カラダとココロのカンケイ

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思考実験

ちょっと突然ですが、ここで簡単にできる実験をしたいと思います。

まず、あなたの目の前に、非常に落ち着いていて、穏やかで、余裕のある、聡明な空気感を出している人がいると想像してみてください。包み込むような柔らかい笑顔と、あたたかいまなざしの人が目の前にいます。

どんな変化が体に起きたでしょうか。肩の力はどうですか? 顔の筋肉はどうでしょうか?

今度は、あなたの前に、人を見下したような目つきでニヤニヤした人、威圧的で強面(こわもて)の腕組みをした人、口角泡を飛ばす勢いで甲高い声で抗議している赤ら顔の人を想像してみてください。

前者と後者を想像した時に、どんな違いを自分の身体に感じるでしょうか。

もし、あなたが何かしら身体の反応で違いを感じたなら、考えてみてください。この違いは何でしょうか。想像しただけで疑似的に感じてしまう違いは?

人は現実と虚構の違いを区別できない

レモンを想像したら酸っぱさがよみがえって唾液が出てしまったりするように、どんな人が前にいるかと想像しただけで構えが変わるのだと思うのですが、どうでしょうか。

「どんな人に向かい合っているか」ということが引き出す対応の構えは、これまでの経験値に蓄えられた記憶とリンクしているのだと思います。レモンを初めて食べた子どものYouTube動画を見たことがあるでしょうか。あれはまさにレモンの酸っぱさを学習した瞬間でしょう。赤ちゃんの反応を見ているだけで、口の中にレモンの酸っぱさや皮の苦さを再現して唾液が出てきてしまいます。

これは、現実と想像を脳が区別できないと言われることと関連があるように思います。

また、身体で感じたことを脳が処理するという流れだけでなく、脳が想像したことを身体が再現するという流れがあることを示唆していると思います。

そう考えると、「共感」とは、想像を通して身体に相手が感じているだろうことを再現する作用でもあるのではないかという気がします。

例えば、ホラー映画を見ると白血球が増えるという研究結果があるそうですが、たとえスクリーン上の疑似体験であっても、人間の心身のシステムは脳から発せられる恐怖に対して律儀に働いていてくれているということを示唆しているようです。

レモンを想像するだけで唾液が出たり、ホラー映画を見るだけで白血球を増やしたり、実際にレモンを食べたり危険に身が晒されたりしたときと同様に身体的に反応しているということから、「人は現実と虚構の区別をするのが難しいといわれている」といわれているのです。

作話と幻覚

人が現実と虚構の区別がつかないという傾向がある、という極端な例のひとつに「作話」というものがあります。脳の認知能力が何らかの阻害を受けて機能しなくなった場合に、作話といって健常者からは作り話に聞こえる話をしたりすることがあります。

わたしの認知症の父も一時期この症状を呈していました。記憶の欠如を補うためにその作話は作られていったと思うのですが、現実にはないマボロシの病院を探して何日もさ迷い歩いたり、いろいろな病院での出来事の組み合わせのエピソードを語ったりしました。

父は内科をはじめ泌尿器科や物忘れ外来など、いくつかの病院やクリニックにかかっていましたが、父は色々な不調をすべてひとつの病気のせいだと思い込んでいました。だから、父は手術をすればすべてが解決すると思っていたのでした。不調の原因は別のところにあったので、父のして欲しい手術をしてくれるお医者さんはいませんでしたが、なぜか「父は駅前の病院で手術をしてくれる病院があった」と言い出しました。聞いてみると、総合病院の泌尿器科のお医者さんと、昔健康な歯を「抜いて欲しい」と無理やり頼んで何とか言うことを聞いて抜いてくれた駅の近くの歯医者さんを合体させた、マボロシのクリニックと先生の存在を信じていました。

秋の終わりからしばらくの間、「駅の近くに手術をしてくれると言った泌尿器科があったのに、どこだったかわからなくなってしまったから探してくる」と言って歩き回っていた期間がありました。

その話をしている時の父にはそのマボロシクリニックの先生との場面が本当に見えていたのだろうと思います。認知症を認めたくない父の自分の尊厳を守るための「必死のパッチ」だろうと思っていたのであまり訂正しないようにしていました。

調べてみると、この作話がなぜ起こるのかをまだはっきりと科学的に説明できていないようです。仮説はいくつかありますが、わたしが父に対して感じたような、尊厳を守るための必死のパッチかどうかはわからないのだそうで、「前頭前野にある眼窩前頭皮質や眼窩前頭皮質に関わりのある部位に病変があると作話発症率が高い」というところまでは解明されているのだそうです。

健常者と言われる人たちでも曖昧な記憶を補うために作話をすることがあり、少なくともそれを話している時はそれが真実だと信じているようです。健常者に同じストッキングからひとつを選ばせて、選んだ理由を聞くと、同じものなので違いがないにも関わらず、具体的な理由を話すそうです(出典:VICE「〈作話〉研究でみえる、現実と虚構の曖昧な境界線」)。

また、現実と虚構の区別がつかない別の例として、「幻覚」や「幻聴」があります。統合失調症の患者さんには幻覚や幻聴がありますが、これも前頭前野に現実と虚構の区別の働きにくさの原因があるとされているようです(出典:Office Wondering Mind「【統合失調症】なぜ現実と想像の区別がつかなくなるのか?」)。統合失調症の人たちは健常者に比べて前頭前野の活動が不活性であるということです。

作話の場合は器質的な問題はないものの、何らかのエラーが前頭前野にあり、幻覚や幻聴の場合は器質的な障害が前頭前野にありますから、前頭前野が現実と虚構を区別するためのフィルターの役目をしているように思います。このフィルターには現実と虚構の齟齬をどちらに合わせてどちらを訂正するかという基準がある気がします。

作話している父と話していて父から感じたのは「必死のパッチ」でしたが、現実とのズレがないときの父は非常に穏やかで話しやすく、一緒にいて楽しい時間が過ごせます。作話している時の父と面と向かっているのは精神的にきつく、父の出している必死さを感じ取らないようにフォーカスをずらしてしまう以外に対処法がありませんでした。

フォーカスを逸らす目的

前回のブログ自己一致という話をしましたが、この自分に満足している状態は、心身の状態としても落ち着いて力が抜けた状態のように感じます。状況がどうであれ、自分に満足し心身ともに健康である存在というものを想像するだけで、身体が「レモンを食べる赤ちゃんを見て唾液が出る」ようにそうあろうとするような感覚があります。

例えば、かつてわたしが受けたNPO法人レジリエンスが実施している「こころのcare講座」の「トラウマに対応するツール」では、不安や恐怖が襲ってきた時に飴をなめたりして、現実に戻ってくることを教えてくれました。

わたしは動じてはいけないと感じる場面では、「コントロールと愛」にも書いたマントラを唱えたり「観音さまを降ろす」ことにしています。「観音さま」を想像するのは、冒頭にやってもらった思考実験の最初の形容を一言で表したイメージだからです。目の前にそういう穏やかな人がいるという想像をしただけで、筋肉が緩む感じがありますので、「観音さまを降ろす」と心の中で宣言すると、冷静で温和で穏やかで聡明な存在になれる感があります。それはココロにある観念からカラダという物質化のような瞬間です。

相手の恐れや痛みや苦しみを感じないようにしているわけではありません。相手の痛みや苦しみがわかるからこそ、相手を助けたいと思うわけです。そして、一緒に痛みや苦しみにおぼれてしまったら相手のことを助けられないときには、冷静さを取り戻す必要があると考えているのです。

フォーカスをずらして穏やかでいることを、相手や問題から逃げたり、自分の思い通りにするために使うのではなく、その意図がお互いのためになるためであることをはっきり認識する必要はあると思います。どんなツールも便利であればあるほど、影響力が大きければ大きいほど、その側面に使い手の意図が問われるものだと思うからです。

カラダから受けた刺激による反応でココロが何かに対処するだけでなく、ココロに映したイメージでカラダが反応していくことも、大いに使ってお互いにとって最大の利益となる世界を構築していきたいものですね。

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