老いとアイデンティティ危機

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コロナ禍でなかなか家族意外の人と関わる機会が少ないので出現頻度が多くなりがちですが、また認知症の父の話を書きたいと思います。

父が認知症になったおかげでアイデンティティについての新しい気付きを得ることが多くあります。

わたしたちは一貫性を保とうとします。これを心理学では「一貫性の原理」と呼びます。人が自分の信念や言動に一貫性を保とうとするという性質のことです。

一貫性を保つには、記憶が非常に大きな役割を担います。わたしの父は非常にたくさんの不文律で日常を埋め尽くしています。ティッシュペーパーはきちんと折りたたんで使いますし、ドアは開けたら必ず閉めますし、スリッパは揃えて脱ぎます。一見ただ積み重なって見える紙の束も、山ごとにグループ化されていたり、位置に意味があったりするようです。もちろん引き出しや書棚はカテゴライズされグルーピングに従って整理されていますし、空間にも時間にも動作にも意味が付与されて記憶されているようです。どこに座るかで何をするかが記憶されていたり、見える景色などの体感で憶えるようになっているものもあるようです。朝ご飯は冷蔵庫の上から順番に食べるものを準備しているそうで、その説明をしているときは冷蔵庫を開けるしぐさから始まって、上から指をさしてあたかもそれを目の前に見ているかのように動きます。

この能力のおかげで父は自分の力で認知症のハンデをかなりカバーできています。ルーチン化が短期記憶の障害を補っている状態です。若いころは同じことを繰り返して飽きないのかと思ったりもしましたが、観察しているとそういった工夫がいかに父を助けているのかがよくわかり、感心しています。これは以前のブログ「記憶と「私」」でも書いた「スクリプト」という動作や習慣といった一連のまとまりのことです。

このスクリプトは父の日常の一貫性を支えています。だから、父のアイデンティティの一部であるといってもいいと思います。きちんとした生活を送る自分というものを支えているからです。

今の父は認知症とはいえ、新しいものごとを全部覚えられないかというと、そうではないのが面白いところです。人の名前は憶えられなくても新しい人の顔や新しい出来事は結構憶えています。ちょっと複雑なことなど集中して理解しようとしないといけない事柄は、気力なのか何なのかめんどくさくて嫌だと言っています。おそらく、同じ部位の脳しか使わないで生きているのでしょう。

めんどくさいことを一切やらないという一貫性もあります(笑)。

冗談はさておき、新しいものは苦手でも、認知症(本人は「まだ物忘れで呆けではない」と言ってはいますが)という変化は受け入れています。はたで見ながら、変化を受け入れたうえで、それでも自分が何者かという問いに答え、同一人物として存在価値を自分で見つけるというのは非常に難しいだろうと想像しています。

「アイデンティティ危機」は青年期(思春期:13歳~)のみに起きると心理学の授業で習いましたが、実際には人生の節目(乳児期(生後~)から老年期(65歳~)まで8つに分かれているとされる)の変化ごとに訪れるように思います。これを提唱したエリクソンが発達心理学の専門なので青年期までの区分けが細かく、成人してからは20年くらいずつの区分けでおおざっぱになっているせいでもあるでしょう。むしろ成人してからの方がわたしには危機のようなものが多かった気がするのです。

以前のブログ「「私」が変わる時」で引用した本『トランジション 人生の転機を活かすために』にあるように、変化せざるを得ない時(トランジション)は、個々人の環境的内的条件的なタイミングが重なったときに必然として現れるので、人生の節目は人それぞれだし、その難易度もそれぞれだと思っています。でも、中でも老年期はとりわけ大きい危機なのではないかと思います。中年期危機よりも。

それは、老いには死という最大の変化が控えており、それを示唆するサインがいたるところにあるからです。肉体的な変化は壮年期(40~64歳)から始まり、わたしたちはそれを「衰え」というネガティブな意味を持たせた変化として捉えています。その前に「死」を忌み嫌いネガティブに捉えていますから、それを想像させるすべてを嫌っています。「死」そのものを理解しないまま(できないまま)恐れているといっていいでしょう。

まだまだ時間があると思っているうちは、変化に対応したアイデンティティ確立の中で希望を抱くことができますが、いよいよ老いの特徴が顕著になってくると、リミットを感じると思うのです。老いて死にゆく自分しか見えないなら、「私とは○○である」をその変化の中で見出し続けるのは難題なのではないかと思います。

例えば、それまで自分らしさだと思っていたものが老化という変化によって無くなったとき、何をもって自分を自分らしいと定義すればいいのか。それまで自分の社会における価値だと思っていた者が老化という変化によって発揮できなくなったとき、何をもって自分はこの社会に存在する価値があると認識すればいいのか。そしてそう遠くない未来には社会に別れを告げて死にゆくという存在としての社会的価値はあるのか。死を待つだけなら、すべてのことに何の意味があるのか。

死なない人が存在しないという点において、本当は老いを待たずともすべての人がこの問いを生まれた瞬間から持っているのだと思っています。老いたときの変化だけ老化と呼ぶのはおかしなことで、成長も変化のひとつでしかありません。ただ、持っている未来の時間が違うと思っているから、また、死をネガティブにしか捉えていないから、もしかしたら一番人生で一番豊かな変化を楽しめる時間を、無駄に暗く過ごしてしまっているのかもしれないと、いろいろ工夫しながら気ままな一人暮らしと自分らしさや尊厳を守っている父を見ながら考えています。


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