共依存の正体

共依存の正体

共依存は依存してくる相手に依存している状態のことです。

なぜ需要と供給があっているはずなのに幸せになれないのでしょうか?

自分の体験と心理学の勉強と自分自身の心理の分析と考察から、自分なりの考えを導きました。共依存の正体です。

生きるとは欲だ!

自分を含めた人間観察を通して古今東西を問わず人間に共通していると感じるのは、わたし達が欲望の塊だということです。

これは良い悪いをさておき、存在するという状態を続けることと、欲があるということは、切り離せないシステムなのだと感じます。

太古の神話や映画や小説を紐解いてみても、生物として生命を維持したり、種としてヒト科の哺乳類として存続したり、大小さまざまな社会の中で生き延びたりすることは、欲と切り離して存在することができないシステムなのだなぁと感じたのです。

たとえば、わたしがお肉を食べないということは、わたしがわたしらしいということの一部です。お肉は食べたくないという欲を通して生きています。お肉を食べても食べなくてもわたしはわたしですが、きっと知り合いの間では「あのお肉食べない人」という共通認識があるはずです。みんなで集まろうというときに「このお店だとわたしは困る」「こっちのお店にしたい」と主張しないといけないこともあります。集まるメンバーがみんなお肉を食べたいときは、わたしを呼ばないということもあるでしょう(笑)

このブログで何度も書いている通り、良い悪いは価値観であり、価値観は何を基準にとらえるかによって変わります。

価値観を混入させないで、つまり良し悪しをなるべく考えずに事実として欲の存在を認めてみると、どんな貪欲さも「頑張ってるなぁ」と貪欲な人がけなげに見えてしまうことすらあります。

わたしだって、自分に都合の良い相手をいい人だと思ってしまうし、自分に都合の悪い人を厄介だと思う傾向がきちんと備わっています。

この自分の都合というのはなるべくなら自分では見たくない「欲望という化け物」だなと感じることがあります。

自分の都合ばかり押し付けてくる人をわがままで面倒な人だと思うし、自分ではなるべくそういうことをしないようにしようと思っているところがあります。結局のところ「嫌われたくないという欲」でしょうね。

わたしだって飲み会に誘われないのが嫌だったら、お肉を食べないことを隠すことも可能です。

隠したつもり

嫌われたくないし、むしろ感謝されたいし、わたしの存在意義が感じられるように生きたいと思っているんです。拒絶に遭うのはとてもつらいことだし、喜んでもらえるのはとてもうれしいことだからです。

例えば、人にアドバイスをするときに、余計なお世話だとわかっていながら言うことは、自分にとって都合の良い振る舞いをして欲しいという代わりに、「その方が得だよ」「その方がいいよ」と説得しようとしていることがほとんどだと悟ってしまいました。さもその人にとってもメリットがあるかのように言いますが、本当のところ、その人がその人らしくいられる自由を奪っているだけのような気がすることがあります。

お肉飲み会の例でいえば、自分がお肉を食べたくないといわずに「お肉は体に良くないんだって。違う店にして野菜を食べたほうがいいよ」というなどです。余計なお世話にもほどがありますね。

この任意団体の活動も同じように感じることがあります。自分で始めておきながら、余計なお世話だよなと思うので、あまり力を入れて宣伝していません。

そして、こういう遠回しのお節介をしている理由には、反対されたり拒絶されたりしたくないというわたしの都合が入っているのです。

どちらも自分の欲望を見たくない、自分は良い人でいたいというエゴがあるからでしょう。どうせエゴがあるのであれば、そのまま認めてまっすぐ出した方がよっぽど潔くかっこいいと思うようになってきました。

共依存の正体とは…!

それは「隠そうとした欲」ではないでしょうか!?

隠れてると思っているのに見えているかっこ悪い欲です。

とすれば、欲をかっこよく出すように努力するしか、共依存関係に陥ってしまうことからは脱出できないのではないか?という結論に達しました。

かっこいい欲

かっこよく欲を出すにはどうしたらいいのか、考えてみました。

かっこいい欲の表現というものがあるとして、イメージしてみると、「わたしはこうしたいけどあなたはどう?」と率直にどうしたいかを出し、相手に拒絶する権利も与えつつ提案することなのかと思います。

共依存ではない、Win-Winの関係になるための第一歩は欲をストレートに出すことのようです。

そのうえで、意見が拮抗した場合に、どちらもある程度譲歩しつつある程度納得のいく着地点を見つけるか、どちらも100パーセントハッピーになれる第3の選択肢を一緒に考え出すか、というWin-Winへの道へ続くのではないでしょうか。

頭でっかちで実践が伴わないのでは仕方ないので、まずはパートナーを選ぶ条件として、巧妙に隠そうとするわたしの欲を見抜く力を持っていて、「そういう言い方をしてるけど、それは自分のためだよね?」と指摘できる人を探しました。ごまかしがきかないので実践できています。

が、とても難しいです。理由は、長年の間に身に沁みついた考え方の癖、慣性の法則を脱するのは辛抱がいるからです。

逆に共依存になってしまうパターンを少し見てみましょう。どうして需要と供給があっているはずなのに幸せになれないか掴んでもらえれば幸いです。

お節介お化けと罪悪感地縛霊

上の「余計なお世話タイプ」はさも相手のためと言いつつ相手が自分の選択を採用してくれるように仕向ける共依存です。

わたしがこれをやるときは、無意識ではありましたが、自分の欲を認めたくなく、拒絶されることがわかっており、感謝されつつ受け入れてもらおうという隠れた意図があったと思います。

依存しているのに力関係では優位に立ちたい人との間では、こういう方法で自分の欲を通すしかなかったのでしょう。うまくいきそうでダメだった理由は、お互いに思い通りにしようとしていたから。

相手にお節介をはねのけられた場合に、自分は「せっかく人が良かれと思って言ったのに」と怒っていると思っていましたが、自分の欲が通らなかったことに腹を立てていたのだと思います。思い通りにできなかったことを怒っていただけで、相手のことを考えていたわけではなかったと思います。

今は、自分がお節介ババアやろうとしてるとわかっているときは、なるべくその裏の自分の欲についても話すようにしています。

この「お節介お化け」については現在書き進めているものがありますので、おそらく次回にアップします。タイトルは「悪意の善人あるいは善意の悪人」です。

もう一つ共依存でありがちなのは、「相手のせいで不幸になる」というヤツです。決定権や決定の動機を相手に渡しておきながら、不満を蓄積して恨みがましい地縛霊になるという恐ろしいタイプです。地縛を自縛とか自爆と書き換えたいくらいです(笑)

うまくいかない理由はお節介お化けと同じで、どんなに欲をなくしたつもりでも、欲はなくならないから、嫌なやり方で相手を思い通りにしようとするだけでした。うまくいっても相手はなんだか嫌な気分が残るし、うまくいかないなら相手に対する不満や恨みが残るのです。

わたしは今でもこれをやりがちです。この方法では結局誰も幸せにはなりません。わかっているのに、やってしまうんですね。困ったものです。

このタイプが自分でも嫌なのは、罪悪感を利用して相手を思い通りにしようとするというところだと思います。

「いいよ」と言いつつ、不満を薄く募らせていき、どこかの時点で「いつもやってもらってばかりで悪い」と思ってもらうことを期待し、それが実現しないと恨むというパターンでした。

これをやられる立場に立つとすごく気分が悪くなります。相手の望むことを察知してやらないと相手はどんどん不幸そうになり、やらないというチョイスはなく、やらなければ自分が悪者にされるからです。だから、こういうことは人にはやっちゃいけないことだと痛感するのです。

最近では、自分の不満に気が付いたらやっちまっているというサインだとわかるようになってきました。気が付くのが少しでも早くなり、まったくやらないというところまで行くのが理想です。

この、「罪悪感地縛霊」については50年ほどの経験と30余年の考察と研究が集大成を迎えつつありますので、少しずつ書き進めています。こちらも次々回くらいにアップ予定です。

思い通りにしたい、拒絶されたくない

まず最初に思い通りにしたい欲があり、次に拒絶されたくない欲が続き、そういう自分の欲を隠したい欲が最後に事を複雑にします。

なぜ欲は良くないと考えているのでしょうね。ぜひ一度じっくりと考えてみてください。

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