なぜできなかったのかわからないこと

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世界平和や差別撤廃、思いやりにあふれた対等で自立した人間の社会が実現しない理由は何だろうと考えてみました。

自分のできなかったことで考えてみる

わたしは小学生のころ、同級生が当たり前にできることがあまりできませんでした。なぜできなかったのかわからないのですが、いつの間にかできるようになり、むしろ割とできる方になっていました。

例えば、忘れ物をしないで学校へ行くことができず、時間割を調べて明日の支度をすることができず、宿題をやっていくことができず、嫌いな授業に取り組むことができず、予習復習ができず、給食をみんなと同じ速度で食べることができませんでした。学校でもらったプリントを親に渡すことができず、親が書いてくれた学校へ提出するプリントを先生に渡すことができず、ほとんどのプリントと食べ残しの給食のパンがランドセルの底でぐちゃぐちゃになって固まっているのを年に1度出してびっくりしていました。家庭科の授業でわたしが持ってくるはずの食材がなかったり、同級生に迷惑をかけることも度々ありました。掛け算を暗記するのも分数の計算も漢字の書き取りも苦手でした。水泳は水着を持ってくるのを忘れ、持ってきたら持って帰るのを忘れ、体温を測るのを忘れて、限られた夏の時期にきちんと授業を受けられない日が多かったせいか、今でもクロールは泳げません。体操着も給食のかっぽう着も持ってくるのも持って帰るのも忘れました。部屋の片づけ、着替えを洗濯カゴや洗濯機に入れること、遅刻しないことなどなどできないことがいっぱいあり、母には心配させたようですが、お小言は言われましたが割と放置されていました(笑)。

認識と価値と感情

こうやってできなかったことをまとめてみると、わたしは自己管理ということがほとんどできなかったことがわかります。

今、自己管理はそれほど苦労せずにできていて、なんであんなにできなかったんだろうと思います。考えれば理由はちゃんとあるので、これから謎解きをしていきましょう。

できなかったことを認識していなかったかといえば、認識はしていました。「セルフイメージ」というタイトルのブログにも書きましたが、それに対して感情的に「悔しい」とか「恥ずかしい」とか「嫌」というネガティブなものを感じていませんでした。忘れ物はすれば授業中に廊下に立たされたり、みんながやっていることを見ているだけになったり、忘れ物表がクラスで断トツトップで一人折り返したり、いい気分ではありませんでした。でも、そんなことが自分を変えたいと思うほどの威力を持つことはありませんでした。

会社組織に属してその一員として働くことと、一人暮らしや当時の恋人との同棲生活をするにあたって、自己管理の必要性を感じてから20代半ばに苦労した思い出があります。自己管理に対しての価値が上がったということだと思います。でも、苦労したのは5年くらいの間だけだった気がします。その5年くらいの間は「~しなきゃ」と頭の中で自分を駆り立てていて、非常に毎日が辛かった覚えがあります。ある日、「~しなきゃ」を「~したい」に変えることを思いつき、できなかったことを「ゼロでなければよし」と評価することや「思い出しただけでも進歩」と評価することを始めてから日常がそれほど辛くなくなりました。

こう書くと、できるようになった方法が「~しなきゃ」を「~したい」に変えて主体として捉えたこと、評価基準を下げて諦めずに続けたことであるのがわかります。

でも、できないときはなぜ自分ができないのか、本人も親も先生もわかりませんでした。

できるようになってしまうと、なぜあんな簡単なことができなかったのだろうと思うわけです。

できなかった本当の理由

勘のいい方はもう本当の理由がわかっていると思いますが、アドラー心理学でいうところの「目的」ではないでしょうか。

逆上がりも、分数の計算もできるようになると、なぜできなかったんだろうと思うほど簡単にできるようになります。

どんな完璧な方法論も人によっては上手く働かないというのは、よくあることです。「主体的に選択すること」と「目的に対して評価を細かくすること」を中心に異口同音の自己啓発書やセミナーが有史以来山ほどありますが、これらが役に立つか立たないかは、その人の目的がはっきりしているかどうかにかかっているからではないかと思うのです。

子どものころのわたしは自己管理にかけるエネルギーを別のことに使っていたのだと思います。何に使っていたかといえば、夢想や読書でした。夢想はともかく、自己管理ができなくても読書に夢中なわたしを親が代わりに何とかしてくれることをわかっていたからでしょう。親の庇護下から出ざるを得ない段階で、自己管理の必要性を感じたのだと思います。振り返ってみると、わたしが自己管理をすることを選んで自立し、ニートにならなかった理由は、「自由であること」の価値が大きかったように感じます。

例えば、ご飯を作ってもらっていれば、その中身が気に入らないものであっても従わざるを得ないわけです。自分で作れば食べたいものを食べることができ、そうできないことも納得がいきます。一番大きかったのは、読書や考え事などで集中している時に、ご飯の時間や入浴時間などで呼ばれて中断することの煩わしさだったように思います。

このように、目的=何を目指しているかというのは、その人が何に価値を置いているのかということに繋がっています。子どものころのわたしは自己管理ができるということに価値を見出していなかったんだと思います。でも、親から自立することに価値を見出し、そのための自己管理に価値があると感じたから、ちょっとした辛い期間を経て工夫して容易に自己管理ができるようになっていったのだと思います。

壮大な理想の実現

以前のブログ「壮大な問題に取り組む」に書いたように、環境問題を含め、差別や戦争や窃盗のような社会の問題を解決できない、言い換えれば人類たっての理想が何千年も実現できない理由は「原因」にあるのではなく、「価値」と「目的」とそこから紡ぎ出す「理想」の問題だと考えています。

何かを実現するにあたり、理想は具体的に想像する必要があるようです。また、その際自分が「何をおいてもこれには価値がある」としている自分の価値観とそれに基づく目的がはっきりと認識されている必要があると思います。そうしないと方法論や手段にこだわってしまったり、容易に実現しないことにいら立ち諦めてしまうことに繋がっていくように思うからです。

例えば、わたしが理想の話をするときに毎度登場してもらう故ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領の存在や、アメリカ合衆国の市民権運動のマルティン・ルーサー・キング牧師の演説がもたらすような理想の具体性は非常に大きなモチベーションとなっていくのだと思います。

マルティン・ルーサー・キング牧師は歴史的な演説でこのように語っています。

私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: “We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal.”

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。

I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.

私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。

I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.

今日、私には夢がある。

I have a dream today!

私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。

I have a dream that one day, down in Alabama, with its vicious racists, with its governor having his lips dripping with the words of “interposition” and “nullification” — one day right there in Alabama little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls as sisters and brothers.

今日、私には夢がある。

I have a dream today!

私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。

I have a dream that one day every valley shall be exalted, and every hill and mountain shall be made low, the rough places will be made plain, and the crooked places will be made straight, and the glory of the Lord shall be revealed and all flesh shall see it together.

American Center Japanのホームページより

いまだその過程ではありますが、だいぶ変わってきてはいると思います。揺り戻しを経験したりしながら、三歩歩いて二歩下がるなら、一歩は進んだことになりますから。この当時、アフロ系と白人の血を引く男性バラク・オバマさんが大統領になると誰が想像したでしょうか。その12年後にアフロ系とアジア系の血を引く女性カマラ・ハリスさんがアメリカ合衆国の副大統領となることを、いったい誰が想像できたでしょうか?

カマラ・ハリスさんはこのように副大統領になったとき演説しました。わたしなりに意訳してみました。

Dream with ambition, lead with conviction, and see yourself in a way that others may not, simply because they’ve not seen it before.

大志をもって夢を見、信念をもって先頭に立ち、他の人たちが見ないような自分の姿を自分に見て。誰もまだ見たことがないからという理由のために見ないような自分自身の姿を。

Kamala Harris カマラ・ハリス

彼女が「大統領になりたい」と夢を抱いたことに対し、他の人たちに「女で有色人種なのになれるわけがない」と言われたことをもって若い女性たちに向けてこの言葉を言っているのですが、この言葉はまた、何かの「初」となるポテンシャルのあるすべての人たちに言っているようにも感じられます。

できすぎた話

さて、こういった理想が「できすぎた話」で「うますぎる話」である(Too good to be true)であると思う人が多ければ何も変わることはないでしょう。トライすることがなければ何千年も何万年も経っても、地球には平和は訪れず差別はなくならず貧困はなくならず戦争も殺人も盗みも暴力もモラハラもパワハラもなくならないでしょう。そして「そんなにうまくいくはずがない」「何千年も実現しないことが実現できるくらいならだれも苦労しないよ」と説得してくる人たちは後を絶たないでしょう。

わたしは以前の「わかり合えないという問題」というブログの中で、葛藤はなくならないから、わかり合えた時の喜びを糧に、わかり合えないことを前提としてわかり合おうと工夫することを楽しむしかないと書きました。わたしたちは気がついたら存在していて、その存在しているわたしたちの目的は、存在している限りは、なるだけ幸せに平和に安全に豊かに楽しく暮らすことだろうと思いますし、そのための方法やこだわりや思い込みがそれぞれ違っていて、葛藤があるということだと思うのです。葛藤はよりよい最善の方法を導き出すための必要なものであり、失敗はダメな方法を改善するための経験値であり、不快は理想を具体化するための気づきやきっかけであると思うのです。

方法論にこだわってわたしたちがお互いに敵対する限り、平和も安全もない気がします。

わたしたちは数十年前に比べても疫病・自然災害・他の生き物から身を守り、食べものや水を確保し雨風を凌いで皮膚を保護して生きることはだいぶ上手にできるようになりました。疫病や自然災害や獰猛な動物など以外に平和や安全を侵すのは人間同士の方がむしろ多いようにすら見えます。COVID-19による全世界の死者数は550万人に達したと2021年11月の記事は報告していますが、第二次世界大戦における全世界の犠牲者数は5000万人~8000万人(Wikipedia)と言われています。

しかし、お互いに対する暴力も減っているというスティーブン・ピンカーさんの説もあります。スティーブン・ピンカーさんが楽観的過ぎて事実を見ていないとし、過去のTwitterでのツイートをもとに差別を看過しているとされて意見の合わない人たちから糾弾されているようですが。

わたしはむしろ、スティーブン・ピンカーさんに対する意見の合わない人たちの反応を見ても、有史以来わたしたちがやってきた「罰する」という方法で「意見を一致させて同じ目的に向かって力を合わせる」ということが全くその目的を果たすためには機能しない方法なのではないかと感じます。そのことについては「罪と罰と寛容」で書いている通りです。もしかすると罰がいい方法ではないということについては小さな子どもたちの方がよくわかっている気すらするのです。

わたしはわたしたちによりよい社会を構築するポテンシャルはあるのだと考えています。わたしたち人類はもっと信頼に値する存在だと感じています。宗教であれ国益であれ対立する理由は方法の違いだけで、本質的な願いは同じだと感じるからです。わたしたちが人類の敵を人類にしてしまったのは、わたしたち自身が自分たちを信頼できないと信じているからではないでしょうか。

限界を超える

歴史を振り返ると、わたしたちはもうこれ以上できないだろうという記録を出し、それらを常に更新しています。例えば先に行われた東京オリンピックでもいくつか記録を塗り替えました。わたしたちはどこまで自分たちの限界を押し広げることができるのでしょうか?

わたしたちは理想の実現についても、今までと違うアプローチで達成することができるのではないでしょうか? 今まで力や罰や法律や消耗する果てしない努力で何とかできると考えてきたけれど、それらは方法のひとつでしかありません。

うますぎる話だと思うのをやめ、今まで暫定的に短期的に表面的にはうまくいっても「いたちごっこ」になっているような方法を使って解決したと思い込むのをやめ、根本的な解決が可能としてできてきたことから学び、「なんであんなことができなかったんだろう?」と笑うところへ行けるのではないでしょうか。

こんな話はちょっと強引だと感じる方もいらっしゃるでしょうし、傍若無人で荒唐無稽で楽観的過ぎると感じる方もいらっしゃるでしょう。現実を見ていないとお叱りを受けるような内容だということは理解しています。でも、あきらめの悪いわたしは戦争や差別のない世界をあきらめることができないので、こんなことを考えながら毎日生きています。スティーブン・ピンカーさんほどの影響力もない小物ですし、多様性の中の一つとして戯れ言を許してもらえれば幸いです。

そして、砂粒のひとつほどのものでも構わないので、わたし以外のだれかの心に希望の光が灯ればもっと幸いです。

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