正しさの戦い~何のために戦うのか~

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わたしたちはよく、どちらが正しいかという「正しさの戦い」によって、本来人間として生まれてきたら誰もが享受できる「豊かさ」や「平和」を、争っている相手とお互いに手離してしまうことがあります。

男女差別の問題にも、常にこの「正しさの戦い」があるように感じてきました。

「正さの戦い」には、古くからの領土の争いや宗教間の戦いなどがあります。身近でも、目玉焼きに何をかけて食べるか、ゴミは誰が捨てるのか、言葉の使い方などで家族や友人知人とどちらが正しいかで論争になることがあります。

自分の過去の決着がつかなかった幾多の経験からも「正しさをめぐる戦いには終着点がない」と断言することができますし、宗教間の戦いにも、何千年も決着がついていないことを考えればどちらかが正しいという結論が出ないのは明らかです。

単純には、「立場が違えば意見が違う」というのが結論が出ない理由のようではあります。

でも、少し離れて「正しさの戦い」をしている人を客観的に見てみると、双方の言う「正しい」というのは「意見」とは別のものを指しているようにも見えます。数学のようにはっきりした答があると信じて双方が「正しさ」を主張しているからです。もっとはっきり言えば、勝ち負けのような白黒をつけようとしているのではないかと思います。

正しさとは何か

ではまず、「正しい」ということの定義を紐解いてみたいと思います。それがはっきりしなければ何を目指しているのかもはっきりしませんから。

コトバンクによると、「正しい」とは

1 形や向きがまっすぐである。

2 道理にかなっている。事実に合っている。正確である。

3 道徳・法律・作法などにかなっている。規範や規準に対して乱れたところがない。

コトバンク「デジタル大辞泉「正しい」の解説」より

とあります。

1は正方形や正三角形などのことを指しているのでしょう。

2が論争の元になっているポイントでしょう。

32を基に法律などによって規範や基準を定めることで治める方法の話だと思います。

ということで、2の意味を中心にして「正しさ」を考えてみたいと思います。

道理にかなっているとはどういうことか

「正しい」の意味の2のひとつ目は、「道理にかなっている」ことを正しいとするということですが、「道理」とは何でしょうか?

コトバンクによると、

① 物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道。ことわり。

② すじが通っていること。正論であること。また、そのさま。

コトバンク「デジタル大辞泉「道理」の解説」より

とあります。

この説明を読んだだけで、もうすでに論争が始まっているような気配があります。

①の「物事の正しいすじみち」は「正しい」を調べて「道理」に来たのにまた「正しい」に戻されるという永遠ループへの入り口ですね。

「人として行うべき正しい道」も論争を巻き起こしかねない、排他的な人格否定が匂います。意見の違いでしかないのであれば、「人として」とか「べき」という言い方をすれば行き過ぎた感が出てしまいますね。争いの嫌いなわたしには瞬時に避けたい衝動を覚える言葉です(笑)そして「正しい」に戻される永遠ループの入り口があります。

②は①より穏やかです。しかし、「すじが通る」が概念的であってはっきりしません。「正しい」という白黒をつけようとしているわけですから、概念的では立場の違いによって差が出てしまいますので適切な判断基準にはなり得ません。

また、「正論」というのは「正しい理論」のことで、「正しい」が入っているので「正しい」へ戻される永遠ループの入り口です。

すると、「正しい」の意味の2の「道理にかなっている」ということが示していることは、正しいか正しくないかを決めるためには適していないことがわかります。

次に、「正しい」の意味の2の「事実に合っている」というところを見てみましょう。

事実に合っているとはどういうことか

こちらもまずはコトバンクで「事実」という言葉の意味について調べてみましょう。

① 実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。

② 哲学で、ある時、ある所に経験的所与として見いだされる存在または出来事。論理的必然性をもたず、他のあり方にもなりうるものとして規定される。

コトバンク「デジタル大辞泉「事実」の解説」より

①の意味は過去のブログ「わたしたちは「どうせ」を超えられるのか」で書いたように、「「いつ、どこで、誰が、何を、どうした、何個、何時間、何メートル」という類の問いの答、および「はい、いいえ」で答えられる問いの答」のことだと思います。

事実というのは、過去にすでに起こった事柄であるか、その状態が今も続いている事柄であるため、意見希望推測理想考え思い願い祈り期待概念通念信念などが入る余地がない事柄です。

「正しい」の意味の2の最後の「正確である」という部分は「正しく確実である」という意味だと思いますが、すでに「正しい」が含まれており、永遠ループの入り口になりますので取り上げないことにします。

「永遠ループ」か「事実」か

そうなると、「正しさの戦い」が結論が出ないのは、「永遠ループ」に入る方の意味の「正しい」を争ってしまっているからであると言って差し支えないと思います。「事実」であるかどうかを判断基準として結論を出すことならできそうですね。

では、事実と合っていることが確認さえできれば決着はつくのでしょうか?

ところがそうもいかないというのがこの「正しさの戦い」の悲しい性ですね。なぜそう簡単に白黒つかないのでしょうか?

事実に合っていることを示しても戦いが終わらない

「正しい」ということが「事実に合っている」、つまり「過去にすでに起こった事柄」と同じであるということだとすると、過去のデータをきちんと偏りなく集めて解析すれば「正しさの戦い」に決着がつきそうですが、実際にはそうなっていません。

なぜ、事実に合っているのに「正しさの戦い」が終わらないのでしょうか。

以前感想文を書いた「『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』感想」の著作の冒頭のあたりに例として書かれているカップルの争いのように、「結論ありき」でそれを証明するための事実を集めるからだと思われます。このカップルは将来どこに居を定めるか、アメリカがいいかフランスがいいかを争いますが、それぞれ相手を説得しようと自説を証明できる根拠を集めてきます。

フランス生まれのフランス育ちであるテルマとアメリカ生まれのアメリカ育ちであるジェレミアは二人とも弁護士で、事実や数字を提示し合ってお互いを説得しようとする、という設定で、こういった試みが溝をより深め、それぞれが自分の考えに年々より強く固執するようになると著者ターリ・シャーロットさんは心理学のデータなどに基づいて言及しています。

そうすると、この戦いに決着をつけることが絶望的になってきます。

何のために戦うのか

アドラー心理学では、すべての言動には目的があると考えます。その考えに従えば、「正しさの戦い」にも目的があるはずです。

単純にいえば「自分の主張が正しく、相手の主張が間違っていることを証明するための戦い」です。

「自分の主張が正しいということを証明する」という目的があるわけですが、もっと突っ込んで考えれば、それもさらに目的があってのことです。つまり、自分が正しいことを証明することで得られる何かがあるからです。

目玉焼きに何をかけて食べるかということを争点として戦っている二人の人を想定して考えてみたいと思います。

わたしは目玉焼きは塩コショウだけがおいしいと考えているとしましょう。相手はしょうゆが一番おいしいと考えているとしましょう。

相手がわたしの目玉焼きに良かれと思って何も言わずにしょうゆをかけたことから、わたしとその人は塩コショウvs.しょうゆで争って決裂し、一日中口をきかないほどにいがみ合っています。

これは、相手が「おいしさ」を共有しようとしたけれど、わたしとおいしいと感じるものが違っていたために起きてしまった悲しい事故だと思います。

でも、わたしは自分の目玉焼きに勝手にしょうゆをかけたことに腹を立てています。選択肢がないこと、同意がないこと、わたしの好みを理解していないこと、尊重されなかったと感じたこと、尊厳が踏みにじられたように感じているというわけです。

相手は良かれと思ってしたことを拒絶されたこと、自分の好みを否定されていること、自分の感覚が疑われていること、間違っていると言われることで人格を否定されたように感じているというわけです。

つまり、お互いに自分の主張が正しいことを証明することで、自分の人間的価値を認めさせるという目的が「正しさの戦い」の中に紛れ込んでいるのではないでしょうか。

自分の意見や主張が否定されると自分まで否定されたように感じる、という傾向がわたしたちにはあるように感じます。

自他境界

この問題のキーワードは「自他境界」ではないかと考えています。

主張とは「私は○○である」と宣言することだと考えています。たとえそれが「私は目玉焼きには塩コショウをかけて食べるのが好きである」と言う宣言であっても、アイデンティティの表出のひとつになると思います。だから何が好きか嫌いかというトピックであっても宣言をするというのは、自他の区別をつけるということです。つまり、アイデンティティとは自分と自分ではないすべてのもの(=世界)との関係性のことなんだろうと思います。

自分の一部であると感じる近しい人との関係は特に、うまくいけば非常に心地の良い共同体となりますが、うまくいかないと非常に辛い環境になります。その違いを生むのは、自分と相手の境界線がはっきりしているかしていないかの差ではないかと感じています。

自分と他者との区別があまりついていないと、「わかってくれない」ということに腹が立つことがあります。自他の区別がはっきりつかないと、相手が自分のことをわからないという状況に対して「わかって欲しい」と思うよりも、「わかって当たり前なのに、なぜわからないのか」というフラストレーションを抱えることになります。

以前のブログ「甘えと自立」で書いたわたしと父のすれ違いはまさにこの自他境界の問題でもあると考えます。「甘え」というのは日本独特の社会構造であると精神分析学者の土居健郎さんは『「甘え」の構造』で書いていました。たしかに、日本はハイコンテクスト社会で、文脈や行間や空気を読み察することを美徳とする文化です。共有するコンテクストが多ければ、大前提を共有しているのですべてを説明する必要がありません。

でも、共有していると思っている大前提が違っていたら、説明なしに察しても相手の意に沿うことができない可能性が高くなります。

言わずにわかってもらうというのは最大の甘えなのではないでしょうか。赤ん坊が泣くだけで母親に自分の欲求を理解してもらうように、自他境界があいまいな人は説明を嫌い、不機嫌そうな態度で理解させようとしたり、怒鳴ったり殴ったりして思い通りに相手が自分の一部のように動くことを期待している気がします。

自他境界の認識がはっきりしていると、基本的にはお互いに相手のことは「わかっていない」部分があるという構えでコミュニケーションをはかることになります。

わたしもちょっと距離のある人に対しては丁寧に説明をしますが、わかってくれる人だと思っている人には「主語」が抜けてわかりにくい話し方をすることがあるようです。よく指摘されます。そして、なかなかわかってもらえないと非常に大きなフラストレーションを感じます。これは甘えですね。

正しさの戦いを終わらせる希望の光

以上のように、「正しさの戦い」をアイデンティティの戦いであり、自他境界の戦いだと捉えてみると、数字や事実を並べるのではなく、自分がどう感じているのかを伝えることの方が重要であるという気がします。

それは、「なかなかわかってもらえなくて悲しい」気持ちだったり、自分が大切にしているものがないがしろにされたような気持ちだったりするのではないでしょうか。自分の正しさではなく。

アサーション(以前のブログ「大和なでしこはどんな女性?」に書いたのでもう少し詳しく知りたい方はそちらを読んでみてください)を使って、自分の気持ちを押し付けるのでもなく、わかってもらおうとするのでもなく、相手の立場を理解したうえで自分の気持ちを伝えるということです。

アサーションでは、わたしは「あなたはおしょうゆをかけた目玉焼きが好きなのね。今度から目玉焼きを作ったときは食卓におしょうゆをだすね。わたしは塩コショウの目玉焼きが好きなんだ~」と伝えます。

自他境界の宣言をしただけです。あなたとわたしの違いを宣言しただけです。

白黒つけたいとすれば、これでは何も解決していませんが、少なくとも目玉焼きにそれぞれ好きなものをかけて平和に「目玉焼きおいしいね」と笑い合うことができるようになるかもしれません。

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