ハラスメントと良心

辞書を引くと、ハラスメントとは日本語でいうところの「嫌がらせ」のことなのだそうです。でも、嫌がらせではなく「相手の気持ちや事情にいっさい配慮せず、手段を選ばずに自分の思い通りにする」ことをハラスメントと呼んでいる気がします。つまり、相手の目的は「嫌がらせ」をすることそのものではなく、手段を選ばずに思い通りにすることであり、結果としてこちらが「嫌な気分になった」ことを指していると思うのです。嫌な気分になるのは、そこに合意がなく、最低限の敬意すら感じないからでしょう。

人間関係で悩むのはごく自然なことです。自分と他人が必ずしも同じことをしたいとは限らないし、人間は損得についての本能的な反応(損失回避)に知らずのうちに振り回されているからです。この損失回避の反応は神経科学的にも証明がされている「損したくない」「得したい」「現状維持したい」という生き延びるために発動する反応です。

でも、人が機械や化学物質と違って単なる反応ではない点があるとすれば、選ぶ意思という点に尽きると考えています。選ぶことで「私は何者であるのか」という問いに自ら答え、責任を引き受け、自分をデザインすることができるということです。

わたしは人間の意識「私」というのは、関係性の中でしか存在できない(自己の存在を認識できない)と考えています。「私とは何者であるのか?」という問いを抱えて生まれ、関係性の中で他者との差異を比べることで初めてその比較した範囲での答を得るのだと考えています。

イヤイヤ期の子どもはまさに、親との対立の中で自我の目覚めを経験しているのだそうです(事業ブログの書評「『選択の科学』レビュー」)。「自分はこうしたいのだ」ということがわかるためには、そうできない状態があって初めて認識するからです。

大人同士の対立では特に、金銭的な利害対立が生じたときに割と強めに自分の欲望の存在を認識すると感じています。社会全体がお金に大きな価値を付与し、その所有量によってその人の社会的な価値をも量る傾向が強いためではないかと考える(「価値と値付け」「壮大な問題に取り組む~後編」)からです。お金に関して思い通りにしようとする人をパートナーとしていた期間のことを苦々しく思い出します。

「思い通りにならない」ということを心理学などで「自由を阻害される」という言い方をすることがあります。自由とは「自分の意のままに振る舞うこと」と辞書にあります。自我にとっては、自分の意思決定権を自分の手に持っているということが大事なのだそうです。このことは、心理学でいわれる「ブーメラン効果」という現象に表れています。これは簡単にいうと「説得されると反発したくなる心理」のことです。自分の意のままに考え、表現することを「自己実現」と言います。つまり、与えられた条件に対して自分の意思で意のままに考え表現することで、世界に「私とはこういう者である」と宣言していると考えていいと思います。

一方、自分の好きなように相手のことを思いやらずに振る舞うことは、社会では一般的に「身勝手」と言われます。極端な例でいえば思い通りにできないから殺したとか盗んだという事件が起きたりすることがあります。これをわたしたち人類は長年「道徳(モラル)」という概念によって個々人の内なる良心を問うことで宗教や法律などに頼って何とかコントロールしようとしてきたのではないかと考えています。例えば自己犠牲を奨励したり、友愛を説いたりなどです。

哲学者カントは「すべての人間は良心をもっている」と言いました。わたしはすべての人間は同時に悪意も持っていると思います。もしカントが言うようにすべての人が良心を持っているのであれば、良心に従わない選択を選ぶという点においてハラスメントは悪意であるといえるでしょう。相手が嫌な気分になることを知っているのに思い通りにするのですから。なぜ相手が嫌な気分になることを知っていると断言できるかと言えば、思い通りにできないことを強引に回避するという状況から推測することができるからです。対立が起きたとき、「選択」は無条件に双方に発生します。

わたしは心理学を学ぶ中でアドラーの「目的論」(「目的と手段/意味と価値」)は自己実現の真理をついていると思いました。何かの結果でしかない自分(=原因論)から、次の結果を具現する主体である自分(=目的論)を取り戻せると感じ勇気づけられたのです。でも、賛成できない部分もあります。アドラーは「すべては選択である」と考えていたようです。わたしは「選択がすべて」だと思っています。アドラーが認めなかった「トラウマ」反応は選択ではないと実体験として感じたし、その体験から人間は持って生まれた器質的傾向によって限定されている部分があると考えるようになりました。しかし、同時に人間は自分の器質的傾向を知ることによって、隠れた目的を知り、別の目的に適った選択肢を見出し、主体性を取り戻すことができる機能がついているとも考えています。そのひとつが「目的」だと思っています。だから、人はトラウマを抱えても世界を違った観点から見ることができ、現実を変えることが可能なのだと思うのです。

わたしのトラウマはモラハラにあったことで発動しました。ハラスメントは相手の自尊心を傷つけます。でも、そういう言動に対して消極的な対処をすることによって自分を傷つけてしまうことがあります。わたしの場合は誤った損得勘定で相手が自分に不誠実であることを許してしまったことから、どんどん自分ではコントロールできないところまで行ってしまったと思います。

初期のころにとても象徴的な出来事がありました。思えばあれが分岐点であり、わたしはあそこでストップすることができたと今になれば思います。ある時、連絡をしてみたら空港にいて、お母さんが危篤なので帰省の最中なのだと言っていたのですが、後になって実際はその何年も前にお母さんは亡くなっていたことがわかりました。わたしは「あれ?」と思ったものの、「お母さんとっくに亡くなってたんだね。なんで嘘をついたの?」と聞くことができませんでした。それを改めて問わなかったわたしを、相手は「ちょろい」と思ったのだと思います。付き合っているうちに嘘をつくのは当たり前になり、泣き落とし、脅迫、罵声、無視、外泊などなど、どんどんエスカレートしていきました。ノーが言えないわたし自身が、自分で自尊心を守らなかったために壊れるがままになり、それが恒常化して無気力になってしまった気がしています。

この、あれ?と思うことを「レッドフラッグが立つ」と呼ぶのだそうです。レッドフラッグはどんな仕組みで立つのでしょうか。私の仮説は以下の通りです。

「すべての人間は良心と悪意を持っている」ので、わたしも相手の尊厳を無視したハラスメント的な選択肢があることはちゃんとわかっています。わかったうえで考えて選んでいるし、相手の出方を予測しながらやり取りしているのだから、相手がわたしの尊厳を無視した選択肢を選んだときは、ちゃんとレッドフラッグが立つのです。端的にいえば、わたしならしないことだし、言動の意図が分からないから違和感を感じるのです。

後悔ではなく反省として、レッドフラッグが立った時点で「嘘ついたでしょ」と声を上げなければならなかったと思います。レッドフラッグを無視したのは、その場の空気が悪くなるのを避けたかったからかもしれません。相手が嘘をつく人でもいいから付き合いたいという欲望だったかもしれません。嘘をつく人とでも幸せになれると思ったのか、いつか変わってくれると思ったのか、そのどちらもかもしれません。はっきり自分でもわかりませんが、いずれにせよ「嘘をついたあなたを信頼できないからお付き合いできません」とちゃんと言った方がよかったと思います。過去は変えられないので、この先はこのことを教訓に、この先はレッドフラッグを無視せず自分のためにも良心を選択していこうと考えています。