかいをするときは、相手に罪悪感を抱かせて思い通りにしようとしています。罪悪感の誤用のひとつです。
- 罪悪感の用法:罪悪感は用法を間違えると人間関係が壊れます。メリットもあるものですが使い方に注意が必要だということを書いています。
- 甘えと自立:今回も父との間に起きたコンフリクトの話が具体的に書いてあります。わたし自身が罪悪感によって何を感じたかということを書いたものです。
信頼とは、相手が自分の利益に貢献してくれると信じられることです。それは相手が相手の利益を犠牲にしてまで自分の利益に貢献してくれることではありませんし、自分の利益が何かを見失っているときにやみくもに支持してくれることでもありません。きちんと相手の利益も相手が責任をもって大切にしているとわかったうえで安心して頼れること、ときには愛をもって言わなければならない苦言を呈してくれるとわかっていることが必要不可欠だと思うのです。
平行運動から抜けられない
「甘えと自立」で書いたようなことが今回も起きました。そのときと同じく、最初は嫌な気持ちになりました。わたしがどんなに率直にものを言ったとしても、対等に断る権利をもって信頼し合う関係を築くなんて、父にはそういう気はありませんし、率直に自分の気持ちを伝えるなんて手の内を全部見せるような頭の悪いやり方をしたら思い通りになんてできないと考えてバカにしているのを感じるのです。
子どものころから、親が親の立場を利用して思い通りにしようとしていることに気がつくと心が傷つくから、善意か、少なくともわざとではないと思うようにしていたのだと思います。すべての瞬間にそうだったわけではないと思います。どんな人も自己犠牲を払ってでも他人に貢献しようとする必要はないし、それが子どもであったとしても、自分を差し置いて大切にする「べき」とは思いません。でも、わたしの父は大好きな囲碁の対局のように人間関係を捉えており、どんな相手でも決して手加減はしませんし、頭脳戦に勝つことが何よりも大事なので、優しさも戦略であることがよくあります。押しつけがましく感じて拒絶するとぶち切れて「せっかく~してやったのに」「出てけ」とよく怒鳴られたものです。
大人なので自分のことは自分で守らなければいけませんし、ちゃんと自分で守れるのです。少しでも嫌な気持ちになるなら、その場所からは離れなければなりません。守れるか不安なら事情を話して第三者を挟むことだって可能です。
父は父の大切なものを大切に生きているだけです。それを守るためなら手段を選ばないだけ。
わたしはそれを尊重し、かつ自分を守り、離れていれば感じることのできる父への愛情を大切にしたいと思います。
ここまでは母のときも、前回もできていたのです。期待しない、距離を置く、自分のことを自分で守る、相手の責任まで負わない。
でも、これだと葛藤は減らなかったのです。どこか抵抗しているだけのような、力を抜いたら崩れてしまうような脆弱な感じもありました。平行運動をしているだけのような…。
波に乗れた!
「フォーカスすることの力」を書いた頃から何かが変わり始めました。
父とのコンフリクトも、最終日には「ふんわり地獄」の波にのまれることもなく、波から逃げることもなく、波が来るのをありありと見ながら、ひょいっと波に乗ったと感じた瞬間がありました。あ~、やってるやってる、と見ながら。
優しいけどきちっとけじめのつけられる、品があってキリッとした観音菩薩が自分の中に入ってくるイメージを、父の家にいる間寝る前に毎晩していたのです。イメトレです。そのスイッチとしてマントラのようなものもあり、「来た来た」と思ったときにはマントラを唱えると決めていました。今でもすぐにその状態になれます。
コントロールしようとしてくる父に対抗して、父のことはコントロールできないからということで、自分をコントロールしようとしていたんだなと思います。
最終目的は父がどうなることでも自分がどうなることでもなく、心の平安です。だから観音菩薩みたいな気持ちで世界を見ることだと気がついたのです。今すぐ心に平安を招き入れるということです。それだけなのです。
嘘だと思うなら、是非今晩寝る前にやってみてください。なりたい自分の最高の理想になったらどんな自分なのかを疑似体験する感じです。そのときに言葉が浮かべば、それがマントラです。スイッチになっていざというときに最高の理想の気分を自分の中に再現してくれます。
罪悪感自縛霊になっている誰かの役に立てれば幸いです。
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