マインドフルネスと思い込み

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また父の話で恐縮ですが、会いに行くとインスピレーションを得るので今回も父の話からです。時々、父から意図がわからない質問や要求を受けることがあります。

食事を一緒にしていると、父から「そんなにたくさん食べれる? 手伝ってあげようか?」と聞かれました。

わたしが「ちょっと多かったかな」とか「すごいたくさん!」とか言ったのならまだしも、大盛りでもない食べ物をなぜ「そんなにたくさん」と決めつけ、「食べれる」か心配してくれ、「手伝おうか」とオファーしてくるのか、父の意図がわかりませんでした。

ハイコンテクスト文化(意味:Weblio辞書)に適応している気の利く人にはこの質問は「ちょっと頂戴」ということだと翻訳できるのかもしれませんが、残念ながらわたしにはこの翻訳機能がついていません。むしろ謎解きのようなやり取りにイラっとしがちです。

じっと食べているのを見られていたので「一口食べる?」と聞いたら「悪いねぇ」と言いながら嬉しそうに食べていました。そこで「欲しかったんだ」とわかります。わかりにくいなぁと思うので、最初から素直に「ちょっと頂戴」と言えばいいのにと思ってしまいます。

逆に、わたしが「文脈から当然わかるだろう」と思うような話が父に通じないことがあります。

わたしが「パートナーとは生活の時間が会わないから夜ご飯はそれぞれ別々に食べる」と言ったら、「違うものを食べるの?」と質問をされました。文脈に時間のことがあるから、別なのは食べる時間であって、食べる内容ではないとわかるだろうと思うのに、そういう質問をします。ちょっとびっくりしましたが「ううん、わたしが二人分作って、同じものを違う時間に食べるという意味」と答えました。父は「別々に食べるというから別々のものを食べるのかと思った」と言っていました。なぜ別のものを食べていると思ったのかはわかりません。そのあと、「朝ご飯だけ一緒に食べるんだよ」と言ったら「昼ご飯は仕事があるから別々に食べるんだね」と言います。父も「別々に食べる」という言い回しを使っていますが、この場合は時間はもちろんのこと、そもそもいる場所も食べるものも別です。

このように、わたしと父は会話がちぐはぐになることがよくあります。これは父の認知症のせいではなく、わたしが幼いころから変わらない会話です。わたしが湾曲な物言いが嫌いなせいもありますし、父の視点がちょっと変わっているせいもあります。わたしだけではなく、母が存命中はそのせいで口論になることもありましたし、兄もずっと苦労しているようです。

父との間で特に何が問題になっているのかというと、前提と目的が違うということだと思っています。

「当然」という思い込み

まず、ちぐはぐなのはお互いの「当然こうだろう」前提に差異があるということなのでしょう。

ただ、父が認知症になった今、わたしは会話が噛み合わないことを前よりもだいぶ許せるようになりました。若いころは話がなかなか通じないことに腹を立てることが多かったのですが、覚えていないということに関して認知症だから仕方ないと思えるようになったおかげで、認知症とは関係のない、話が通じないという部分まで許せるようになってきました。ひとつ、親子だからわかりあえて当然という思い込みが外れたのでしょう。

流行りのマインドフルネスはこういった「当然こうだろう」という思い込みの自動運転をオフにして「いま・ここ」に集中することです。父といるとマインドフルネスができると思えばすれ違いも楽しめる域までいけそうです。

心のどこかに来年米寿を迎える父の寿命がそれほど長くないことも考えているから、言い争うことも不機嫌になることもやめて、一緒にいる時間を穏やかな気持ちで過ごしたいと思っているようなところもあります。

父とわたしの関係は以前のブログ「甘えと自立」→「老いとアイデンティティ危機」→「コントロールと愛」→「自由意思と人生脚本」と変化してきました。興味があれば読んでみてください。

思い込みと目的

昔から率直にものを言わない父が嫌で、母と一緒になって父を変えようと散々してきましたが、父が本音を言わないことに興味が湧いたので、素直に気持ちを表現することがあるのか聞いてみることにしました。

父に「本音を言うことはあるの?」と聞いたら、「本音じゃなくものを言うということがどういうことかわからない」と言われました。「「ちょっと頂戴」と言わずに「手伝おうか」という言い方をするのが本音で言わないということだと思うんだけど」と説明しても、なんだか要点がズレてわかってもらえずに会話が終わりました。

仕方ないのでわたしの思い込みの方について考えてみることにしました(父がどういう人であるとわたしが思い込んでいるのか、それによってわたしの中で、父の言動の目的が変わるので一緒にたどってみてください)。

わたしが父を相手思いのいい人だと思っている場合。「ちょっと頂戴」と言われたら断りづらいだろうと思って「よかれ」として「手伝おうか」と聞いてくれたのかもしれないと、いいように解釈します。だとすれば、ちょっと食べたいという父の本音にわたしが気がつかなくて一口あげなくても父の目的は果たされたことになります。ただ、そう解釈すると、わたしは本当は欲しかったという父の気持ちを理解してあげられなかった自分にがっかりするので、必ず「お父さんもちょっと食べる?」と聞くようになるでしょう。あげるために必ず多めに用意するようになるでしょう。自分の食べたいものだけでなく父が好きなものを考慮するようになるでしょう。

わたしが父を沽券にこだわる嫌な人だと思っている場合。「ちょっと頂戴」と言って断られたらがっかりするから、断られても傷つかないように恩を着せて「多いだろうから手伝ってやる」という立場を作ったのかもしれないと、悪くとります。だとすれば、一口あげてもあげなくても父の威厳は守られることになり、父の目的は果たされます。でも、わたしはそう受け取ることで、父の上からものを言うような態度に腹を立てるし、わざと傷つくように「多いけどあげたくない」と返すことで意地悪すらできます。

わたしが父をいい人でも悪い人でもなく本音しか言わない人だと思っている場合。年を取って以来小食になった父から見たら本当にたくさんあるように見えたのかもしれないと受け取ります。だとすれば、父は手伝ってと言われたら役に立ててうれしいうえに、もらえなくてもいいけどもらえたらうれしい程度だった気持ちも満足できますし、大丈夫と言われれば、じゃあたっぷり食べなさいよ、というだけのことです。本音を言っていたのだから、わたしは言葉通りにだけ受け取ればよいということになります。

父をどういう人だと見るのか、わたしは選ぶことができます。父の本当の目的が何であれ、わたしの目的は父との穏やかな時間を過ごすことですから、父が本音を言わないという思い込みを持つより、父は言ったままの事しか考えていないと捉えておく方がよさそうです。

いい思い込みと悪い思い込み

わたしが父との時間をマインドフルネスで過ごしているように、マインドフルネスとは過去の経験から未来を予測しないで今を感じるという意味だと理解しています。「いつも~だから、どうせ~だろう」とか「~のはずだから~べき」という考え方をしないで「わからない」と思って目の前の物事に取り組むということです。

今を感じる邪魔をするのは、以下のような言葉だそうです。

  • いつも
  • みんな
  • たいてい
  • だいたい
  • よく
  • 最近は
  • 昔は
  • 普段は
  • もう少し
  • きちんと
  • 頑張って など

これらの言葉が表現するものは、その基となる思い込みに引き金を引かれた古い感情だと思います。企業で品質管理の担当をしていたときに、参加者がこういう言葉で話し合うために、具体的で効果的な再発防止策がなかなか立てられず苦労しました。根拠の薄い外的要因を理由に事実を確認することを避けてしまうからです。

逆に、アファーメーションではいい感情に繋がる具体性のない思い込みを作っていくようなものだと考えています。

なので、思い込みがすべて悪いというわけではなく、理想と現実に差を作る思い込みを減らして、理想と現実を近づける思い込みを増やすということが重要なのだろうと思っています。

父とのことだけでなく、目的を見失わずにマインドフルネスと思い込みを使い分けていけるといいなと思っています。

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