煩悩を払う

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仏教の煩悩(=人の苦の原因(Wikipediaより))のひとつに三毒の「貪(欲)」というものがありますが、「煩悩を払う」と聞くとすべての欲をなくさなければならないと思う人が多いと思います。しかし、調べてみると仏教で克服すべきとされているのはすべての欲ではなく、貪る(むさぼる)ほどの欲のことをいっています。必要以上に欲することを煩悩のひとつとしているのです(Wikipedia)。

例えばわたしたちは生命を維持するために「食べたい」「飲みたい」「眠りたい」などの欲を持ちます。そうしようとしなくても、わたしたちは自然に食べ物を食べ、水を飲み、眠ります。

そういった欲求の対象を貪る、必要以上に欲するとはどういう状況でしょうか。

わたしたちが何かを貪るのは、食べものであればすごくお腹がすいている時でしょう。また、ダイエットの時に食べてはいけないと思うと余計に食べたくなるような、抑圧も貪りを生むきっかけになります。いけないと思えば思うほど食べたくなってしまいます。

ところが、野生の動物はどんな飢餓状態の後でも、満腹になると食べるのをやめると言われています。しかし、わたしたち人間は「別腹」と言いながら満腹になっても食べてしまったり、我慢した後に貪ってしまうことがあります。

この違いは何でしょうか。これは、わたしたちの脳と動物の脳の違いによるものなのだそうです。グリコのウェブマガジンによると、他の動物よりも大きく発達した人間の大脳皮質にある前頭連合野が過去の記憶から「もっと食べたい」という貪る欲を出すのだそうです。

わたしたちは発達した大脳が理性によって「もっと食べたい」「人より食べたい」「全部食べつくしたい」「体が壊れても食べたい」「地球環境を壊しても食べたい」「ほかの人たちが飢えていても自分だけは余るほど食べたい」という本能的な貪欲をコントロールしていると思い込んでいますが、実際には逆だということがわかります。

つまり本能は貪りませんから、わたしたちが普段理性だと思っている「考え」の部分が貪る欲を出しているということになります。

人間の過去の記憶感情と密接につながっているといいます。人間は人間の与える動力やプログラミングで動く機械や人工知能と違い、外的な刺激を受けてどんなリアクションをするかを感情を基に選んでいるともいわれています(「自由意思は存在するか~人間とAI」「素直であっても騙されないために」「自制と信頼、不安と欠乏」)。

たしかに「おいしかった」という過去の記憶が「また食べたい、もっと食べたい」という欲を発動するのは、体験的にも容易に想像ができます。

認知症で短期記憶に障害を持っていて新しいことを記憶するのができなくなっても、感情的に揺さぶられるような出来事があると、人の脳は新しいことを記憶することができるといわれています。以前のブログ「記憶と「私」」で紹介した脳科学者の恩蔵絢子さんがLIFULL介護のインタビュー記事「認知症でも体で感じた新しいことを覚えている―脳科学者が認知症の家族から気づいたこと」でそのことに触れています。

感情と記憶が密接であるのは、脳の部位としてもそれらが近い場所にあるということからも関連性がわかります。記憶は海馬という門番を通して残るか残らないかを決められていくといわれています。その記憶をつかさどる海馬に最初に障害が出るのがアルツハイマー型認知症です。一方、感情をつかさどるのは海馬にくっつくようにしてある扁桃体です。感情的にゆすぶられる体験をし、「これは嫌だったから(嬉しかったから)憶えておいた方がいいよ」と扁桃体が信号を出すと、海馬が機能できない状態のときでも長期記憶が蓄積されるそうです。

簡単にいえば、わたしたち人間は嬉しかったり嫌だったりしたときに記憶を残しておき、似たシチュエーションという刺激でそれを引き出して「またおいしい目に合おう」とか、「二度とひどい目に遭わないようにしよう」といった判断をするということになります。これが「必要以上に欲する」ということに繋がっているようです。

では、この「必要以上に欲する」ことから、果たしてわたしたち人類は解放され、満足を得て調和の中に戻ることはできるのでしょうか?

理論物理学者のカルロ・ロヴェッリさんの著書『時間は存在しない』には「記述には視点がついてまわる」と書いてあります。科学者がいくら世界を捉え客観的に記述しようとしても、観察者の視点からの記述しかできないのだそうです。また、彼は「現実は関係性によって定まる」と言います。わたしはこれを「今の自分から見た出来事の因果が時間であり、客観的な時間は存在しない」と言っているように理解しました。

「私」の視点から見えた出来事が起きた順番がある、ということが客観的な事実であって、客観的な時間というものがないとすれば、過去の記憶から何かを期待して同じ結果を得ることも、何かを恐れて違う結果を引き出すことも、自然の摂理の一部しか受け取っていないという可能性を感じます。わたしたちは必要以上に欲しているようで、限定された結果だけを欲しているということになっていないでしょうか。「私」が違う視点を持った途端、受け取れるものはもっと豊かになる可能性はないでしょうか。例えば従うしかないと思っていた家族と離れたら道が開けるなどです。

でも、わたしたちはアイデンティティのしがみつきのためになかなか「私」の視点を変えることを容認できないのだと思います。アイデンティティとは世界に対する自分の価値のことだからです。

アイデンティティの問題は、前出の恩蔵絢子さんが著書『脳科学者の母が、認知症になる~記憶を失うと、その人は“その人”でなくなるのか?』の中で書いていたように、何を喜ぶのかなどの感情にその人が宿るので、過去の経験から導いた理想の未来を思い通りに再現したり回避したりしようという思惑を持たなくなっても「私」が「私」でなくなることはないのですが、その人が決めた自分の価値はなくなってしまうように感じられることでしょう。例えば家族と離れたら根無し草になってしまうような不安などです。

そのようなアイデンティティの問題を抱え、意図的であることをやめられないわたしたちはまた、自分たちが意識できないものごとを「存在する」と認めていない文化の中に暮らしています。例えば霊や神や虫の知らせは「客観的」に記述できないので「存在しない」ことになっています。また、地球の裏側の誰かの感情や過去の名もなき人々の想いや、足元の小さな花や路地裏でじっとしているサナギや、そっと倒れた自転車を立て直した若者の存在や今この瞬間生まれた赤ん坊の存在などなど、個人が意識するまでその人の世界にはそれらは存在できません。

しかし、意識できなくても存在するものは存在するし、わたしたちの無意識はそれらを認識しているようです。脳の一部が脳血栓などにより視覚野に損傷を受けた人は、見えていると意識できなくても見ている、ということがわかっています(総合研究大学院大学の研究より)。大脳を持たない爬虫類や両生類などと同じ脳の仕組みで見ているからなのだそうです。以前は見えていると意識できないことは記憶に残らないとも言われていましたが、これも今では中脳の「上丘」を介して意識されることなく記憶されていることがわかったそうです。

わたしたちはこれまで本能や無意識を意識よりも劣ったもののように捉える文化を信じてそれを支えてきました。そして、もっとひどいことに損得勘定で選んだ言動や体調不良を無意識や本能の仕業と冤罪を押し付ける文化を持っているのではないでしょうか。

そんな身勝手な意識というのがわたしたち自身なのかとがっかりしてしまいますが、しかし、そもそも本能も無意識もわたしたちの一部ですし、むしろ意識されている部分の自我は無意識(超自我)の一部であるとユングは言います(詳しくは「自我と自己~チップからの解放は可能か」にあります)。

わたしたちは「意識する(フォーカスする)」ことによって理想の「未来」を創り出すために「過去」を呼び出して「現在」の振る舞いを選択するのだと思います。ここにわたしたちの視点から見た出来事の関係性が時間として発生すると同時に、「私」も関係性によって現実として定まるのかもしれません。そういう意味では関係性の中の視点がなければ時間は存在しないし、「私」も存在しない……。

現実」と「理想」の乖離が大きければわたしたちは自己同一性を失い精神を病んでいきます。「私とは○○である」で書いたように、「こうありたい自分」と「経験としての自分(自分が人と関わることで感じる自分)」の乖離が大きいと、人は精神を病んだり心身症を発症したりするのです。

でも、どんな理想もどんな正義も現実に勝つことはできません。皆さんご存知の通り、すでに起きてしまったことは1ミリも変えることはできないのです。また、子どもの成長のように時間がかかることは必ず時間がかかります。

そういう時には腹を立てたり悲しまず、「しょうがない」として後は無意識の領域に任せるしかないでしょう。無意識はわたしたちの意識が見落としたすべてをちゃんと見ていました。だから、きっと「私」に意識されなかった道の存在を知っています。その道を通って最も最適な場所へとわたしたちを導いてくれることでしょう。

無意識がすべてうまくやるのであれば、なぜ意識があるのでしょうか?

わたしは、その領域にこそ、本物のアイデンティティの拠り所、世界に対する人類の存在価値があるような気がします。自由意思がその領域にあり、過去の記憶から未来の理想を描くところを任されているという気がするのです。あとは、無意識や因果が勝手にやってくれることでしょう。人類はすでに野生動物たちだけでは想像すらできなかった音楽や絵画や彫刻や乗り物や庭園や建物を創り出しました。わたしたちが必要以上にどうこうしようとしなければ、とても自然で美しい調和のとれた地球を創造し続けられるのではないかと思っています。

そして、わたしたちが何千年もかけているのに今すぐ煩悩を払うことができなくても、無意識と世界や宇宙はその方向へ動いているのだと思います。だから、わたしたちは安心して日々を大切に感じながら、目の前のことに丁寧に取り組んで過ごせばよいのではないでしょうか。

いつかの未来には、煩悩を払った人類が地球を今よりも友愛に満ちたすばらしい場所にしてくれていることでしょう。

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