自由意思と人生脚本

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たびたび人と話していて非常にびっくりすることがあります。それは前回のブログ「理屈と心構え」にも共通している心構えに繋がる「世界観」の違いです。

人生脚本

交流分析という心理学のパーソナリティ理論のひとつであり心理療法の理論の中に、「人生脚本」というものがあります。

Wikipediaによると、人生脚本とは

交流分析によれば、人は、とても幼い頃に、世界と自分の立場を理解しようとして、自分に対する人生の脚本を書く。その脚本は人生の中において改訂されるが、核となる話は一般的に7歳までに選ばれ決定され、大人になっても気づかないものである。

出典:Wikipedia―交流分析

とあります。

この中でかかれている「世界と自分の立場」というのは、「社会的真実性」のことだと思われます。「社会的真実性」については前に「セルフイメージ」というブログで詳しく書いてあるのでよかったら読んでみてください。

この、人生脚本が悲劇なのか喜劇なのか、アクションなのかホラーなのかというのは非常に重要です。喜劇的世界の住人は悲劇的世界の住人から見たら不謹慎に見えることもあるでしょう。

世界観の違い

特にわたしが相手との世界観の違いでびっくりするのは、タテ社会のヒエラルキー構造をしている世界に住んでいる人々と接するときです。彼らの世界では、性別、職業、体格、収入、家柄、肩書、学歴、年齢などによって、上か下かのランクがあり、戦いによって力でランクがひっくり返ることもあり、戦国時代の武将や兵士の出世物語のような世界なのだそうです。

前述のブログ「セルフイメージ」で書いたように、幼少期のわたしは他者と比較をするという概念があまりなく、ボケらっと育ってしまいました。でも、タテ社会に住んでいる人々によると、世界にはわたしには見えない「力関係」や「上下関係」があるということがわかりました。親を含め、それを無視する「空気が読めない」わたしを説得したり、心配のあまり自ら「その存在を思い知らせて」くれる人もいました。「偉い人」にため口を利いてしまったり、チームプレーが必要な競技で練習に好きな時しか出なかったりして、だいぶ叱られました。今ではそれが大事であると考える人が大多数の世界に住んでいるのだなという理解はしているので、できる範囲で大事にしようとは考えています。

アルフレッド・アドラーは平等な人間関係の世界観を持っていました。わたしもそうだったので、アドラー心理学は非常に腑に落ちるものです。誰に認めてもらう必要もないし、上か下かで態度を変える必要もありません。仲間意識と率直なコミュニケーションが必要なだけです。

無意識的反応

今回も認知症の父とのやり取りから今回のブログのインスピレーションを得ました。わたしの父は昭和9年の生まれで、昭和20年に終わった太平洋戦争のまっただ中に初等教育を受けて育っていますから、軍隊式の力関係とタテ社会をバッチリと教育されたことでしょう。戦後の高度経済成長期はサラリーマンが戦国時代の侍のように戦ったようです。

「社会とは力関係である」父はきっと自分がそういう世界観を持っていることにすら気がついていないと思います。世界観ではなく、世界とはそういうものだと信じているから、別の世界観がある可能性にも気がつかないのだと思います。

父は、無意識的に人生脚本に沿って戦略的に人と関わって、勝ち負けにこだわり、上下を見極めて出方を変え、思い通りの人生を送るために一生懸命生きているのだと思います。世話をして欲しいし甘えたいのに、下には見られたくないし、バカにされるのは嫌なのです。ジレンマの中にいるんだろうなと思います。

本当に人が自由で自立した状態であるというのは、全世界の人たちと対等であり仲間であるという認識抜きには達成できないでしょう。父が信じているように「人に頼ることは自由を失うこと」ではありません。世話をしてもらったら立場が弱くなると考えているのは父自身なのであって、それが世界の姿ではありません。わたしも兄も、むしろ父が自立を続けるために必要なサポートをしているだけなのです。

でも、父にはそれが届きません。父にとっての世界観は、父のアイデンティティの源だからです。自分がどういう世界に住んでいて、その世界でどんなポジションなのかということ、その世界での自分の価値が、アイデンティティだからです。

牢獄のカギ

アイデンティティはこだわり過ぎると牢獄になります。父を見ていると父の牢獄が見えるのですが、以前は父が住んでいる世界に引きずり込まれることがあり、自分もイライラしたり悲しくなったりしていました。「甘えと自立」というタイトルのブログを書いた頃はそうでした。

次に、「老いとアイデンティティ危機」を書いた頃には、父の住んでいる世界と老いによる自分の変化で適応しなければならない現実のことを理解しました。

前回父に会ったときは、同じ世界に引き込まれないようになりました。それが「コントロールと愛」を書いた頃です。

今回は、わたしは、父のはっきり言わないコントロールに「ざわつく」ことをきっかけに、「自分が自分を縛っているアイデンティティの牢獄が何なのかに気付くことができる!」と気がついたのです。共有している世界があるからこそ、コントロールされていると気がつくし、ざわつくのはそこから出たいからなのだと思います。

「ざわつき」にこそ自由意思の発揮の糸口、牢獄のカギが用意されていたのです!

例えば、「娘だからそういうことをやらなければならない」と思い込んでいたことに気がつきました。わたしにも、娘とはどういうものでどう振る舞うべきかという固定観念があったのです。どんな娘も娘であることは変わらないし、嫌だと言ったところでわたしが父を愛していることは変わりません。

社会生活を行い、経済活動を行うにあたり、どうしても多数の人々と概念を共有する必要があります。でも、どんなに多数が支持する概念であっても、一部だけで全体に貢献しない概念にはその価値を再検討する余地があると思うのです。他人と過去は変えられませんが、自分の世界観を変えることは可能です。ちょっと難しいけれど、自分だけでも世界観を変えるとだいぶ楽に生きられるし、以前よりも更に希望をもって生きることが可能になりました。

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