善意の悪人

悪意の善人あるいは善意の悪人

前々回のブログ「共依存の正体」で予告した「お節介お化け」のお話です。

慾~Greed

これは自分もやりがちなことですが、英語で言うGreed(強欲、貪欲、欲張り)を隠すためにあたかも相手のためのように何かを勧めることがあります。この場合の「欲」は、貪(むさぼ)るという意味を含んだ「慾」となって、欲しいものは手に入れますが、人間関係は失うことになります。

共依存の関係でモラハラなどを受けている人がやりがちなのが、この「わたしがいないと」「無条件の愛で包んでいれば、この人もいつか本当の愛に目覚めるに違いない」というお節介ではないでしょうか。

わたしはそうでした。これを認めるのは恥ずかしくつらいことでした。今でも難しいと感じることがあります。

ところで、この「せっかくやってやったのに」という「お節介お化け」は、自己愛性パーソナリティ障害の人には通用しません。通用しないということについては、「罪悪感地縛霊」のおかげで耐えてしまいました。

罪悪感地縛霊については別の機会に説明します。

無条件の愛ではなかった

「相手のためになること」ではなく「正しいこと」を押し付けてくる人の迷惑さは十分知っているはずなのに、わたしはこれをやっていたのだと認めます。

いつか、気づいて、変わってくれると、信じたかったんです。

間違っていたと思う点は、以下の通りです。

  • いつまでたっても自分が幸せにならなかったこと
  • 相手を否定して変えようとしている点において無条件の愛ではなかったこと

事実はどうか

自分に対して厳しい見方をしているといわれることがありますが、本当にそうでしょうか?

相手を傷つけると自分が傷つくから、それを回避しようというのは瞬間的にはいいやり方だし、自分を大切にすることはいいと思います。それ自体は悪いことは何もないし、ここでも「正しさ」を議論するつもりはありません。

ただ、そもそもわたしは何のためにそれをしたのか、その目的は果たされているのか?という自問に答えると、事実とずれがあることに気がついたということです。

目的は私自身が幸せになるために相手を選んだはずです。そして、事実はその相手といても幸せではないということでした。事実は相手と自分が幸せになれると証明しようと努力しているだけでした。自分の選択の正しさを作り出そうとしていました。心の底から「あぁ、幸せだなぁ」と感じたのは最初の数カ月でした。

幸福と希望」でも書きましたが、わたしは、幸せとは状態のことであって対象ではないと考えています。対象として目指すものではなく、もうすでに起こっている状態のことを指すのだと。

だから、幸せであることを証明しようとするのは、幸せであることとは違うのです。事実は、幸せではなかったから、幸せになろうと努力していたということです。

また、善というのは正しさとイコールではないようです。でも、往々にしてわたしたちは正しいことは善いことであり、善いことは正しいことだと思っています。

正しさと善の違い

倫理的な正しさはその集団にとっての都合で変化します。

例えば、子どもが学校へ行くようになる前は働き手でした。親の手伝いをよくする子のほうが好まれた時代もあります。いまは勉強をよくする子のほうが好まれます。

一方、人道的な善はその相手の欲求に合わせて変化します。

例えば、子どもにはそれぞれ個性があり、じっとしているのが得意な子もいれば体を動かすのが得意な子もいます。本来は、働かなくても勉強ができなくてもその子の価値は外側の都合によって変わらないはずなのです。

でも、わたしたちは子どもが将来困らないようにと、苦手な勉強を苦手な方法でさせようとします。その子が得意だったり興味を持っていることとは無関係に。

悪意があるかないか

正しさを押し付けるアグレッシブ(攻撃的)で威圧的な人は、相手に直接的に罪悪感を押し付けます。

「せっかく人が良かれと思ってやってるのに、恩を仇で返すとは何ごとか!」
「いや、ありがた迷惑だから~!」

一方で、受け身(パッシブ)で自分の意見をあまり言わず、何でも聞いてくれるのに、後から別の案を出したり事情を説明してきたり、だいぶたってから不満を言ってきたり、ほかの人の前ではびっくりするような悪口を言っていたりする人は、相手が自発的に罪悪感を抱くように被害者の立場を取ります。

「わたしよくわかんないし、何でもいいよ、合わせる」
…時間経過…
「あの時本当は嫌だったけど、断ったらあなたが悲しむと思って我慢したの」
「勝手に思いやってからの悪者扱いやめて~!」

どちらも初めから悪意はないと思います。お互いにゼロかすべてかという選択をしようとしていて、そうするとお互いの間が気まずくなると思っていると、こういう態度を選んでしまうのだと思います。しかも、半自動的に、反射的に、クセのようなものとして。

押し付けようとしている自分の欲望を、少なくとも自分には隠せていると思い込んでいて、その真意をごまかしているという点において、相手を尊重していないという点において、自分の気持ちもきちんと正当に評価していないという点において、結果的に悪意ととれるような言動になってしまっているということだと思います。

慾も怒りも軽いうちに出す

抑えた欲望は慾となり、抑えた怒りは憤怒となる。そういうことだと思います。

ストレートにお互いの100パーセントの希望を出したうえで、どちらも満足する着地点をきちんと見出す作業をするのがいいと思うし、一度決まったことがプロセスの中で不都合があるようなら、軌道修正しながら着地点を目指していけばよく、その軌道修正中も100パーセントの希望を出しておかないと、しこりが残ると経験上理解しています。

ただ、とってもとっても勇気がいることですね。