思うツボとモラハラ

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前回予告した「思うツボ」ということについて、書きたいと思います。
「思う壺」を辞書で調べると、時代劇に出てくるような、昔のサイコロ賭博で、サイコロ振り師が壺にサイコロを入れて「さあ、張った張った!丁か半か!」とやる、あのサイコロを入れて振る壺のことを指していて、振り師は丁(偶数)も半(奇数)も狙い通りに出せるということから、「相手の思うツボ」という言葉ができたとのことです。

この思うツボとモラハラの何が関係あって、前回からどう繋がるのか?
これを楽しみに最後まで読んでいただければ幸いです。

わたしに会うと、大抵の人は弱々しくない見た目だし態度だしなぜモラハラにあったのか不思議に思うようです。
割とはっきりとものを言いますし、好き嫌いもハッキリしているため、自分をしっかり持っているという印象を与えるようです。

確かにその通りで、弱さについては後述しますが、どちらかというと人に流されにくく、人の目はそれほど気にならないし、しっかりとした独自の考えを持っています。
ものをハッキリいうということは、裏表がそれほどなく、いうタイミングや言葉を選んだとしても、なるべく嘘のない情報を相手に伝えることを心がけています。これは相手に正しい情報を伝えることが相手の正しい判断のためには必要だと考えているからで、それはお互いの関係がフェアであるために必要だし、そのフェアさは相手との関係における自分の責任感と相手に対する信頼(相手の自由・選択・意志の尊重)から出ているものです。

モラハラはモラルを使ったハラスメントですから、わたしがどういうモラルに従って生きているかということがハラスメントのターゲットになります。

モラルというのは「私」という人間が何を大切に生きているかという、個々人の価値観の問題です。この価値観に従って、自分の外側で起きる出来事に対して、どういう態度を取るかを決めます。これがアイデンティティです。「私とは〇〇である」に詳しく書いた通りです。
わたしのケースで説明しましょう。わたしは人間関係におけるフェアネスを大切に生きています。フェアであるということに価値を見出していますから、前提として相手を信頼し、相手の選択の自由と意志の尊重を優先します。

ハラスメントをする人の意図は相手を自分の思い通りにして目的を達成することです。
わたしは相手が明らかに嘘をついていると気がついている場合でも、その選択を尊重します。嘘をつく、裏切るという選択を阻害することは自分の信念に背くことになるからです。
相手がいい人である場合はいいのですが、悪い人であればこれを簡単に騙せる相手として利用することを許してしまいます。
わたしはまた、前提として相手を信頼するということを信条としていますから、一度嘘をつかれたからといって、相手を疑うことができません。

なぜその信条が変えられないかというと、その信条を守っているということが、わたしにとってわたしが社会という外側の世界に対して見出している自分の価値でもあるからです。もし、それを裏切ったら、わたしがその価値観のフィルターを通して見ている世界における、わたしの価値がなくなってしまうからです。

わたしの場合は他にも責任感の強さ、姉御肌、面倒見の良さ、必要とされ頼られる、率直さなどもあり、一つだけではありません。

これが、モラルのハラスメントにおける「自ら進んで餌食になってしまうシステム」です。

だから、実は自分で「これじゃ相手の思うツボだ」とわかっているところもあるのです。認めたくないだけで。認めたくないのは、被害をこうむることよりも自分の価値がなくなることへの不安や恐怖が大きいからです。

価値ということを別の言い方をすれば「これが正しい」とか「こうあるべき」です。それは「これ以外は認めない」ということでもあります。そうでない人がいれば批判することもあります。わたしの場合は「人を批判する」ということも批判の対象なので、「〜べき」ということを他人に押し付ける人を批判します。

例えば、わたしは人の役に立つことが価値でもあるため、誰かに「助かった」と言ってもらえることが価値のフィードバックになります。
モラハラを受けた時に罵倒されて一番辛かった言葉が、「役立たず」という言葉でした。
だから、助けないという選択をするのが辛いのをこのように誘導されるのです。
わたし自身自分の選択の自由を行使しているような気分ではあるものの、してやられた感も必ずあり、「ノー」を言えないという辛さに相手に対する恨みが募りました。
しかし、恨みを抱く自分というのも自分の理想から離れたものであり、何とかして恨まない自分でいよう、快く引き受けようと努力します。

さて、前回「価値観が一致しない人と一緒にいる必要はない」、ということを書きました。
わたしがモラハラの共依存関係から脱出を勧めるのは、そう言った背景があるからです。

時には自分の信条信念を裏切る勇気も必要です。
まるで自分の価値がなくなってしまうかのようで、本当に辛い決断ではありました。
でも、わたしの問題ではなく、組み合わせの問題なのだと考えています。全ては、何かが「悪い」のではなく、求めているものを実現するのには組み合わせとして合っていないのだと。

モラハラをしている人はその人の価値観に従って、立派に生きています。わたしの価値観と違いすぎてわたしはそういう人といると不幸な気分になります。
だから、わたしが大事だと思っているような価値観を共有できる人と、同じ理想に向かって歩いていければいいだけなのだと思います。

ただ、理想の自分を実現することに夢中になりすぎていると、つまり自分の価値を感じることに執着しすぎると、それを簡単に実現してくれるような相手を探してしまいます。
わたしの場合は、人の役に立ちたい、喜ばれたい、という点です。別の言い方をすると「必要とされることを必要としていた」のです。
これがわたしの弱さでした(他にも何点かあるのですが、ここではこれだけにしておきます。別の機会に譲ります)。
だから、それを実現してくれる人が現れて、役に立つとこの上もなく喜んでくれて優しくしてくれる、役に立たないと「この役立たず」と罵る、不機嫌になる、無視する。そうやってわたしの行動を飴と鞭で強化する。本当に相手の思うツボだったと思います。

今のわたしはおかげさまで大きなことを学びました。

「自分が役に立ちたくない時は、別に役に立たなくてもいい」
「それでわたしの価値がなくなることはない」
「わたしが心からしてあげたいと思ったことでなければ、やってもむしろ価値はない」

と思えたら、人間関係がだいぶ変わってきました。
「モラハラの仕組みを考える」という勉強会の報告では「共依存になりがちな人は他人の責任をとってはいけないということ!」と結論を出しましたが、同じことを違う言い方で書いていると思ってください。

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