差別と偏見

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「アイデンティティ」「選択」「相対」「セルフイメージ」「価値」といったことを軸に、「差別と平等」「エンパワーメント」という分野の「障害となる考え」は何かといったことや「理想」はどんなことかを考えて書いてきましたが、乱暴に一言で言ってしまえば、一人ひとりの人間が社会という人間の集まりの中で自分をどう捉えるのかということにかかっているということ以外にないのではないかと思います。

以前のブログ「ダイバーシティとインクルーシブで起きる矛盾」で書きましたが、わたしはアンネ・フランクに触れて以来「差別」について小学校3~4年生くらいのころから考えてきたので、かれこれ40年以上になります。

ここで「差別」と「偏見」の違いをクリアにしつつ、自分がここでこの二語を使い分ける意図を説明しておきたいと思います。

辞書によると「差別」には二つの意味があることがわかります。

1あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の差別を明らかにする」

2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって差別しない」「人種差別」

出典:デジタル大辞泉(小学館)

以前のブログで中野信子さんの言っていた微分値ということをお借りして書きましたが、自分が幸福かどうか認識するなど、「認識」という行為は、例えばある一定の測定対象(身長とか収入とかジェンダーとか美醜とか)において、今現在の自分を他の人や過去の自分や理想の自分と比較することで行われます。そこで見えるのは傾きであり、傾き自体には何の意味もありません。例えば赤いチューリップと黄色いチューリップは色が違って見えるということしか意味をなさないはずなのです。

でも、2の意味における差別になると、「取り扱いに差をつける」ことですから、赤いチューリップは好きだから飾って黄色いチューリップは嫌いなので捨てる、というような「価値」の差が付け加えられているわけです。

「偏見」の意味を調べてみましょう。

かたよった見方・考え方。ある集団や個人に対して、客観的な根拠なしにいだかれる非好意的な先入観や判断。「偏見を持つ」「人種的偏見」

出典:デジタル大辞泉(小学館)

偏見は「差別」の意味の2に繋がる「価値の差」について書かれていると言っていいでしょう。

差別は行為です。偏見は考えです。差別するのは偏見を持っているからですね。

なぜこれらをクリアにしたかというと、差別の2つの意味の分岐となる意図を重要視したいからです。

偏見は自分が所属していると思っている集団(内集団)の価値と関わっていると思います。

行動心理学によると、人は社会的アイデンティティというものがあり、内集団の一員だと思うだけで愛情を感じる性質があり、社会的アイデンティティが評価されると自分まで誇らしく感じる(栄光浴効果)性質があるそうです。例えばスポーツなどで応援するチームが勝っただけで自分の価値も一緒に上がったように誇らしい気持ちになるなどがそれです。

この、栄光浴効果はたくさんの勘違いの思い込みを産んでいます。例えば有名人の身に着けているブランドと同じブランドのファッションを身に着けると、自分まで社会的価値が上がったような気になるというのがそれです。ブランドそのものの価値(一次価値)に、その価値のものを身に着けられる(二次価値)有名人という価値があり、その有名人が認める価値のあるブランド物を身に着ける自分も価値がある(三次価値?)と思い込むことができるからでしょう。

でも、もしもある人が社会的に多くの人々がそれにどんな価値を付与しているのかということに無頓着であれば、その人はオリンピックで日本チームが勝っても興奮することもなく、ブランドの名前すら知らないということも起こりうるでしょう。

そう考えると、価値というのは多くの人々が共有する価値観に沿って価値があるとするのか、自分がそう思うから価値があるのか、一見悩むところですが、最終的には共有された方か独自の方かを決めているのが自分である限り、自分がそうと認めたものに価値があるということに集約されるのではないかと思うわけです。

しかも、「そうと認める」というのは、何かを何かと別のものであると区分けすることにほかなりませんから、最初に調べた「差別」の1の意味のことということになります。

あるものの価値を認めるということは、それ以外のものの価値は認めないとはイコールではありません。「それ以外のもの」をそもそも「それ以外」として認めないと「価値を認めるあるもの」のことも認識できないからです。例えば「卵」というのはその他の「卵ではないすべて」によって弁証法的に成り立っているのだと思います。そう考えると、モノは見えるし触れられるし名前を付けているから、わたしたちは「在る」と思っていますが、それ以外の「見えないもの」「触れられないもの」「名前のないもの」も、認識できないだけで実は在るのかもしれません。カエルは動いていないものや写真のような平面のものを認識しないと言われています(実際には多少できるようです)が、やはり以前のブログ「『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』感想」に書いたように、自分の興味のあるものや自説を裏付けるもの以外を採用しない人間の認知の偏りは非常に強いのかもしれません。

しかし、本来「認識する」ということ自体には「差別」の意味1の意味はあっても「差別」の意味2のような「不当に低く取り扱う」行為はありません。偏見を持ったとき、その差異に二次的三次的な意味が付与されていくのではないでしょうか。その優劣や善悪や正誤や上下といった偏見によって、わたしたちの心を傷つけるような意味を持たせるのは一体誰なのでしょうか。その偏見は本当に「社会」に不変なものとして存在し、変えがたく当たり前として力を持つのでしょうか。

偏見をなくすことはできないでしょう。その偏見を持って世界を捉えることで、自分の存在の価値を高めたいという意図があるからです。だから、その偏見を自分の価値の判断基準として採用してアイデンティティを持っている人には、その偏見をなくすことは存在価値の危機を意味します(「男女差別を解決する思考実験」参照)。「他の人を不当に低く取り扱う」ことで自分の価値が上がると信じているのですから、その人の世界ではそうなんだろうと思います。だから、それを奪おうとすると攻撃されることがあります。自分が軽蔑する相手が自分より幸せであることも、多くの人に認められているように見えることも耐えられないし、ましてや自分の考え方が間違っているから改めろと強要されるのは耐えがたいことなのだと思います。自分で気がついて改めるにしろ、相当な時間とエネルギーを要する世界の再構築となるはずです。その過程では前述の「ダイバーシティとインクルーシブで起きる矛盾」で書いたように、差別する人を差別するという過程を経ることもあると思います。

ではどうするか。ある一定数の人たちが、まだ名前のついていない見えない価値を発見していくことでクリティカルマスを形成し、新たな価値観を名付けて社会に存在させることは可能なのではないかと思っています。

#MeTooのSNS拡散が起きた2017年から4年が経ち、声をあげる人たちがクリティカルマスを形成してきた結果、動かない壁のように感じていた何かが動き始めている気配を感じるのはわたしだけでしょうか。少なくとも、もう二度と元の世界観に戻ることはなくなったと感じています。

差別も偏見もなくすことは出来ないと思いますが、自らの中や社会の中に新しい価値を見出して、それそのものとして生きることは可能だと思います。

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