感情が怖い

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今朝、近所の小さな子どもが泣き叫んでかんしゃくを起こしている声を耳にしました。全身全霊で泣き叫んでいました。

なぜあそこまで激しく感情的になるのでしょう。

かんしゃくを起こすのは子どもだけではありませんよね。大人でもたくさんいます。わたしも年に数回ほど、かんしゃくを起こすことがあります。

我慢していた

わたしは基本的には穏やかで平和主義なのですが、そのせいなのか、負の感情をためがちです。何か不満なことがあった瞬間に「えー!」っと言えばそれで相手にも不満は伝わるしわたしも表現できて終わってしまうものを、「えー!」と言うまでの1秒未満の瞬時に相手がわたしに不満を表明されて困惑する気持ちまで考えてグッと抑えてしまうことが多いみたいです。そういう小さな小さな不満は薄皮のように積もっていきます。後になって巨大な不満となり恨みと化して私自身も相手との関係もぶち壊す起爆剤となってしまったことが何度もあります。

このところの自粛生活のおかげで、静かに自分の観察と分析を続け、気がついたことがいくつかありした。

最大の発見は、わたしはネガティブな感情が怖いのだということでした。

がっかりすることされること、寂しい気持ちになることさせてしまうこと、怒ること怒られることなどなどです。

自分のネガティブな感情とどう向き合っていいかわからないので、他人のそれはもっとどうしていいかわからない怖いものです。

相手のネガティブな感情を引き出さないために、なんという我慢と努力を重ねていたのか!

独りが好き

わたしは、明るく、元気で、ポジティブでいること、ご機嫌で幸せでいること、穏やかで無理のない状態でいることは得意なのですが、いつもそうというわけにもいかないので、毒抜きガス抜きがどうしても必要になります。

そうなると、どうしても誰かとずっと一緒にいることは不可能になります。

一人でいる時間が何よりも大事だし、そういう時間にまっさきに自分のことを優先し、甘やかし、大事にし、自分が満足するまでとことん付き合うという時間を必要とします。

そうやって自分に対する愛情に満ち溢れ、満足したらやっと誰かほかの人と向き合うことができるようになります。

どうしてそんなことになったのだろうと、きっかけになったエピソードを過去にさかのぼって見ていくと、小学校入学直前に父が倒れて入院したことが大きな転機だったということが判りました。わがままが許されない空気の中、それまで甘えん坊だったわたしは小学生になるという象徴的な出来事と併せて、よくわからないまま自分でネガティブな感情を処理するよう言い渡された感じになってしまったのだと分析しました。

ちょうど同じころ、かんしゃくを起こして「もう小学生になるのだから、ちゃんと言葉にして説明できるようになりなさい」と父に諭されたことを覚えていますが、そう言われても言葉にできないことが多く、かといってかんしゃくを起こすこともできないので、とにかく黙って泣くということをしてきたのだとわかりました。

共依存の正体は慾ではないかという説を以前のブログで異口同音に何度か書きましたが、かんしゃくもひとつの慾の現れだと考えます。

慾は悪者ではない

わたしは善悪二元論ではない形で物事を考えるのが好きです。ほかのブログで書いているとおり、善悪の判断は価値観によると考えているからです。

発達心理学によると、イヤイヤ期の子どもたちは自我の目覚めを体験・体現しているのだそうです。

欲望は抑制されると強くなりますよね。ダイエットなどで、食べられないとわかると普段食べないものまで食べたくなる、あれです。壁にぶつかって初めて自分がそういう欲望を持った存在であるということに気づくということでしょうか。

すんなりいったことは意識しませんよね。思い通りにいかなかったことほど意識します。慾という形でその内側から出てくる「できない?!でもそうしたいんだよ!」という衝動を感じ取ります。自己を自分と自分ではないものという風に比較するだけでなく、慾という形でも認識するという仮説を立てることが可能なのではないでしょうか。

もっと大胆に言い換えれば、慾というのが自分が自分であるということだと言ってもいいのかもしれません。だから、慾を持つことをいけないことだとしてしまうと、自己を否定していることになり、いろいろな不調が多方面で発生してしまうのではないでしょうか。

わたしの抑圧された上に厳しく罰せられた「慾」は鬼のようなものに姿を変えていきます。罪悪感はわたしを悪人にします。罪状は慾をもち我を張りわがまま自分勝手を通したということです。

本当にそうでしょうか?

他人の不快は自分の不快

赤ん坊が「ギャー」と泣いているのを「あらあら、眠いのね」とか「おっぱいが欲しいのね」とか「おむつが気持ち悪いのね」と代弁してあげられる人は、あまり赤ん坊を嫌うことはありませんよね。赤ん坊の泣き声に我慢できない人またはたまたま我慢できないとき、わたしたちは自分の泣き声に答えてあげていないのではないでしょうか?それを、余裕がないという言い方をすることもできると思います。

自分の感情すら面倒見てあげられていないのに、どうして小さいからといって全身でかんしゃくを起こすのを許すことができるでしょうか?

共感力は「他人の不快が不快である」という機能から発達するという発達心理学の本を読んだことがあります。子どもは発達してくると最初は泣いているお友だちがいると一緒に泣き始めます。次には泣いているお友だちに自分のお母さんを連れて行ったり自分のお気に入りのものを持って行ったりして慰めようとすると書いてありました。やがてその子のお母さんを連れていったりその子のお気に入りのものを持って行くようになるのだそうです。

近しい人との関係の中で特に問題が起きるのは、相手や自分がネガティブな感情を抱くことを恐れて逃げ回っているからで、わたしがとにかく自分のネガティブな感情と仲良くなるしかないと考えるようになりました。

わたしは自分のネガティブな感情とどうやったら上手に寄り添うことができるか、ということをこの1カ月ほど考え、本やウェビナーなどで勉強してみました。

過去、自分の親が何らかの理由で上手にやり方を見せられなかったとして、それは変えることはできません。わたしの場合はある時期に父が結構重い病に倒れ、一家が路頭に迷うことになるか?!という危機に直面していたので、親はそれどころではなかったのだと理解しています。そもそもそれより前から問題があったのだとも思いますが、とりあえずそのイベントのインパクトが大きかったと考えていいと思っています。

以上のことから、わたしのようなケースでは、親から教えてもらうチャンスがなかったという条件の下で、何ができるかを考える必要があると判断しました。

やり過ごす方法として今までとってきた方法は、

  • 直接出さない
  • 相手のせいにする
  • 限界まで我慢する
  • 隠す・ごまかす・見せない
  • 独りのときに処理する
  • 「いいもん、別に~するから」と別のことを自分に許す

などだと思います。

どれも長い目で見るとベストな方法ではないと、この方法で5、6歳の時から40年以上やってみて思います。とくに、相手のせいにする方法は、相手を悪者にすることで自分の欲望を転嫁しますが、最初から誰も悪くないならそれが一番だと思うようになりました。相手のせいにするということについては「共依存の正体」や「悪意の善人あるいは善意の悪人」や「罪悪感の用法」などで書いたので、お時間があるときにでも読んでみてください。

次回、上手に感情に寄り添うことを教わることがなかったアラフィフがそれを独学する、というテーマで、この1カ月で学んだことや実際の生活でトライしてみたこととそれをやって感じたことなどを書きたいと思います。

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