共有できない体験を共有できるか

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WE GiRLsCANは勉強会でスピリチャルや占いを取り扱います。その理由はわたしが割と幼いころからオカルトと呼ばれることに興味を持っていることと、何より自分で神秘体験をしたことにあります。

神秘体験は人と共有することができない体験です。他に似たような体験をした人と共有することは可能でしょう。でも演劇を劇場で見るように不特定多数の人たちと共時的に共有することは不可能です。夢だったとか気のせいだと割り切ってしまうことも可能です。でも、こういうことを否定してしまうことは、自分への不信感を育て、世界の可能性に目をつぶってしまうことになるような気がするのです。

経験

わたしはすべての経験はパーソナルだと思っています。それを言葉や絵でアウトプットして初めて他者との共有が可能となります。

経験というのは感覚器官を通して知覚された出来事のことを言います。目や耳といった外界を感知するための感覚器官は誰にもわかりやすいものだと思います。

例えばリンゴが目の前にあったとします。わたしはそばにいた人に「リンゴがある」と言います。わたしはリンゴというものを経験上知っているし、それを「リンゴ」という言葉で言い表すことができることも知っています。それができるのは相手と「リンゴ」という言葉に与えられた意味を共有しているからです。

目に見えないもの

では、「愛」「友情」「時間」「価値」「エネルギー」「霊」「記憶」「善悪」といった概念や感覚のようなものをわたしたちはどのように共有しているのでしょうか。

これらは「全く存在しない」というものから「実感する」までのあらゆるスペクトラムの範囲で捉えられているものだと思います。

時間はみなが実感するからこそ時計や暦で測ったり記録したりしますが、量子論では時間は存在しないという理論が存在します。また、日常わたしたちが疑いもなく利用している電気エネルギーは江戸時代の人たちには想像もつかないものです。

スピリチャルな体験も人と共有できないもののひとつです。幽霊が見えたといったら頭がおかしいと思われるでしょうし、自分でも気のせいだったと思いたいし、何かの見間違いだと思えば見えない大多数の人たちから外れることなく同じものだけを共有して安心できます。

すべての経験には価値がある

わたしたちは「多数の人たちと共有できないことは取るに足りないものだ」と考えてしまう傾向を持っているような気がします。しかし、それは「共有できない」ということであって、「存在しない」ということではないと思うようになりました。例えば、スワヒリ語が分からないとスワヒリ語でしゃべっている相手が何を言っているかわからないように、共有できなかった理由が相手にそれを感知する感覚器官がないだけかもしれませんし、気圧の変化によって片頭痛を起こす人となんともない人がいるように、刺激に対する反応の強弱が違っているだけかもしれないと考えるからです。

江戸時代の人には想像もつかない電気を利用した生活は、電気が存在しなかったわけではなく、知らなかったから利用していなかっただけです。同じように、皮膚を構成しているケラチノサイトという細胞も、21世紀に入ってから色や音や気圧の変化を感じ取り、脳や神経と同じように受容体を持っていることがわかってきました。直接触れたものだけでなく、目や耳からは受け取れない微細な環境の変化を受け取り、脳へと信号を送っているのです。微細な環境の変化は人によっては受け取れないものかもしれません。あるいは感じていても気のせいだと無視してしまうのかもしれません。敏感な人の天気予報は天気図を読み解くより正確な可能性があるということではないでしょうか。

「彼ら」と「私」、「私たち」と「彼/彼女」

さて、わたしたちが少数派であるとき、多数の人の感覚器官ではとらえられない出来事の数々を、多数の人たちと共有することはできるでしょうか。逆に、わたしたちが多数派であるとき、少数の人が共有しようとする理解できない事象を、受け入れて共有することができるでしょうか。

ここには所属というアイデンティティを形成する基準のひとつが関わっていて、単純な情報伝達以上の困難があると思います。「私」vs.「私が感じることを感じない彼ら」だったり、「私たち」vs.「私たちが感じないことを感じると主張する彼/彼女」という構造です。

でも、結論としては共有すること自体は可能なのだと思います。ただ、「それ」を「見せる」ことができるもの以外は、共有するまでに時間がかかるということではないかと思うのです。「百聞は一見に如かず」という通り、「見る」ということは情報としてインパクトが大きいから、アイデンティティの危機をはらんでいたとしても否定することが難しくなります。見てしまったら受け入れざるを得ないというほうが近い表現になるでしょうか。

目に見えないものは、それらを共有するための語彙がなかったり、事例が少なかったり、各自の感覚器官が十分なフォーカスを向けられていなかったりするということが一番大きな障壁だと思います。共有するためのツールが揃っていないわけです。昔から「筆舌に尽くしがたい」という表現があるとおり、言葉で表現できないことがあるのは確かです。

しかし、フォーカスを向ける訓練をしていけば、やがてそれを「感じる」ことができるようになると思うのです。それは、最初はあるかないかの議論でもよいのです。なぜなら、議論することでフォーカスが向けられるからです。

未来を垣間見る

科学で「再現可能性」ということが言われますが、再現するすべがないだけのことを再現できないからと否定してしまうのは科学的な態度ではないと思うのです。理解できないことは理解しない言い訳として却下するのではなく、理解しようと努力することが欠かせないでしょう。また、理解できたとしてもそれを説明するすべがないことを説明できないという理由で却下するのではなく、説明するすべを模索することが欠かせないでしょう。

科学では、仮説がまずあります。そしてその仮説を証明していくわけです。ですから、仮説が見せた世界がどうしても受け入れがたい、にわかには理解できない形になることもあるようです。例えば、量子論で有名な「シュレディンガーの猫」は、もともとある仮説に異議を唱えようと考えた思考実験で、「その仮説が正しければ猫が生きている状態と死んでいる状態が同時に存在するということになるからその理論はおかしい」と言おうとしたものなのだそうです。でも、今ではそれがどうも「正しい」ということになるのだそうです。シュレディンガーの猫は生死を確認する人の意識に結果を左右されるし、確認するまでは生きているし死んでいるとのこと。でも、正しくてもなぜそんなことが可能なのかはまだわかっていません。

シュレディンガーの猫について詳しく知りたい方は、こちらの方のブログがとてもよくわかりやすいです。(勝手にリンク)

愛とか、正義とか、夢とか、希望とか、思いやりとか、権利とか、尊さとか、善とか、信頼とか、絆とか、わたしたちの気分を明るく安定したものにする目に見えないものを否定してしまうような流れが永く続いてきたと思います。でも、今の社会のシステムの一部同じ形のまま続けられないのはたくさんの人たちが感じ取ってきたのではないでしょうか。どんなに悲惨な現実を前にしても垣間見える未来から差し込む光を無視し続けることはできないのだと思います。

『微分値と「私」』というブログにも書きましたが、またここに今見えるものではなく目に見えないものを見続けて実現したネルソン・マンデラの言葉を置いておきます。

“The power of imagination created the illusion that my vision went much farther than the naked eye could actually see”.

「想像力は現実に肉眼で見えている世界を遥かに超えるほどの幻想(理想)を作ってくれた」

Nelson Mandela ネルソン・マンデラ

わたしたち人類はいずれ、目に見えないものがもっとはっきりと理解できるようになる気がしています。それには、目に見えない世界を体験した人たちがもっと自信を持って自分の体験を語る必要があると思い、こんなことを書いてみました。

猫を抱いた女の子の写真:Gpointstudio – jp.freepik.com によって作成された写真

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