アドラー先生は「優越性の追求」(ダイアモンドオンラインで詳細をどうぞ)を人間の普遍的な欲求であると言っています。マズローも同様に「自己実現」(詳細はウイキペディアで)を人間の普遍的な欲求であると言っています。多くの人たちがこの共通点について言及しています(アドラー マズローで検索してみてください)。今回はこのことを書いてみたいと思います。
また認知症の父のおかげで出たネタです(笑)
優劣の歴史
人間の歴史を振り返ると、途中までは人間以外の生き物や気候などと戦うことから、お互いの縄張りや取り分を戦うことへと変わっていったように見えます。
創世記にも「カインとアベル」(詳細はウイキペディアで)に見られる優劣の葛藤が描かれており、単純に考えてしまうと優劣そのものが悪いように考えてしまいがちです。これは本当に悲しい事件だと思います。協力し合って励まし合って分業して共栄を目指すことができたはずの二人が優劣に囚われたために殺人の加害者と被害者という関係になってしまったこと。優劣という考え方さえなければと考えていたこともありました。
しかし、アドラーもマズローもそれを「人間の普遍的な欲求である」と言います。そして、彼らがそれに期待するのは希望のある「健康的な優劣に向かう欲求の発露」です。
優劣そのものは不要なものではなく、間違った方向にそのエネルギーを使うことを警戒しなければいけないというようなことをアドラーは言っています。悲惨な人間同士の争いの歴史はそれを物語っているようです。
アイデンティティと優劣
わたしの父は昭和9年生まれ、小学生のころに戦争を体験しています。終戦の昭和20年に父は11歳で、国民学校初等科の5年生だったはずです。名前を生まれる前に村に降り立った戦闘機のパイロットからもらったと聞いたことがあります。
わたしは第二次世界大戦の被害をインターネット上の地図にピンを指して後世に伝えようというプロジェクトに執筆者の一人として参加しています。もうすでに3年以上が経ち、だいぶ詳しくなりました。この仕事が父の人となりを理解するのに役立つことがあります。
世界中が自らの優越性を、武力を行使することで誇示し合っていた時代に、富国強兵の理想を学校や家庭で教えられて育ちました。世界の価値観は力を高く評価していました。武器によって決裂した利害対立を制して思い通りに自国の繁栄を勝ち取ることを目指したのです。平民の家庭の男子は兵隊予備人員であり、愛国心を育て兵士として進んで戦うよう育てられました。技術も芸術もすべては戦争に勝って国家が栄えるために利用されていました。
父にはアドラー先生が言うところの「優越コンプレックス」があります。本当に優越しているのであればしないことをたくさんします。「頼っているのに偉そうなポジションを死守するためのあれやこれや」です。
「老いとアイデンティティ危機」で書いたように、父はスクリプトを使って短期記憶の障害を補っていますが、最近はそのスクリプトも機能が衰えているようで、いよいよ前頭葉でのアルツハイマー型認知症の進行が見られるように感じます。「私とは頭脳を使って工夫して何でもこなす人より優れた人間である」という父が父であるというアイデンティがあるため、この段階でさらなる危機を迎えているようです。自分がバカにして見下している人に最も自尊心に直結する「シモ」のことで世話にならなければならないという屈辱との戦いです。
時代的な背景が人格形成に与えたこととその選択を尊重したいとは思うし、認知症であることを考慮して優しく大目に見なければならないだろうとは考えていますが、わたし自身のアイデンティティも父のような優劣に終始する価値観への幻滅から出発して、理想となるアドラーやマズローが描いたような対等で開かれた共生の世界観へと到達しているため、不快感を感じてしまうのを禁じ得ないところがあります。一番いいのは距離を保つことではあるのですが、何せ相手は助けなしに生活ができなくなりつつあり、娘以外に弱みを見せたくないと頑ななのでとても困っています。
健康な優越性
もし、対人関係で優越性を保つことを人生の目的と据えるならば、その人の人生は常に戦いであり続けることでしょう。アドラーは「人生の悩みはすべて対人関係にある」と言います。しかし、対人関係を自立した個人同士の励まし合いの場とできるならば悩みは解決されると説いています。
たしかに、優越性は過去の自分が「こうなりたい」と願ったときのその姿と今の自分の比較に感じればいいもので、今現在「こうなりたい」にどのくらい近づいたかを知るための道しるべだと思います。
理想が高いと、それを達成するのに節制と努力が長い期間必要になります。自制心が求められ、犠牲にしたものがあるように感じてしまうこともあります。
こういう時に必要なのは優しい評価基準です。理想を下げるのではありません。評価ポイントを段階的に評価できるようにするということです。
「なぜできなかったのかわからないこと」で「ある日、「~しなきゃ」を「~したい」に変えることを思いつき、できなかったことを「ゼロでなければよし」と評価することや「思い出しただけでも進歩」と評価することを始めてから日常がそれほど辛くなくなりました。」と書きましたが、自分で決めたことを引き受けることでわたしたちは自立し、できなかったことのできた部分を評価できる基準を持つことで自らを励ましていくことができるようになると思うのです。
誰かの足を引っ張ることで感じる優越感は長く続きません。劣等感をごまかすことでは、理想には一歩も近づいていないことを、自分が一番よく知っているからです。自分よりダメな人を批判しても自分がやっていない節制や努力は増えません。自分よりも節制し努力して結果を出せた人を殺しても、自分が優位に立つことはあっても優越することはできないでしょう。むしろ何かにおびえ、自分に嘘をつき生きていくしかなくなるでしょう。
アドラーが言うように優越性の追求が人間の普遍的な欲求であり、マズローが言うように自己実現が人間の普遍的な欲求であるならば、できなかったことをできるようになり、理想に向けて努力したいという欲求はわたしたちの中かから消えることはありません。
どんな言い訳を考えてサボろうと、どんな相手を見つけて力で努力しないことをごまかそうと、わたしたちが無意識の中に抱えている「理想の人間像」への欲求はわたしたちを逃してくれることはないでしょう。その欲求は決してそのための努力をしないことを許さないでしょう。
何千年何万年かかっても、人類はそこへ向かってしまうでしょう。今は解決できそうにない問題を解決する姿が、わたしには見える気がします。
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