罪と罰と寛容

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わたしが日ごろ感じる社会の閉塞感の中のひとつに、社会的・倫理的に「間違い」とされることをした人に対する不寛容があります。

でも、間違いは仕方のないことです。失敗も仕方のないことだと思うのです。

それをどう扱うのかということについて思ったことがあり、このブログを書いています。

不寛容さは以前のブログの「アンチの壁」で書いたアンチでしかありません。

また、前回のブログの「正しさの戦い~何のために戦うのか~」に書いたとおり、永遠に解決されない問題となると思うのです。

いつも、こういった対立や軋轢に明るい出口の光を射すのはヘーゲルのアウフヘーベン(意味についてはWikipediaをご覧ください)だろうと考えるのです。「aであるもの」と「aではないすべて」から、第三の選択肢はどのように現れるのでしょうか。

罪と罰

スタンダールの小説のタイトルのようですが、罪を犯した者は罰せられることがあります。

例えば刑法に反した行為をしたときには、法による裁きを受け判決に従って刑罰を受けます。

罰があるということが罪の抑止力となり、罰を受けた人はそれにより反省して二度と同じ罪を犯さないようになる、というのが罰の基本的な理解でしょうか。

しかしわたしはそのように考えていません。罰が抑止力になると思わないし、罰を受けると反省すると思わないのです。

差別の問題を例に考えてみましょう。

あるグループの人々を差別する人々がいるとし、そのグループに対する差別を取り締まる差別禁止法があるとします。A氏はそのグループの人たちを心の底から憎しみ軽蔑し蔑んでいるとしましょう。でも、差別禁止法があるからそういう言動をしないように気を付けています。これは差別していないということになるでしょうか。もしも政権が変わってその差別禁止法が廃止されたとしたら、A氏は堂々と自分の中に隠していた差別を表す言動をするのではないでしょうか。

差別行為が身体的な暴力や精神的な言葉の暴力や、個人の自由や権利のはく奪である場合の抑止力を評価することは可能かもしれません。しかし、それは真の解決ではないと考えます。真の解決を諦めないでいい世界の構築がWE GiRLs CANの活動だからです。

わたしが自分の子どものころを考えてみると、親に怒られるからやらないことはそれがなぜやってはいけないのかを理解したものではありませんでしたし、ベランダに締め出されたこともやったことがなぜいけなかったのかを理解する助けになりませんでした。どちらかと言うと、親に対する反抗心が芽生えたり、自分の無力感を強く感じただけでした。

もし、わたしがなぜそれをやって欲しくないのかという親の気持ちを理解する道があったとすれば、あるいはそれによって親がどんな気持ちになったかを感じ取ることができたならば、叱られた理由を理解できたことでしょう。そして、わたしの立場や事情や考えも説明して聞いてもらえるのであれば、納得してその行為をやめたかもしれません。

断罪、頭ごなしの叱責、罰や責任の追及だけでは、前回のブログ(「正しさの戦い~何のために戦うのか~」)で書いた正しさの戦いと同じように、歩み寄りも真の解決も永遠に起こらないのではないかと思うのです。

罪と寛容

罪を罰することと対になって、罪を許すということが思い浮かびます。罰するのでなければ許すという発想です。

余談ですが、アドラー心理学が好きなわたしにはこれが「褒める」同様、人類皆平等の精神から離れているような気がしてあまり好きではないのですが、特に「赦す」となるとつい、どんな権利があって他人の権利をさしおいて、偉そうに上から目線で!と思ってしまいます(笑)

話を元に戻しますが、許すということを怖がる人もいます。許すということを断固として受け入れたくないという人もいます。許すというのは、同じことしてもいいという許可を出すこととは違うという理解をする必要があると考えています。

意見が違うということ、違う主張をしているということは、相手を否定していることとイコールではないのですが、心から大切に思っている事柄を「違う」と言われると、人格を否定されたように感じることがあります。これはアイデンティティと価値観がニアリーイコールだからなのだと思います。逆に言うと、相手の人格や意見(相手のアイデンティティの一部)を否定することで自分のアイデンティティを保てると考えているようなところが、わたしたち人間にはあるということなのかもしれません。

断罪しない、人格を否定しない、罰して終わらせない、自分の正義を相手に押し付けて叩き潰そうとしない、力で再発を防止しようとしない、という選択をすることを「許す(赦す)」と翻訳するならば、「罪を許す」ということがイコール「再度同じことをしてもいいという許可」ではないということへつながっていくのではないでしょうか。

昔から以下のようなことわざがあります。

「古之聴訟者、悪其意、不悪其人」(「罪を憎んで人を憎まず)

「盗人にも三分の理」

わざわざことわざにしたくらいなので、昔の人も同じように、考えや意見はその人の一部であってすべてではないということを忘れないようにしたかったのだと思います。

誰かをわざと不快な思いにさせたり身体的精神的なダメージを故意に与えたとすれば、そのことそのものに関しては、寛容であってはいけないでしょう。

例えば「盗人にも三分の理」というなら、盗人は人のものを盗んだのであるからその行為そのものに関しては、どんな理由があったにせよ十分のうち七分は許されざることです。でも、残り三分に関してはその理由や理屈を聞いたほうがいいのではないかと思うのです。そこに寛容さを持つことが、わたしたち人類が人間らしさを取り戻し、理想的な人類の姿を未来の子どもたちに託す力に繋がると考えるからです。

受け入れるのでもなく

心を割って話をしても、やっぱり許せないとなることもあるでしょう。あるいはどちらかの主張する選択肢以外の新しい選択肢が現れるかもしれません。

わたしたちはいろいろな条件(考え/立場/思い込み/理想/肉体/機能/性格/年齢/国籍/能力/才能/情熱/知識/経験などなど)の複合的な存在です。そして、その存在同士が関わると、お互いがお互いにとっての条件(都合や流行などなど)となることで変化します。

考え方が違うということはもうすでにわかっているので、似ている部分や近い部分、共通していると感じられる部分を探すのがいいと思います。もしも動機や目的が同じであれば、意見が違っていても協力し合うことが可能になるかもしれません。

もしかしたら、共通点が全く見当たらないかもしれません。協力し合えないとわかって、お互いの幸せのためにお互いに近づかないという選択をすることが共通点となるかもしれません。「仲良く」することだけがゴールではないし、少なくともそういう意見の一致があればそれはそれですばらしい第三の選択肢であると思います。お互いに傷つけ合わないでいられる距離を保つという、消極的な愛情表現があってもいいと思うのです。

相違点ではなく、共通点を見出し、同じ目的に向けてお互いが納得できる選択肢を見出して選ぶことができれば、真の解決につながると考えています。

他者との関係においてこのように理解するのはわかりやすいと思います。第三の選択肢は相違点を議論することではなく、類似点や共通点を探して共通の利益を見出し、そのための解決策なら出せるということです。繰り返しになりますが、仲よくすることだけではなく、二度と会わないことも共通の利益となり得るという理解をする必要があると思います。

しかし、不寛容さがなぜそんなに気になるのかということについては説明しきれませんでした。なので、これは次回に続きます。

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