間違いを犯すという言葉がありますが、本当にすべての間違いはネガティブで悪いものでしょうか。
例えば、自分が何かについて「知っていると思っていたけど、まだまだよく知らなかった」ということに気づくには、「間違う」ことがきっかけだったりしますよね。
初めからすべてわかっている人などいませんし、知らないことを知るというのはひとつの喜びといってもいいのではないでしょうか。
例として、恋愛の場面を想像してみましょう。
相手を知りたい
恋愛の原動力の一つとして、相手のことをもっとよく知りたいという気持ちがありますよね。そこには前提として、相手のことをよく知らないという状態があります。
どんな映画を見るのか、どんな音楽を聴くのか、どんな食べ物が好きなのか、どんな生い立ちを持っているのかなどなどです。
相手を知っていく過程で共通点を多く発見し、もっと好きになるかもしれませんが、同時に知ることによって幻滅してしまう可能性もあります。
ある日、デートで「これ好きって言ってたよね」と喜んでもらえると思って用意した何かを差し出したところ、相手に「逆だよ、嫌いって言ったんだよ」と言われてしまったとしましょう。
がっかりしますね。間違えた自分に腹が立つかもしれません。落ち込んで、そのあとのデートが台無しになるかもしれません。
そこで二度と間違わないように、もっと注意深く相手の言っていることをよく聴こうと決意したり、相手の言うことを確認したりするようになるかもしれません。
相手は間違ったと知ったときは「自分の話をちゃんと聞いてくれてなかった」とがっかりしたり腹が立ったり幻滅したりするかもしれません。
でも、そのあと間違わないようによく話を聴いてくれるようになったと感じてうれしくなるかもしれませんし、落ち込み方がひどくて二度と間違ってても指摘しないでとりあえずは「ありがとう」と受け取ることにしようと思うかもしれません。
好きなものと嫌いなものを間違ったことによって別れてしまうカップルもいるかもしれませんが、それをきっかけにもっと関係が密になるカップルもいるかもしれません。
「間違う」ということは罪か
わたしは「知らない」「わからない」「できない」「未知」とはパワーであると感じています。
飽きっぽくてすでに知っていることにはあまり魅力を感じなくなってしまうタイプだからということもあるかもしれませんが。
一方で、知っている、わかっている、できる、ということをひとつの価値とする考え方があるのも知っています。
世間には「物知りである」ことが「偉い」という評価があります。それはひっくり返して「ものを知らない」ということを「バカ」と評価する価値観でもあります。
すると、自分はその価値観の中でどういうポジションなのか、気になります。
心理学では、こういった心の働きを「対人比較欲求」と呼びます。このことについて詳しくは、「セルフイメージ」に書きましたので、詳しくはそちらを読んでみてください。
そういう価値観の中では、知らないということを責めたくなる気持ちが働くのかもしれません。知らない私はバカだ、知らないあいつはバカだなどです。人のことを責めるという心の働きは、理想の自分と自分自身の現状を比較し、理想に沿わない自分を責める心理と同期しています。自分の現実に耐えられないとき、人は外を見ます。「あの人よりましだ」と思うことで、自分が傷つくことを避けようとする心の働きなのだそうです。
事実や現実に傷つかないために
とある価値観の中で、自分がどういうポジションであるかということを、隠したりごまかしたりして、自分の心が傷つくことから守り、社会的な地位を守るということもひとつの生き方です。
そういった状態にある人にとって、事実や現実は恐ろしいものでしょう。
また、自分がどういった理想を持っているのか、隠したりごまかしたりして、自分の心が傷つくことから守り、社会的な地位をあきらめるということもひとつの生き方です。
そういった状態にある人にとって、自分の理想を具現している他人を見ると沸き起こる自分の欲求は恐ろしいものでしょう。
どちらの状況にあっても、災難は外からやってくるように見えるのではないでしょうか。なぜなら、価値の社会通念は自分が存在する前からありますし、それに自分がそぐうかそぐわないかに気がつくきっかけは、他人との比較の中で起こることが多いからです。
でも、社会通念というのは一人一人が信じて支えることで成立するだけのものですから、別の価値観を共有している社会に移動してしまえば影響を受けることはなくなります。このことについては、「壮大な課題に取り組む(後編)」に草原と密林の話として書きましたのでよかったら読んでみてください。
自分の中の理想に関しては、事実を把握したうえでどうしたいか決めることができます。事実や現実は道具でしかありません。
わたしは理想と現実の差によって傷つかないためにできることは、自分や他人にそれらを隠すことではなく、もっと大きな目的に目を向けることではないかと考えています。
理想そのものも、何かを実現する手段かその過程での、評価基準のひとつでしかないように感じることがあるからです。そのことに気がつくと、道具や手段にとらわれて傷つき、自分や他人を責めている時間やエネルギーがもったいないと感じることがあります。
知らないことを知らないと認めて周りに表明し、しっかりとした教えを請い、より良い世界の実現に多少なりとも貢献できること方が、知らないことを恥じて隠し、避けて何も改善できないことより価値があると考えているのはわたしだけでしょうか。
わたしたち人類という大きなまとまりは、わたしたちを突き動かすもっと大きな目的を持っていると感じるからです。それは、まるで未来からの記憶のように、わたしを導いています。
I was gratified to be able to answer promptly, and I did. I said I didn’t know.(私は即座に答えることができて満足した。私は知らないと言ったのだ)
Mark Twain(マーク・トウェイン)