フォーカスすることの力

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若いころの自分を思い出すと、情熱をぶつける先がなくエネルギーを持て余していたなと思うことがあります。「どうなりたいか」ということはわからないのに、「どうなりたくないか」だけがはっきりわかっていたからです。やり場のないエネルギーを、友だちと延々と親や先生の愚痴を言い合ったり状況を嘆いたりすることに費やしていました。

なりたくなかったのは「周りの大人たちのように」です。仕方なくお金のために働くとか、仕方なくお金のために結婚するとか、「仕方なく生きること」のすべてを嫌い、軽蔑していました。「あんなふうになりたくない」「あんな大人になりたくない」と思っていましたが、反抗的になるのも嫌で、冷めて斜に構えていました。

かといって、「ではどうなりたいのか?」という問いには答えられなかったので、非常に苦しかった青春時代でした。結局仕方なく生きている大人たちに仕方なく従っていたのでした。

欲望が先か抑圧が先か

きっかけは「あんなふうになりたくない」という想いでしたが、「ではどうなりたいのか?」という問いに答えることができなかったので、結局は「あんなふうになっていた」のだという気がします。嫌なのにそうなってしまう、逆流。

フロイトは抑圧と欲望の関係を意識や無意識の働きとして見事に説明しています。抑圧されればされるほど欲望は強く認識され、別の形となって現れるということです。「あんなふうになりたくない」という抑圧は、不本意ながら「あんなふうになりそうなことを認めたくない」と同義だったということになります。

抑圧したから隠れた欲望となって噴出したのか、欲望があったのに抑圧したから余計に噴出したのか、おそらく前者だとは思いますが、なんとも皮肉な結果です。

ここには面白い構図があります。ほとんどすべての欲望のきっかけは対比認識にあるように見えます。「痩せたい」「きれいになりたい」「強くなりたい」「お金持ちになりたい」「賢くなりたい」「医者になりたい」「パン屋さんになりたい」「男になりたい」「あの人に好かれたい」などが欲望です。例えば、「痩せたい」の裏側には「自分は痩せていない」という認識があり、それは「今の自分より痩せている他者か過去の自分」との対比によって経験されます。

若かりし自分に教えたいこと

五十を超えてわかってきたのは、熱く反抗したり冷めて斜に構えたりするのではなく、理想的な大人を一生懸命探すなり、ゼロから自分なりに創り出すなり、とにかくそっちにフォーカスしてエネルギーを注げばよかったんだなぁということです。

「そんなこと言われてもわかんないよ」と若いわたしに言われてしまいそうですが、そしたら「紙とペンを出して、書き始めれば少しずつでも見えるよ」と教えてあげたいなと思います。少なくとも、どんな気分になりたいのかを書くことは非常に有効だと教えてあげられたらと思うのです。

「自分を誇らしく感じていて、毎日に満足していて、毎日仕事の終わりに次の仕事の時間を楽しみにしていて、頼れるパートナーがいて、楽しい仲間や友だちに恵まれていて、新しいチャレンジにワクワクしている」など思い巡らせてたくさん書き出してみて欲しい。後はそういう気分の人ならいつも通り目の前のことをどんなふうにこなしていくだろうと想像しながらこなしていって欲しい。

なりたくない人に腹を立てそれに似た部分の自分を嫌いながら日常を暮らすのではなく、なりたい自分を夢想しながら日常を楽しく軽やかに暮らして欲しい。

フォーカスすること

フォーカスというのはとても不思議なものです。以前のブログに読書感想を書いた『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』という本には、フランス人とアメリカ人のカップルの子育て環境をめぐる争いを例に、自分の意見が正しいことを証明するデータだけを採用する傾向が説明されています。この傾向を心理学では「確証バイアス」と呼びます。

自分は運がいいと思っている人と運が悪いと思っている人がいるとすると、このバイアス(思い込みの偏り)はその人のデータの取り方に影響を与えます。どんな人も運は良くも悪くもないというのが確率としては正しい事実把握だと思われます。でも、そこに思い込みによるフォーカスの問題が絡んでくることで、実際の結果に差が出てしまうようです。

例えば、自分は運がいいと思っている人は確証バイアスによってその思い込みを強化する事象にフォーカスします。運が悪かったと捉えることのできる事象を無視します。そうやって強化された思い込みは、リスクに対して大胆な選択を取らせることもあるでしょう。

勝率50パーセントの賭けならば、リスクを取らずに回避した場合の確率は0パーセントですから、賭けに出ただけで少しずつでも差が出ると考えられます。

更に、運がいいと思っている人は悪いと思っている人より人と関わることにリスクを感じることは少ないでしょう。運がいいのだから嫌な人に会うことはないと思い込んでいれば。ここでも確証バイアスによって嫌な人に会ったことをカウントしませんので、嫌な人に会っていても、やっぱり自分は人に恵まれていると自分を捉えることでしょう。騙されたり力関係に持ち込まれたりすることもないと信じていますので、相手に親切にしますし、親身になることもやぶさかではないでしょう。そうやって相手にも信頼を持ってもらうことができ、いい話を紹介してもらえるチャンスも増えるかもしれません。

更に、確証バイアスによって運と自分の力を信頼しているなら、気分の切り替えも早くなるかもしれません。これを逃したら後がないとは思いませんから、はっきりと断ったりいうべきことを言って主張することも辞さないかもしれません。この縁を断ってもまたもっといい縁が巡ってくると確証バイアスによって思い込んでいるからです。運が悪いと思っている人よりは上手に損切りのタイミングを上手に見極め、何に投資して何を手放すか、いつ投資していつ手放すか、落ち着いて判断できると考えて矛盾はないように思います。逆に、運が悪いと思っている人はこれを逃したら後がないと思い、ここまでの投資を無駄にしたくないと思い、サンクコストの誤謬(Wikipediaへ)を続けることになると考えていいと思います。

フォーカスとは選択のこと

このように、何にフォーカスしているのかということは選択に影響を与えるものだと思います。

斜に構えていた若かりし頃のわたしは「どうせ」というペシミズムを抱えていました。暗いネガティブな事実ばかりを採用して、その確証バイアスの中に生きていたからです。「どうせ」を超える方法の中に、ほかの人のナラティブを聞いてそれを疑似体験するというものがあると思っています。これについて詳しくは、以前のブログ「わたしたちは「どうせ」を越えられるのか」を読んでみてください。

生きる時間は限られています。死なない人がいないので、大げさに言えば生まれてきたということは死亡率100パーセントの病だということすら可能です。わたしたちは、この生まれて生きて死ぬまでの間に、「私とは○○である」という問いに答えていかなければなりません。

「私とは○○である」という問いに答えるというのは、「○○である」の反対側に「○○ではないすべて」を立ち上がらせることでもあります。○○も含んだすべてから○○だけを選択するということです。

時に、わたしたちは「ああなりたい」という憧れや理想に出会ってそこへ向かうという方法だけでなく、「あんなふうになりたくない」という軽蔑や嫌悪を感じて反面教師とするという方法を使うことで○○を選択しようとすることもあります。

でも、もしも、どんな人も少なからずすべての要素を内に持っていて、どの要素を特性としてより多く発揮しているかという違いだけだとしたら、どうでしょう? 「○○である」と「○○ではないすべて」の境目は曖昧で、頻度なのか濃度なのか、何かの度合いの大小を微分値として捉えているだけだとしたら?

フォーカスして選択することで、その微分値を選んだ範囲内での値を大きくするだけだとしたら?

反面教師と憧れ

例えば、嫌いな親の嫌いな部分や嫌いな生き方にフォーカスしていれば、当然自分や他人にもその分を発見します。わたし自身もたくさんこういう想いをしてきたので、親を嫌うとは同類嫌悪なのだと確信しています(笑)。親を嫌っているうちに確証バイアスによって、嫌だと思う、親のそういう部分を自分の中に見出し、自分を嫌うようになってしまいます。似ていない部分の方が本当は多かったとしても、確証バイアスはどんどん働きます。

これが真実ならば逆のことを思考実験してみましょう。

好きな憧れている人の好きな部分や好きな生き方にフォーカスして、自分や他人のそういう部分を発見します。確証バイアスによって好きだと思うそういう部分を自分の中に見出し、自分を好きになっていきます。似ていない部分の方が本当は多かったとしても、確証バイアスは働きます。周りがうぬぼれ過ぎだと笑ったとしても、確証バイアスによって耳に届きません。

ちょっと妄信や狂信のようで怖いと思うかもしれません。または周りの人たちと離れてしまうようで寂しいと思うかもしれません。でも、夢見るものがいいものであると感じるなら、信念を持つのも価値があることかもしれませんよ(関連ブログ:「信念を持つのが怖い」)。

フォーカスと変化

誰もが知っている通り、いつもと同じ選択をすると、条件が変わらない限りは同じ状態をキープします。いつもと違う選択をすると条件が何であれほぼ確実に変化をもたらします。フォーカスするものを変えるという選択は、小さな変化をもたらします。小さな変化を繰り返すと、積立預金のように変化の値は増えていきます。

実際、ネルソン・マンデラ氏のように事実が何であれ諦めない人は、1652年から始まった南アフリカにおけるヨーロッパ諸国による植民地支配と300年以上も続いていた黒人差別と闘い、27年間の投獄にも挫けず、アパルトヘイト政策に反対して南アフリカ共和国の大統領にまでなったのです。この人が見続けた理想や夢(「微分値と「私」」に彼の言葉を引用しています)を単なる妄想や狂信だと言う人はいないでしょう。マンデラ氏は理想をイメージしてそちらにフォーカスし続け、変化を創っていったのです。

フォーカスが起こす変化は微細なものかもしれませんが、諦めずに時間を掛ければ、とても大きな力に繋がると思いませんか?


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