所属感覚と恥

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前回の「変化の時~ポストコロナに寄せて」を書いていて、モラハラのロジックについて考えたことで書きたいことが付随して出てきたので書いてみることにします。

どうしても思い通りにしたい!

モラハラであれ、パワハラであれ、ハラスメントや虐待を行う人々が持つ、「どんな手を使ってでも自分の思い通りにしたい」という思いはどこから来るのでしょうか。

おそらく、本人は「どんな手を使ってでも」という部分に自分で気が付いているわけではないような気がします。そこには本人なりの正当性や正義があるように思うのです。

“そうしなければ絶対にダメだし、そうしないと大変なことになるからそうするべきなのだ”
“実際世界はそうなっているのだから、そうでなければならないのだ”

それがイラショナルビリーフであったとしても、それはその人がそうあるべきと感じ、それを理想とし、そう信じているのだから、その人の世界では100パーセント正しいのだろうと思います。

例えば、「力のあるものが支配して弱い者はおとなしく従わなければ絶対にだめだし、そうしないと別の力のあるものに支配されて大変なことになるから、力のあるものが支配するべきなのだ。実際世界は弱肉強食なのだから、強い者が弱い者を支配しなければならないのだ」とか、「女は男の言いなりになるべきだし、女が出しゃばると大変なことになるから男が強くあるべきなのだ。実際歴史を見てもそうあったのだし、そうでなければならないのだ」とか、「大人は子どもを厳しくしつけなければならないし、しつけない子どもは生意気になって酷いことをやらかすから厳しくしつけるべきなのだ。実際子どもは何も知らずに生まれてくるのだから、大人が教えてやらなければならないのだ」とか、いくらでも昔から世にあふれているイデオロギーを当てはめることができますよね。

こういったイデオロギーは、対象とされている側には「押しつけがましく独断的」に感じられますが、主体的にイデオロギーを発信する側としては「過去のデータに基づく正しい考え」と感じているのだろうと思うのです。

そして、対象が自分のいうことを聞かないと、本当に「実際そうなっている」ならば必要がないはずの実証を自らがする=コントロールする、つまり「思い通りにする」という結果に繋がっているのではないでしょうか。

ハラスメントのロジック

前回のブログを書いているときに考えていたのは、モラハラだけでなく、DVやパワハラなどありとあらゆるハラスメントのロジックのことでした。

ハラスメントは「脅し」という性質を持つと思うのです。

暴力であれ言葉の暴力であれ、「嫌なら従え」というのがハラスメントのロジックの根底にあるように感じるからです。それを、「嫌なら従え」というところを言わずに、相手がどうしても従わざるを得ないように仕向ける方法が、殴る蹴るの暴力、罵倒や侮辱などの言葉の暴力、無視やさげすみなどの態度による暴力、経済的な制裁を与える暴力、ガスライティングのようなマインドコントロールなどであると考えています。

以前のブログ「コントロールと愛」では、そこのところを「相手に断る権利を何らかの方法を使って渡さない」というソフトな書き方をしました。

なぜなら、例え「思い通りにしたい」という認識があったとしても、前述の通り本人には正当性や正義があり、自分が思い通りにするために相手を「脅している」というはっきりした認識がない場合が多いと思っていたからです。

むしろ、「こうあるべきなのに、どうしてこの人はこんななんだろう」「この人は常識がない人だ」「この人は頭が悪い」「気が利かないやつだ」「空気が読めないのかよ」「気付けよ」などと思っているかもしれません。

相手の行為が公共の福祉に反すると考えているならば、法に訴え「正しさの戦い」に持ち込むことも考えられるでしょう。そこまでいくと、ハラスメントなのか、正義なのかということは見えにくくなっていくように思います。

しつけとハラスメント

特に今回考えたのは、所属感覚を使ったハラスメントについてでした。これはハラスメントの中でも非常に大きな力を持つものである気がします。そして、日常にあふれているハラスメントだと思います。

例えば、わたしは小さいころ、母に「他の女の子たちはもっときれいな字を書くでしょ。そんな男の子みたいな汚い字を書いていて恥ずかしくないの? せめてマンガ文字(昭和の丸っこい文字のこと)でいいから練習すれば?」といわれたことがあります。

字が汚いことはあまり恥ずかしくありませんでしたが、今でも憶えているのでそういう考えが印象的だったのだとは思います。男の子でもきれいな字を書く子はいますし、考えると男の子にもずいぶんと失礼な言いぐさですね。マンガ文字の批判もさりげなくしています(笑)

男の子だろうが女の子だろうが、読み手のことを考えればきれいな字を書いたほうが良いでしょうとは思いますから、読み手のことを考えて書いてあげたらいいと思うという言い方をしてくれていたら、当時のわたしももう少し考えたのかもしれません。

でも、母はわたしを「女の子なのに女の子らしくない」「恥ずかしい」ということを指摘することできれいな字を書けるようにさせようとしたのです。

これはかくいうわたしも使ってしまうロジックです。「人間として恥ずかしくないのか?」という批判をしがちです。わたし自身も、そういう批判をすることで、自分が理想とする行動を相手に強要できると考えている証拠だと思います。

「お友だちに笑われるよ」とか「そんな子一人もいないよ」も常套句でしょう。

所属感覚は助け合うことで危険から身を守り効率よく食料調達する上で必要な感覚なのでしょう。

またわたしは、人間は「自分は何者であるか」というアイデンティティの問いを抱えて生まれたと考えているのですが、所属感覚はその答えを与えてくれるひとつの基準になっていると考えています。

わたしたち人間が「私とは○○である」という認識(アイデンティティ、自己同一性)を得るには、いくつかの方法があります。基本的には「私」と「私ではないもの」の違いを感じることによって認識することができます。また、自分が所属すると感じるグループ(内集団)とそうではないグループ(外集団)を比較したときに感じる、自分の所属するグループとの一体感によって認識することもあります。

「恥」を外から指摘することで、その人が大事にしている自己同一性を否定して、言うことを聞かないと仲間外れにするという脅迫は、例え子ども相手であってもハラスメントとなり得るのではないかと思うのです。

戦争における所属感と恥

わたしは普段、太平洋戦争の被害を調べて書く仕事をしています。毎月最低50時間をその作業に費やしています。4年ほど続けており、その間たくさんの戦争体験談を読んできました。その中で、戦争はこのハラスメントのロジックを使っていると考えています。戦争そのものが暴力による外交なのでハラスメントですが、国民に対してもハラスメントを行っていると考えます。

太平洋戦争が終わって、戦地から命からがら帰ってきた兵士たちの中には、生きて帰ってきたことを恥じていた人たちが大勢いたようです。せっかく命拾いしても、それを喜ぶどころか恥ずかしいと感じ、家から出られなかった人や地元を離れた人も少なくなかったようです。

死にたくて生きている人などいません。それを「お国のため」と死ぬ覚悟で戦地へ赴かせるにはモラルを使ったハラスメントが利用されたのでしょう。

生きて帰ったことを恥じた人たちは、明治時代から始まった「愛する家族の住む日本という国を命を賭けて守れ、戦え」と教育を受け、そういうアイデンティティを自身の中に育んだことでしょう。実際、死ぬのが怖いと言えば「非国民」「貴様それでも日本男児か」と非難されるので、そんなことはおくびにも出せなかったと語っている人がいました。勇ましく進んで戦うこと以外が選べなかった人が太平洋戦争だけで約710万人(うち310万人が戦死し、そのうち140万人が餓死したといわれています)もいたのです(データ:毎日新聞(有料) / 『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』 (中公新書))。

縦社会で恥の文化を持ってきた日本。平和なときは秩序があり気遣いにあふれています。でも太平洋戦争中は、縦社会はパワハラを許す土壌となり、恥の文化はモラハラを許す土壌となってしまったのでしょう。恥の文化は軍隊の中だけでなく市民の中でも隣組などのシステムに利用され、「No」を言わせない、「No」が言えない人間関係を強化したようです。

ただ、恥の文化は日本のものだと思われていますが、恥は「罪悪感」に似たものであり、それは世界中でハラスメントの道具として悪用されてしまうことがあります。自分が大切に思っているものを使って、他人から感じさせられた恥や罪悪感よって苦しむ人がいるというのはとても悲しいことだと思います。

思い通りにされない

相手が恥を使って自分に何かを強要してきたとき、正しさで対抗するのも逆ハラスメントとなります。どちらもその人の視点からは正しいので、相手は自分に従わせようとしてくると捉えるでしょう。これが「アンチの壁」です。

ひとつできることは、恥ずかしいという思いを抱かないことです。

わたしが子どものころ、母に「恥」を使って字をきれいに書かせようとされても動じなかったのは、わたしが自分に満足し、自己一致していたからだと思っています。

子どものころのわたしは周囲に無頓着でスーパーマイペースで空気が読めない協調性のない変わった子どもでした。何となく周りにそれほど興味がなく、かつ、自分の中にあまり矛盾がなかったのです。ただ単に発達が遅かったのかもしれませんが。

「女のくせに!」という呪いがわたしに効くとすれば、それはわたし自身が「女とはかくあるべきものであり、私は女だから、よって女らしくなければならず、女らしくない私はダメである」という考えを支持しているからだと思うのです。

「あなたにとってはそういう定義なのね」と受け流せれば、嫌な思いをすることがなくなるかもしれません。

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