わかり合えないという問題

わかり合えないという問題

私は第二次世界大戦の戦災状況について調べて書く仕事をしています。
それをやっていて思うのは、争いも差別もなくなることがないのだろう、ということです。

悲観的になっているわけではありません。
私は、人間の本質として、戦争や差別の原因となる葛藤(意見の相違、コンフリクト)はなくならないのだと思っています。
自分一人でも葛藤を内部に抱えることがあるのですから、ましてや約75億人もいる地球上の人間社会に葛藤がない方が不思議です。

ただ、葛藤の解決方法はたくさんあり、私たちは解決方法を選ぶことができます。
話し合いや全く新しいアイディアを出すことによる、平和的な解決方法があります。
一方でけんかやだまし合いなどの、力による解決方法があり、その最大のものが戦争であろうと思います。

しかし、力による解決方法は前回のブログで述べたようなバックラッシュを逃れ得ません。
先のブログではバックラッシュは単純に悪いものではないと書きましたが、多くの人の命まで奪ってしまうような解決策を、正義の名の下に続けることが本当に私たち人類にとっていいことであるはずがないとも思っています。
どんなに良い思想や制度であっても、極端な力による改革でそれを押し通したのでは、政権に立った新たな権力者が粛清するという道を辿ることがあり、結局は更なる尊い命が失われてしまいます。

思い通りになるのであれば、他人を傷つけるのも厭わない、家族であろうと子孫であろうと自分が死んでしまった後のことまで知らない、良心も痛まないし罪悪感も感じないというのであれば、そういう人がいるのも致し方ないとは思いますが、ほとんどの人は共感するミラーニューロン(Wikipedia)を持っていますから、かけがえのないどなたかの尊い命が奪われることと、その家族の悲しみに共感しないわけにいかないのではないでしょうか。

というわけで(と言うまとめも強引ではありますが)、ここではミラーニューロンが働く人に向けて、平和的な解決方法について考察していこうと考えます。

人はシステムの一部であり主体である

心理学を勉強していて、人間の心理の捉え方に2種類あることに気がつきました。
ひとつは、反応するシステムの一部としての人間心理です。
もうひとつは、選択する主体としての人間心理です。

前者はフロイトから始まった「原因論」的な立場です。
現在の対象となる人の問題行動は、ある特定の出来事などによる原因があり、その原因を突き止めて取り除くと問題が解決するという考えです。

後者はアドラーの提唱する「目的論」的な立場です。
現在の対象となる人の問題行動は、その人に特定の目的があり、それを遂行するために行動しているから、その人が目的を変えれば問題が解決するという考えです。

どちらが正しいということはない、というのが私の考えです。
なぜなら、どちらの側面も実際に感じるからです。
これは人間が集団の構成員でありながら個人であると言うことを表しているのだと思います。

いずれにしても、葛藤は避けられないということと、葛藤を解決したいという思いが多くの人の中にはあるのだ、ということは変わらないようです。
そして、互いに影響し合う私たちはひとつの大きな社会というシステムの構成員で、原因やきっかけとなったりして影響を与え合っているのだろうと思うに至りました。

互いに影響し合うという部分において、自覚されたコミュニケーションだけが重要なのではないということも、心理学の勉強の中で知りました。
それは、どんな構えで日々を生きているかということが、自分の主体としての選択に大きな影響を与えているということへの気付きでもありました。

コミュニケーションを自覚して行う

私たちは、はっきり言わないコミュニケーションを日々行っています。
そして、はっきり言わないコミュニケーションが上手にできる「察しのいい」人を「空気が読める」と呼んでいます。
でも、空気が読める人々が得意とする察し合うコミュニケーションは「言わなければわかり合えない」ということを前提に成立しているのです。
「言わなければわかり合えない」人間社会で、「言わなくてもわかる」ということを価値のひとつとして評価するということです。

また、「言わなければわかり合えない」ということは悪用することも可能です。

例えば、「一貫性の原理」という人間の心理のひとつは、ずるい悪い人たちにも使われてしまう人間の習性です。
一度「いいですよ」と承諾してしまうと、あとから値段が高かったことを知らされても断りづらいといったような心理のことです。

相手が意図的に断りづらい状況をつくったのか、それとも本当に後になってわかったことなのか、それは本人にズバリ聞かないとわからないことです。
そして、意図的に断りづらいことをわかった上で本当の条件を伝えなかったのであれば、ズバリ聞いても本当のことを答えてくれることはないでしょう。

上記のように相手に悪意があるケースも想定するならばなおさらのこと、メッセージの受け手として、はっきりしないコミュニケーションはうやむやにしない、というのが葛藤を減らす方法の一つでしょう。
自動的に空気を読み合うだけでなく、空気を読むあるいは読まないということも時には自覚して行うということです。

コミュニケーションの種類

言葉によるコミュニケーションは書いたり読んだり喋ったりという形で行います。
言葉以外にも、私たちは目線や表情、ジェスチャーや服装などを使ってコミュニケーションしています。
言葉の中にもどんな言葉遣いを選ぶか、抑揚やトーンや声量などで、相手に伝える印象は大きく変わります。
そういったことを信号として発信し、受け取り、コミュニケーションしているというわけです。
今ではLINEの既読や未読、返信の速さや遅さ、使うスタンプや絵文字でもコミュニケーションしています。

バーバルvs.ノンバーバル

言葉によるコミュニケーションをバーバルコミュニケーションと言います。
一方、言葉以外のコミュニケーションをノンバーバルコミュニケーションと言います。
メラビアンの法則によると、前者は7%で後者が残りということになるのだそうです。
後者は、視覚的なものと聴覚的なものに別れるということです。
視覚的なものとは、見た目や表情、しぐさや視線といったものが含まれます。
聴覚的なものとは、声のトーンや大きさ、喋る速さなどが含まれます。
言葉によるコミュニケーションは全体のたったの7%しかありません。

つまり、私たちははっきりしないコミュニケーションに頼って社会生活を送っているということになります。

察しのいい人は、相手の表情や声のトーンを読み間違うことはないのでしょう。
しかし、それが苦手な人にとっては、コミュニケーションとは空気を読むというプレッシャーとの戦いとなることでしょう。
察しのいい人であっても、心の調子が悪い時は、単に相手のパンツが食い込んで顔をしかめただけのことを「今、あの人は嫌そうだった」とネガティブに捉えてしまうこともあるかもしれません。

日本は欧米に比べて、察し合うことを主流とする「ハイコンテクスト文化」であると言われています。
察し合うとは、言葉にしないことを先回りして理解して考慮すると言うことです。
コンテクストというのは文脈のことで、ザクっと言えば「行間を読む」というようなことです。
言葉と言葉の間にある相手の意図を読み取ったり、気分を読み取るのです。
あるいは、逆に言葉以外のものに背景としての意味を込めて伝えるということもあります。
意図的にやるのか、恣意的にやるのか、作為的にやるのか、善意なのか悪意なのか、何れにせよ自分の持っているコンテクストに照らし合わせてそれを行うため、その大前提を共有していない人とはやりとりに誤解や行き違いを産みます。

察しの悪い人や言動の意味がわかりづらい人がいるということは相手が「悪い」のではなく、共有しているコンテクストがないかコンテクストの共有部分が少ないのだと思って言動の背景の意図を聞いてみるということで、誤解が解けることもあるかもしれません。

ポジティブvs.ネガティブ

ものごとをいいように取りがちな人もいれば、なんでも悪く受け取る人もいます。
誰もがいつでもベストコンディションでいるわけではありません。
いつもはいいように受け取るタイプでも、コンディションが悪ければ悪く受け取ってしまうこともあります。

褒めたつもりが嫌味として受け取られることもあります。
ちょっとネガティブな意味で言ったことが、相手が聞きたかった厳しい言葉で感謝されてしまうこともあります。
ポジティブな考え方の人には、ネガティブになりがちな人の気持ちはなかなかわかりにくいものです。
逆にネガティブになりがちな人には、ポジティブな人の言っていることが伝わらないものです。

自分も含めて、人間とはそういうものだと自覚していることが、どうもうまくいかないわかり合えないと感じた時に役にたつかもしれません。

意識的vs.無意識

何気なく言った言葉に、自分でも気がつかない意図が隠れていることがあります。
率直に言うと角が立つととっさに感じて、違う言い方をしたつもりが、かえって嫌味になってしまうこともあると言う意味において。

古い嫌な思い出が本当の気持ちをいうことを無意識で邪魔をすることもあります。
本当の気持ちを言って誰かに怒られたり嫌われた思い出があって、自分が再び同じことで傷つくのを避けたいととっさに言葉を選んだり飲み込んでしまったりするものです。

こういったことはほとんど意識にのぼらないくらいの瞬時に脳内で処理されます。
でも、そういう無意識の処理ですら、人間の脳みそはリプログラムできるようになっているようです。
ほとんどの人はその方法がわかりません。

心理学の分野では色々な理論や研究がなされており、方法論もたくさんあります。
前述のフロイトやアドラーのアプローチから交流分析などの古典的なものから、最近では眼球の動きでそれら無意識に働く脳の動きを解除するEMDRという手法など色々な方法があります。

「どうしてこのように過剰反応してしまうのだろう?」というのが自分のことであれば、気軽にカウンセリングを受けてみることも一つの解決方法かもしれません。

うまくいかない、望まない結果を得るなら

私には、自分のことも、わかるのがとても難しいです。
特に、自分が感じていることがネガティブな場合は、それを認めたくないという気持ちが働いたりするので、自分の感情に気がつかないこともあります。
だとすれば、相手の気分や行為の動機や言葉の意味や裏にある気持ちはもっとわからないものだと心得ていた方が良さそうです。

でも、推測して相手を慮ったり、共感して共に涙したり、困っている人を助けたいと思って行動を起こしたりすることを、やめてしまった方がいいといっているのではないのです。

なるべく率直に、相手の気持ちや意図がわからないときはわからないと伝えられたらいいと思うのです。
そして、自分の気持ちや意図が伝わらないと感じたときは、言葉にして伝えたらいいと思うのです。

話が逸れますが、モラハラやDVをする人の一部とは、こういったやりとりは成立しません。
気持ちを伝えることや、相手のことを思いやることが、彼らには相手を自分の思い通りにするための方法の一つでしかないからです。

上手に気持ちを伝えることができない、相手の気持ちを聞いて相手を思いやった結果自分の中に起きてしまった葛藤を上手に処理できないために、自分が我慢してしまえばいいとか、自分がやってしまえばいいとか、自己犠牲をすることで解決する傾向が強かった私ですが、今ではそういう解決方法は単に自罰的な力による解決方法を選択しているだけで、本当には何も解決していないのだと思うようになりました。
なぜなら、私の犠牲の上にある自分の幸せを喜べるのは、ミラーニューロンのない人だけだからです。
つまり、ミラーニューロンを持っている人なら、私の犠牲を感じたら、私と一緒に辛くなるのだということを知りました。
そういう意味では私が辛ければ、誰も幸せになっていないのです。
ミラーニューロンを持っている相手なら、私も幸せであるということが、その人の幸せにとっても重要なのです。
こんな単純なことに気がつくのに私は50年近くもかけてしまいました。

人間関係がうまくいかない、望まない結果を得る、という葛藤はきっと無くなりません。
いろんな人がいろんな立場や生い立ちを背景に、様々な価値観を持って生きているからです。

私たちはずっとずっと死ぬ瞬間まで色々な方法を試して、わかり合えないという問題に取り組み続けるしかないのだと思います。
楽にわかり合えることや思い通りになることを目指しているのであれば、人の世は辛いことばかりになってしまうでしょう。
私は、わかり合えないことを基本の大前提として、どうすればそのために起きる葛藤を超えてわかり合えた喜びを人と分かち合えるかということにフォーカスを移すことで、仕事も家庭内も友人関係もチャレンジしがいのあるものに変えられたらと考えています。
もちろん、これでいいという簡単な方法は一つもありません。
私自身も含めた「みんなの幸せを目指す」ことと、人間はわかり合えないので、わかり合うために工夫することを楽しむという心構えだけが解決策です。