アンチの壁

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何か壁にぶつかった時、その壁が大きく立ちはだかっていて、自分ではどうしようもないと感じることがあります。

それに対して同じように感じていた人たちが、声を上げて壁をなくすよう働きかけるという流れがあります。

WE GiRLs CANでは、そういった運動や活動をしません。運動や活動をする人たち、啓蒙活動をする人たち、法律を変えて規制を作ったり、制度を整えたりする人たちとはちょっと違う、わかりにくい活動をしています。

何がしたいのか、伝わりづらいと思ってはいます。敢えていうなら中庸と創造でしょうか。なるべく早く理想を実現するにはどうすれば効果的なのかということを考え抜いた結果なのですが、がんばって説明してみたいと思います。

例えば、女性に対する差別について、アンチ差別で「今すぐ差別を撤廃せよ!」ということではないし、「世の中はそういうものだからへつらって折り合いをつけて生きた方が良い」ということでもありません。

差別はあると感じます。女性には男性と平等な機会がないと実体験として感じることもあります。

差別されたと感じる場面において、個人個人がそれをどう受け取り、どのように振舞うのかということが、その都度責任を伴って任されており、そこにこそ新しい世界創造への道が開かれていると考えています。

アンチのアンチ?

何かを変えたいときの対応方法としてのアンチという方法のまずさを説明しようとすると、アンチに対するアンチと受け取れそうですね。もし、わたしがここでアンチをやめよう!という意見を出しているとしたら、本当にアンチのアンチで自説の破綻です(笑)

「何かを変えたい」なら別の方法で目的を達成しましょうということです。

差別をする人に対してアンチであるということは、差別する人を否定するということです。ところが、否定という労力は相手を大きくする力があります。

日本では積極的に差別する人は少ないですが、見えない形で差別は存在します。そういう見えない差別に気がついて抗議すると途端に反撃が開始されます。

存在

心理学に交流分析という理論があります。この中にストロークという考え方があります。

ストロークとは、「相手の存在を認める言動」のことです。

例えば、ある子どもが大人の言うことをまったく聞かず、「やめなさい」と言われることをかえって面白そうにやっては叱られているとします。

交流分析では、この子どもがやっているのは負のストロークを得る行為であると考えます。叱られて得る負のストロークに対して褒められる場合は正のストロークを得るわけです。

一方、何をしても注目されず放置される場合には、わたしたち人間はストロークであれば何でもいいというほどに「存在を認められること」に餓えるのだと交流分析理論では考えます。ですから、この子どもはストロークを得られるのであればマイナスでも良いというほどの餓えを訴えていると判断するのです。

アドラー心理学では同じことを「目的論」で解説します。叱られてばかりの問題児は注目を得ることを目的として問題行動を起こしていると考えるのです。

わたしは、人間という存在は「自分とは何者か?」という問いを内包して生まれてくるのだと考えています。その問いは自分と自分以外の総てとの関係性の中で、答として生成され、醸成されて完成していくのだと理解しています。

自分以外の総ては鏡で、真っ直ぐ映してくれる鏡もあれば、歪んでいる鏡もあります。鏡に映ったものを見る自分の側にもレンズがあり、時に歪んでいたり曇っていたり霞んでいたりします。

個体の身体的物理的地理的な特徴以外に一番影響の大きなものが「価値」とか「意味」というものです。その価値を決める基準となる考え方を、鏡としての他者の反応や属する社会の通念から学び、「私とは○○である」と決めていきます。これをアイデンティティと呼びます。

評価・認識

さて、わたし達はうまくいっているすべてのことよりも、失ったものや問題を感じるものに敏感に反応します。これは危機管理能力として生命体維持活動の一つとして備わっているものですから、非常に大切な機能だと思われます。失ったものがあればそれに代わるもの、それがなくてもうまくいく方法などを考えなければなりません。問題があると感じるのであればそれを何とかしなければ不都合が生じることでしょう。

でも、日常のほとんどの時間はいつも通りで退屈な取るに足らないものです。この日常のいつも通りを支えるうまくいっている部分にストロークを与えることなく暮らしています。

さて、わたし達はそこそこうまくいっているすべてのことよりも、辛い思いをしたり苦しい努力を重ねたりして得たものに価値を感じます。これも成長や進歩・進化に繋がるものですから、そのおかげで今まで考えもつかなかったような発明や科学技術やスポーツの記録などの恩恵に預かります。

でも、日常のほとんどの時間はいつも通りで退屈な取るに足らないものです。この日常のいつも通りを支えるうまくいっている部分にストロークを与えることなく暮らしています。

評価するのは誰か

このように、わたし達はわたしたちの平和や何気ない日常を支えるもの事を評価しません。平和というのは退屈なものなのです。でも、平和を求めます。失われようとしてから、あるいは失ったことに気がついてから。

これは、行動経済学の中で言われる「プロスペクト理論」に似ています。客観的な価値に対して、実際に人が感じる損得感は比例しません。1万円得したときの喜びよりも1万円損したときのガッカリ感は倍以上なのだそうです。得を1としたら損は2〜2.5という数値に表されるということです。

原始時代のものが保存できなかった時代の本能的な働きだとする説があります。その説に従えば、わたし達は本能的に、当たり前にあるものをありがたく思わず、損失を大きく感じて行動を起こさせ、生命を維持しようとする自動運転の中にいるといってもよいでしょう。

わたし達は自動運転の中にいますから、「私」という存在が存在するということすら、認識・評価していません。でも、自分たちには自由意志があり選んでいると思っています。

自動的に反応する中で起きるのは反復運動です。力のかかる方向へ動きます。

何か法律などができると、それは変化につながります。また、より多くの人がそれは問題だと感じて行動を変えると変化につながります。

個々人でもできることはあります。自動反応を止めることが一つ。

例えば、わたし達には他者からどんな反応があっても、自分にはその価値や能力があると感じてそれを表現する自由があります。好きなことに打ち込んで充実した気分を味わう自由があります。

原点回帰

さて、求めているのは何でしたっけ?

平等でしたか? 対等な関係でしたか?

実現したい差別のない世界ではあなたは何をしていますか?

差別がなかったらどんなことをしたいと思ったのですか?

その夢を叶えるために、差別があってもしてきたことはありますか?

その夢を叶えるために、誰かに相談したことはありますか?

その夢を叶えるために、誰かに助けを求めたことはありますか?

その夢を叶えるために、本や公的な機関などで手段を調べたことはありますか?

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