ダイバーシティとインクルーシブで起きる矛盾

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この活動の原点は、私が9歳前後でアンネフランクに出会ったこと、壷井栄の『二十四の瞳』に出会ったことにあります。
私の中に湧いた大きな疑問です。

なぜ人は差別するのか?
なぜ殺し合うのか?
なぜ人は愛し合うのか?
人を殺す人の中で、殺す相手と愛する相手の違いは何なのか?
差別と区別は何が違うのか?

ちょうどその頃私は自分のセクシャリティにも気が付きました。
セクシャリティの問題に関しては、早々に愛すること自体は対象が何であれ問題になることはないと結論づけました。
それは、愛する対象に制限をつけたり愛の種類に制限をつけたりすることのナンセンスには気が付いていたからです。むしろ、その制限を破ったものを忌み嫌い、憎しみのうちにコミュニティーから追放したり罰したり、断罪することの方が「愛が大事である」とする宗教的なモラル観に適っていないのは明らかだったからです。
そのため、セクシャリティについてはほとんど悩みませんでした。
一方で、それにまつわるジェンダーの問題には本当につい最近まで悩んできました。
だからLGBT+の活動ではなくこのジェンダーの活動をしているのです。

差別はよくないと思う人々の矛盾

80年代の後半、アンチジャパンの風が吹き荒れ始めた頃のレーガン政権下のアメリカに、私は高校留学をしました。
私の留学を実現してくれた団体は第二次世界大戦後にドイツ人の青年たちをアメリカに留学させて交流することで相互理解を深めて、戦争のない世界を実現させたいとした人たちが始めた団体でした。ナチスドイツの教育を受けた青少年をアメリカナイズしようということもありますが、アメリカ人の中にもドイツ人に対する憎しみや敵対心を減らす目的があったと思います。
このプログラムに参加するために、小論文を書く必要がありましたが、私は迷うことなく人種差別に興味があるということを書き、審査に通過して中西部の黒人の一家にホームステイすることが決まりました。
この1年間の体験は私に多くの気づきを与えてくれました。
アメリカでは差別が日本よりはっきりと見える形で堂々と行われ、差別も被差別もアンチ差別もそれぞれがそれぞれの価値観とか意見という形で存在を許されているということです。
アメリカで差別する人を激しく差別する人がいるという矛盾した事態を目の当たりにしたとき、「なぜ人は差別するのか?」という問いは「この矛盾を超えて差別のない、あるいは少ない世界を実現することは可能なのか?」という問いに変わっていきました。
差別すること自体が本当に問題なのではないのではないか? もっと別の問題がこの後ろに隠されているのではないか? と思うようになったからです。

差別する人を差別しない

ダイバーシティーという考えは二律背反を呈しています。
インクルーシブも同様です。
ダイバーシティやインクルーシブを支持しなかったり否定したりする考えの人々を排除すると、それはダイバーシティーでもインクルーシブでもなくなるからです。
私自身にはとてもシンプルな答えがあるのですが、それをいまだにきちんと言葉にして伝えるすべを見出していません。
言葉や人間の物事の認知の方法にどうしてもそれを上手に伝えるのを邪魔するような仕組みが入っていて、しかしそれなしには言葉による考えなどの交換をすることができないというジレンマがあります。
私はこの宇宙は二元論的なコンピューターの世界で言えば1か0かというようなとてもシンプルなものの複雑な繋がりでできているのではないか考えています。
このシンプルなものを何重にも色々な形で組み合わせていくと、時間や空間などが立ち上がり、それらと同じ構造で私たち人間の認知も行われると考えています。
それは、世界や社会、人間の関係性を論じているようで、個人の認知とか認識という領域に必ず立ち戻るような、不思議な感覚を伴う一つの運動だと捉えています。
証明ができないのですが、二元論の単純で美しい構造を保ちながら決して排他的にならずに新しい地平を見るという法則がありそうだと感じているから、それを求める道をまずは私自身が歩いてみようという試みでもあります。
とても単純なのに同時に複雑で、共有するのは大変だと思っています。
永遠に反対物を内包して新しいものに変わり続けるという永久運動そのものであるということで何かを掴んでいただける方がいらっしゃれば幸いです。

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