男女差別を解決する思考実験

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何度も繰り返し書いていることではありますが、WE GiRLsCANの活動には「存在は反対物の存在とセットで存在しているので、何かを悪者として消すことでは問題は解決しない」という考え方をベースにしています。その考え方でジェンダー平等を目指すとはどういうことか、男女差別があると感じ、その問題を解決するということはどういうことなのか、また、何をどのように目指せばよいと考えているのかということを、思考実験的に読者と一緒に順を追って考えてみたいと思います。

問題とは何か

まずは「問題」の定義についてです。わたしは「問題とは理想と現実の差のことである」と定義しています。同じ現象を問題と感じる人と感じない人がいるのは、それぞれの理想とするところが違うからだと考えています。

起きている現象について「問題である」というのは「悪い状態」であると言っていることになります。つまり、理想とする「いい状態」ではないということです。

例えば、雇用や給与の格差について「問題である」と女性が捉えるのは女性にとっての理想と現実に差があるからで、男性という立場の人たちにとってはそういう理想もそういう現実も存在しないので問題とは捉えないというわけです。

しかし、本当に問題と感じないだけなのでしょうか?

仮説:争いたい

いっそ思い切って、問題を認識しながら別の目的があって、わざと問題を大きくしてあると仮定しましょう。

まず、限りあるものを別のグループと取り合っていると考えてみましょう。何を「限りあるもの」と捉えているかといえば、金銭や地位といったものです。

次には、その限りあるものを、所属グループと対抗するグループが競って対立し、争って勝った満足感を得ることが目的であり、彼らの解決とはそのゲームに勝つことを意味するのではないかと仮定します。

ゲームに勝つと得られる満足感・高揚感・自己肯定感・達成感・意欲などは所属グループの仲間同士でで共有するアイデンティティとなります。これを社会的アイデンティティと呼びます。

これは、実際にゲームに挑んだ選手だけでなく、所属感覚を持っている人であれば、ファンやサポーターもその恩恵を受けます。自分が男というチームに属していて、対抗する女というチームに勝ったというゲームをしており、応援していた誰かがディベートで勝っただけで自分も強くなった気がするという形です。だから、女であっても勝った側のサポーターと自負していれば、気分として恩恵を受ける人がいても当然であるといえるでしょう。

ゲームのルール

このゲームではボールの代わりに金銭と地位を奪い合い、勝ち負けを競います。

金銭というものは非常に不思議なものです。人間の作ったものであることは間違いなく、人間が作ったものである以上、文化のようです。

地位は言うまでもなく、文化です。人間が集まって社会を作る上で作り出したものです。

文化は人間が作り出したものであるため、水が高いところから低いところへ落ちるといった物理法則と違い、変更が可能です。

まずお金については、持っていると価値の下がるお金を作ったりできるということが証明されていますから、変えることができるといえるでしょう。次に地位はマトリックス組織やティール組織といった上下関係のないフラットな組織が運営されていますから、こちらも変えることが可能であるといえます。

わたしたちは希少なものに価値を見出す傾向があります。潤沢にあるものに価値を見出さないのです。お金もそのように発行数を制限することで価値をコントロールしています。価値があると感じたものを金銭で売り買いし、価値があると感じたことに感謝するために金銭を払います。お金自体は限りあるものではありません。印刷すればいくらでも作ることができます。それをしないのは、お金によって価値を作るためといってもいいのではないでしょうか。そこに自分たちの存在の価値を重ねているのです。

ゲームではルールが絶対です。サッカーを楽しむためには、11人のチームに分かれ、選手は手を使わないでボールを相手のゴールに入れるというルールがあって初めて楽しむことができます。手を使わないというルールが無視されたら、サッカーではなくなってしまいます。この制限がゲームを面白くしているからです。

わたしたちが生まれるかなり前からこのゲームは行われており、社会というフィールドでお金の流通量を制限し、地位の数を少なくして奪い合ってきました。多く持っている方が勝ち、持っていないものは負け、というルールのゲームです。これを戦力などの暴力を使って争奪してきたこともありますし、勝つ喜びのために命まで賭けてきた歴史があります。

人気のないゲームはやっていても楽しくありません。なるべく多くの人たちと盛り上がりたいからです。所属チームとその応援者は一体感を多くの人たちと共有したいのです。悔しいと感じて燃える人がいれば盛り上がるので、何とかしてゲームに参加させようとする傾向があります。

目的が違う

このゲームに参加させようとする人たちがいるということは、逆にこのゲームを大して面白いと感じない人もいます。日々の生活が滞りなく平穏につつがなく行われることを願い、野山の花を愛で、動物を愛し、家族の笑顔に心を満たし、そういったものに気付く瞬間を喜びとして生きます。その喜びが高揚感とともに共有できるものでもなく、各自が自分の中で感じたことを芸術として表現することで、別の人たちに疑似的に共有することができるようなものです。

このゲームが楽しくないと感じる人にとって、人が集まって社会生活を送るのは、助け合うためでしかありません。食料を分け合ったり、知恵を伝えあったり。

わたしはそのために貨幣と分業が発生したと思っています。

今では、ゲームのおかげでお金も地位も価値観と直結しており、自分の所属する社会で通念化している価値観を物差しとした中での、自分の値(ポジション)を測るための指針となっています。

金銭も地位も自然発生的に人が集まるとできてきてしまうものではあります。金銭は労働力や能力や生産物などを提供できない、つまりお返しができない人にとって、感謝を表現するのに非常に便利なものです。地位は単なる分業の作業内容とその名前です。

しかし、人間社会で幸せに生きていくためには「お金」が必要であり、それを効率よく多く手にするためには「地位」が必要である、という目的の転換が行われて久しいようです。ゲームを楽しいと感じる人たちにとってはいい世界だろうと思います。ゲームから降りる勇気もなく、変えられると思えない人たちには辛い世界だろうと思います。

現代社会はグローバル化し、価値観が均一化されましたから、非接触部族や世捨て人を除く人類全体の「幸福の最大化」とは、経済的な優位者になることとイコールになっているといっていいと思います。ゲームから降りるに降りれない辛い思いをする人やゲームそのものに参加すらできない立場の人がいて、その人たちに施しをするということもゲームで優位に立った人たちには自身の勝利を意味するものです。

幸福とは何か

一方で、この争うことで得るとされている「幸福」ですが、それは一体何でしょうか。

「微分値と「私」」でも引用したのですが、中野信子さんがおっしゃるように、「幸福度は何かと比べなければ測ることができないもので、微分値のように傾きの値で決まるもの」です。つまり、基準を決めてその切り口で他と比較することで自分が幸せかどうかを決め、幸福を感じるということになりますでしょうか。

これは基準となる定点があると仮定し、それを物差しに何かと自己を比較することによってのみ自己を認識することができる、という人間の意識の自己認識の特性でもあると考えます。

正しさで解決

ここでいったん自説を覆して「問題が解決しないのはゲームが悪いからであり、それを是正すればよいのだ」と言ったとしましょう。

正しさを主張するとき、わたしたちは本当にその自説が通ったときに及ぼすすべての影響について検証されていないケースがあります。実際、このような方法で問題解決をしようとしたときに、物事がそんなに単純ではないということを自然界から教えられることがあります。

例えば、野生の世界では肉食動物が草食動物を食べますが、草食動物が可哀想だと正義感から肉食動物を殺してしまえば、今度は草食動物が増えすぎて草や緑を食べつくしてしまい、土地は痩せて砂漠化し地球の温暖化が進み、可哀想なはずだった草食動物は地球環境の破壊者となってしまいます。駆除というのが思い込みや一方的な都合で行われることで、思いもかけない結果を呼んでしまういい例だと思います。(Wikipediaに例が載っています

システム

このように、わたしたちも何かの一部でお互いに影響を与え合いながら存在しています。ひとつのシステムといってよいでしょう。

腸内環境も悪玉菌vs.善玉菌のような構図を思い、悪玉菌を排除してしまいたくなりますが、悪玉菌と日和見菌と善玉菌の割合は1:7:2がよいのだそうです。悪と名がついているものの、腸内ではたんぱく質を溶かして体に吸収しやすくしてくれたり、もっと悪いサルモネラ菌やコレラ菌などは善玉菌では太刀打ちできないので、代わりに戦ったりしているのだそうです。

普段は悪いものが、別のある一面からそれを捉えたときに良く見えるものがある、ということがおわかりいただけたのではないでしょうか。

これは、「争う」ということにも当てはまる仕組みではないでしょうか。争うことで得られる満足感とその幸福感はなくす必要がない、ということです。また、現代社会においてお金や地位といった、まるでわたしたちに苦しみを与えているように見えるものも、必要なものではあり、根絶したり軽蔑する必要はないということでしょう。

ただ、ほんの一握りの人しか楽しめない、ほとんどの参加者が楽しくない争うゲームを続ける意味はあるでしょうか。どのみちこのゲームは終わろうとしてる気がしています。

ルールチェンジ

例えば、コロナ禍の今のように、環境が大きく変わったことで同じやり方で同じ結果を出していくことが難しくなった場合には、かつて善とされていたものが悪となることもありうるわけです。それは何が悪いということではなく、変化が求められているということではないでしょうか。

環境が変わったことで、変わらざるを得ないことはたくさんあります。より多くの人が金銭と地位を争うゲームよりも楽しいと感じるゲームを創り出すことができれば、命まで賭けて争うゲームは終わるような気はしませんか。

とりあえず、お金と自分の価値を切り離すことは可能でしょうか。いくら持っているかだけで自分の価値を量るのをやめることはできないでしょうか。

ほかにも自分の価値を量る方法を持っていたら、それだけにしがみつく必要がなくなります。

また、他人と比較することで自己認識するのではなく、過去の自分と比較することでも自己認識は可能です。

例えば、さっきまで気がつかなかった道端の花に気がついたとき、それに気がついた自分に気がつくということも、自己認識の方法のひとつなのです。道端の花に価値を見出し、それに自分の価値を重ねることで十分幸せを得ることができます。

また、所属グループによって自分の価値を量ることをやめられないでしょうか。既存の男女という肉体的・精神的差異による人間の区別を、別の枠組みでグルーピングすることはできないでしょうか。

例えば、トランスジェンダーやXジェンダー(ノンバイナリー)といった存在や、血縁関係のない気の合う人同士の集まりを家族とする考えや、同性同士の婚姻関係や同性同士の両親、選択的夫婦別姓などは枠組みを外す大きな役割を感じさせます。

今のわたしたちには「私とは何者か」という問いに答えるものが争うゲームにあって、争うことをやめることにアイデンティティの危機を感じ、これを失うということは、自分の価値を失うということに等しいため、やめると思うと恐ろしくて手を離すことができないのだと思います。

だから新しい楽しいゲームを創造して遊び始める必要性があるのだと思うのです。廃止するとかなくしてしまうのではなく、新しい枠組み、新しいシステム、新しいロールモデルを創り出し、選択肢を増やすことはできないでしょうか?

アンチではなく、クリエーションを!というのがWE GiRLsCANの実現したいことで、またこれは新たな所属するためのグループを作るのではなく、個々人がいつもと違う考え方でいつもと違う行動をすることで創造されてく「在り方」活動の呼びかけでなのです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

※トランスジェンダー:生まれた時に割り当てられた性別が自身の性同一性と異なる人
 Xジェンダー(ノンバイナリー):男女どちらでもない、どちらでもある、中性、両性、無性、性別の枠組みから脱する人

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