セルフイメージ

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対人比較欲求

思春期になると、私たちは他人と自分を比較するようになります。
心理学の言葉では「対人比較欲求」といい、他人と比べて自分の属する社会での立ち位置を確認、つまり他の人と比べることで相対的な自己評価をします。
私は空気が読めない変わり者だったので、思春期の頃に周りがやっているように相対的に自己評価をすることがあまりできませんでした。
自分なりの評価基準があり、絶対的な自己評価をしてたのだと思います。
例えば悪い点を取ったりしたときに、親に「悔しいという感情はないのか?」と聞かれたことを覚えていますが、私は悔しくなかったのです。
また、親に年頃の女の子たちのように可愛らしい文字を書けないことも恥ずかしくないのかと聞かれたことがありましたが、質問の意図すらわかっていなかったと思います。
でも、それらを覚えているということは、そういう考え方にとても強い印象を持ったからでしょうね。

理想の自分と現実の自分

相対的に比較する対象は他人だけではなく、理想の自分と比較することもあるそうです。
理想が高すぎると自己嫌悪に陥ることもあるようですから、比較には適正な基準を設ける必要があるようです。
理想の自分があるなら、現実の自分もあります。
「問題とは理想と現実の差のことである」という考え方があるくらいですから、理想が高いと自己嫌悪に陥るというのももっともなことだと思います。
では、現実とは何を指すのでしょうか?
「現実」をどんな風に何から導き出すのかということが自己評価のカギとなっていると私は考えています。
自己評価の方法のひとつに「社会的真実性」というものがあります。
自分を周りの人たちと比較して得られる判断結果が社会的真実性です。
例えばどのくらいの収入があるのかなどです。
他の同い年くらいの同等の学歴の人と同じくらいの収入があれば安心するというわけです。

アイデンティティ

しかし、なぜ人は他人と比較して安心したり不安になったりするのでしょうか?
何のためにこんなことをしているのでしょうか?
残念ながら私にはこの答えは見いだせていません。スピリチャル的には自分なりの見解はありますが、それを科学的に納得できる形で説明したものにまだ出会っていません。
「人間は自分が何者なのかという切実な問いを内包して生まれてきた」としか思えません。
これがアイデンティティであり、そのために人は命を懸けるほどに必死になります。
所属する社会に安心感や自分らしさを見出したり。
例えばワールドカップやオリンピックで自分の所属する国のチームが勝てば自分のことのようにうれしかったり、自分の属する国のチーム以外の国のチームを目の敵にしてファン同士で喧嘩したりするのです。
アイデンティティはWE GiRLs CANの活動である女性のエンパワメントやジェンダー平等にも関係がある、「女であること」や「女らしさ」などにも関係があります。
ファン同士で喧嘩するように、男女間で差別が発生する仕組みもアイデンティティをめぐる問題であると考えています。

自己評価とセルフイメージ

最初に私自身の思春期の話で、私が自分なりの評価基準をもって絶対的な自己評価を行っていたことを書きました。
便宜上この絶対的な自己評価の形を「セルフイメージ」と名付けます。
セルフイメージは「自分の属する社会」の枠組みを自由に行き来し、飛び越え、組み替えます。
私の自分なりの評価基準は「好き」や「心地よさ」という単純な感覚的なセンサーです。
これには決してイデオロギー的な無理のある力が入りません。
自分がそれを選ぶ基準は「好き」であり、選んで体現することに「心地よさ」があるかどうかだけを頼りに進みます。
WE GiRLs CANが重要視しているのはセルフイメージの大切さです。
私が全く相対的に自己評価をしていないわけではありませんが、少なくとも人と比較することで定義やイデオロギーに縛られて苦しくなったら「好き」に立ち返ることでバランスをとってきたと思います。

自分をどうとらえているかは世界観に現れる

自分を観察していると、絶対的な自己評価を頼りにしているときは「自分も世界が好きで、世界も自分を好きである」という相思相愛な世界観を持っています。
相対的な自己評価を頼りにしているときは「本当に客観的であるとはどういうことか?」という一種の恐れにも似た危うさを内包しながら、批判的な視点を自分にも世界にも向けている感じがします。
相対的なのだから、何と比較するかによって変わってしまうからです。
何かと比較してだから大丈夫とするなんて、本当に危うい基準だと感じます。
危ういものだからこそ、人は必死にそこに立脚したアイデンティティを守ろうとするのではないかと考えています。
差別はまさにそこに存在するのだと考えています。
あの人よりましだと思いたいのに、あの人は私より幸せそうだということが、自分のアイデンティティを脅かすことがあるのです。
差別をするときに、良心があるなら、このことに気が付くのは比較的簡単だと思います。
でも、差別されたときにこそ、差別に反応する自分を見つめなければいけないと考えるのがWE GiRLs CANの活動の骨子なのです。
なぜなら、同じ相対的評価を逆側から支えているからこそ反応すると考えられるからです。
WE GiRLs CANは、絶対的な自己評価に立ち返れば相手の差別の仕組みから外れて、自由になることができると考えています。

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