レッテルと存在

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あなたはどんな人ですか? どんな人でありたいと努力していますか? どんな人だと言われることが多いでしょうか?

わたし自身は子どもっぽくて内向的な人好きだと思います。心理学の授業で生徒同士でお互いの第一印象を書いて渡すというグループワークをしたときもらったのは「優しそう」「エレガント」「いいお母さんっぽい」(子どもはいません(笑))でした。その日着ていた服のせいもあるでしょうね。

心理学では、人の第一印象を変えるのはとても難しいことだと言われています。これは「初頭効果」と呼ばれます。最初に受けた印象が後々の状況判断に影響を与えると言われています。

レッテル

わたしは、人にはこういう印象で人を瞬時に判断する能力があり、それによって毎回この人はどんな人なんだろうと考えなくてよいのは一つの恩恵であると思っています。これは本能的な脳の働きで、出くわした動物が肉食か草食かを見極めるような能力と同源ではないかと思うのです。

一方で、第一印象から固定したイメージを使って、「私が○○だから」「あの人は○○だから」という性格や人格を理由に何かを説明しようとすることは、特にネガティブな事柄に関して、注意が必要だと考えています。

例えば、何か失敗したときによく言われる「私がバカだからいけなかったんだ」という判断や、「あいつはだらしないからダメなんだ」などがそれです。レッテル貼りと言われたりします。

その人の評価に「いつも○○だからあの人は○○だ」とか「たいてい○○だからあの人は○○だ」「みんなが○○というからあの人は○○だ」といった根拠がある場合は要注意です。

事実把握を助けてくれる「メタファシリテーション」というメソッドを学ぶと、「いつも」「たいてい」「みんな」「よく」「だいたい」などの一般化の言葉には「ストップ」をかけることができるようになります。事実よりも思い込みが紛れ込んでいる可能性があるからです。

わたしたちは「どうせ」を越えられるのか」でも一度取り上げている「メタファシリテーション」については開発・普及しているムラのミライのホームページやそちらで紹介されている書籍で確認してください。

一発で何かを言い表せる言葉の便利さにはナイフや火と同じ二面性があることを忘れてはいけないのだと思うのです。この考え方については、「万物の二面性~長所は短所、短所は長所」に書きましたので、お時間があれば読んでみてください。

都合がいい

わたしたちは、それぞれがいろいろな理由から、思い通りにしたいと思って暮らしています。それは別に悪い意図だけではありません。思い通りに「人に優しくしたい」でも「困っている人を助けたい」でもいいわけです。

思い通りの結果を得ることを「都合がいい」と表現したいと思います。思い通りの結果が得られないことは「都合が悪い」です。

例えば、効率よくお饅頭を作ってたくさん皆に食べてもらいたいと考えているお饅頭屋さんがあるとします。そのお饅頭工場では、おしゃべりに夢中になってお饅頭作りの手を止めてしまう従業員よりも黙って黙々とお饅頭を作る従業員の方が重宝がられます。後者の方が工場の経営者にとっては都合がいいわけです。

わたしたちは、割とこの「都合」を優先しがちです。特に、思い通りの結果を得ることが自分の立場や評価に繋がる場合には、この「都合」がより重要になる傾向があるように見えます。そして、自分に対しても他人に対してもこういった「都合」を「期待」として持っています。時にはお互いの都合を押し付け合ってしまうこともあります。

期待を裏切られると人は自分にも相手にも「ダメ」というレッテルを貼ってしまうことがあります。がっかりした気持ちがそうさせるのかもしれませんが。

「いい子」「悪い子」

この考え方のパターンの原型はわたしたち人類が代々受け継いでいるものだと考えています。一般的に(レッテルです(笑))、親にとって都合のいい子どもを「いい子ね」とかわいがり、都合の悪い子どもを「悪い子ね」と叱ってしまいがちではないでしょうか。

時に、小さい子どもが親を亡くして「自分が悪い子だったから」と考えてしまうことがあるとも聞きます。これは、自分にとって都合が悪いことが起きたのを自分のせいにして何とかしたいと思う心理ではないでしょうか。

このように、レッテルの悪い点は、明らかに因果関係のないものをレッテルを貼る処理で片づけてしまうことがあるという点だと思っています。

名付け欲求

私とは○○である」でも書きましたが、「私とは何者か?」というのは人間の命に組み込まれた問いではないかと思っているので、いわば「行動のパターンを人格として名付けたいという欲求」とも呼べるような欲求があるのも致し方ないとは思います。

しかし、わたしたちは似たものを無理やり引っ張ってきて、すでにある名前とその定義に自分が合わせてしまうこともあるし、名前とその定義に沿わない事実を無視したり捻じ曲げようとしたりすることもあると思います。新しい名前を付けたほうがいい時ですら。

わたし自身も自分に合わない名前を引き受けてしまったことがあります。すでにある名前の定義に合わせようと努力して、それができない自分と責めてしまうこと、ありました。言い方を変えると、「理想に向けた努力をしたが、それに失敗した自分を責める」ということになるでしょうか。

自分に厳しすぎて生きづらい人は「失敗」を自分の人格と切り離して考える習慣をつけると、楽に失敗から学んでステップアップを感じることができるかもしれません、と余計なお世話を書いておきます。

名無しでも存在している

当たり前ですが、名前やレッテルを付ける以前から、わたしたちそのものは存在しています。何かを考え、何かを決め、何か行動を起こすあるいは起こさない、という時間の流れの中に見る、運動として。

私とは、かつてaという状態であった、すでにaではないものである。

わたしたちは「一貫性を保とうとしてしまう」といわれています。これを心理学では「一貫性の原理」と言います。

しかし、可能性自体は無限に開かれています。自分のつけた、あるいは人のつけたレッテルを選び続けるかどうかは、強制されているわけではなく、心の働きとして一貫性を保とうとしてしまう傾向があるだけです。

そう考えたら、名前の方にわたしたちが合わせたり、名前に合わせるために事実を無視したり捻じ曲げたりするのではなく、今まで選ばなかった言動を選んで、新たな名前を作り出す方が楽しいかもしれません。

また、その「すでにaではないもの」ではないものになろうとしている存在。

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