わたしたちは「どうせ」を超えられるのか

わたしたちは「どうせ」を越えられるのか

成功とは何でしょうか。幸福とは何でしょうか。豊かさとは何でしょうか。

こういった概念的な問いは一定の答を得ることは不可能です。なぜなら、概念は事実ではないからです。

では、事実とは何でしょうか。事実というのは非常に明確なものです。人によって違うということはありません。なぜでしょうか。

事実と概念~バイアス(偏り)

わたしは、事実とは過去にすでに起きた事柄で、「いつ、どこで、誰が、何を、どうした、何個、何時間、何メートル」という類の問いの答、および「はい、いいえ」で答えられる問いの答を事実と捉えてよいと考えています。

この問と答の間には、個人の「こうありたい」「こうあるべき」「こうだったら」「こうなれば」といった理想や意見や思いは入りません。過去にすでに起きた事柄で、変えられないからこそ事実なのです。だから事実は明確なのです。

事実を誤認するとわたしたちは現実と乖離を始めます。特に、事実を無視することの危険性は、わたしたち全人類が日々経験していることでしょう。これを認知バイアス(正常性バイアス)と呼びます。実際に煙が出ているのに無視したり、すぐに消えるだろうと思い込んだり、周りの人たちが何もしないから平気だろうと思おうとしたりしたために命を落としてしまうといった事件がありました。

わたしは事実に「思い」は入らなくても「感情」「感覚」は入ると考えています。感情や感覚は当の本人以外わかりませんが、本人には確実に過去に起きた事柄と捉えられる現象だと考えています。

さて、ここまで事実と概念(バイアス)の違いの説明をしてきました。事実は一定の答を得ることができますが、概念的な事柄は千差万別です、と。

共通と共有

それをひっくり返します。

たしかに、わたしたちは概念的なものを全員で一致して定義することができません。

しかし、他人の苦労話に共感して涙を流したり、サクセスストーリーに感動してやる気を出したりします。小さな子どもでも、昔話やおとぎ話の物語の最後に「しあわせに暮らしましたとさ」と言われて、何となくの幸せのイメージを理解し、それまでの主人公の苦労から解放されてホッとしています。

ナラティブという考え方があります。もともとは1960年代に文芸理論の用語として使われるようになりました。今では歴史学や精神医療などの分野でも使われる用語です。事実や現象を表現するための「ストーリー(話)」ではなく、事実や現象に視点や意味を与える「ナレーション(話し)」という役割のことだと理解しています。

現象の体験は、感情を伴います。これを共有するために概念を使うのであって、概念に現象を当てはめることはできないのではないでしょうか。だから、ナラティブを聞くことで人はその感情を疑似体験することができると考えています。そして、ナラティブを通して疑似体験されたその感情や感覚を共有するために概念的な表現をすることはできるけれど、何らかの原因によって疑似体験できない人は共感することが不可能となるのではないか?

つまり、事実のように全員に共通はしないけれど、多数で共有できる概念というものも、わたしたちは持っているということではないでしょうか。

自閉症スペクトラム障害の人の中にはこの共有できる概念をあまり持っていない人もいます。マジョリティの人々が何を大前提として暗黙裡に理解して共有しているのか、ということを説明する必要がある人たちです。おそらく、わたしの父はこのスペクトラムのどこかに属していますが、診断されたことはありません。ただ、日常的に父を除く家族の全員がワッと笑ったことの面白さがわからず、説明しないとわからないというシーンがありました。

このマジョリティが共有する大前提の概念が宇宙のどこにあるのかはわかりませんが、ユングが言うような「集合的無意識」というものがあり、それらを非常に多く生来的に共有できている人たちと、あまり共有していないためにいちいち解説が必要な人たちがいるのだと考えています。すくなくとも、わたしは自分の生い立ちの境遇からそのようなことを実感しています。

マジョリティが共有しているからといって、それが事実とはあまり関係がないこともあり、むしろそれから自由になったほうが楽なこともある、ということも何となく家庭環境から学んだことでした。

概念と思い込み

さて、いよいよ本題に入ります。

世界には、解決不可能と見えた争いを武力ではない方法で終わらせた人たちがいます。

なぜ、ある種の紛争は解決の糸口がないように見えるのでしょうか。ここに、わたしたちの能力のひとつである「概念」というものが絡んでいるとは考えられないでしょうか。

人種や部族や宗教の違いは決定的でお互いの主張は平行線を自分たちが生まれるよりも昔から続いています。

それが「当たり前」の世界に生まれてきたら、「そういうものだ」と人々は受け入れて暮らします。当たり前のこととは、共有された大前提のことです。

実は、この「当たり前」「そういうものだ」は時として、「どうせ」という考えになり、人々から希望を奪い、本来の力を抑え込んでしまうことがあります。

たとえば、「どうせ○○だから」というものです。「どうせ」は「○○」という便宜上の区分けとは関係がありませんよね。○○に日本人でも女でも入れてみてください。それだけで嫌な気分になりますね。人に言われるのも嫌ですが、自ら言うのも嫌な気分です。

嫌な気分になるので「どうせ」と思わないように、思われないように、頑張りたくなりますが、人がこの「どうせ」の「当たり前」に挑むことで、却ってその通りの結果を生んでしまうということがあるというスタンフォード大学の心理学者クロード・スティール教授らの研究があります。興味のある方はスティール氏の『ステレオタイプの科学』を読んでみてください。

「どうせ」と思ってもダメ、「どうせ」と思わないようにしてもダメ、どうすりゃいいのさ?と思いますよね。

先人に学ぶ

では、わたしたちは「当たり前」から抜け出すことは不可能なのでしょうか?

「どうせ」の集大成である部族間の何十年も続いていた内紛を終わらせた人たちは何をしたのでしょうか?

2011年にノーベル平和賞を受賞した3人の女性がいます(詳しくはリンクのウィキペディアで)。

この中の一人である、レイマ・ボウィさんは母国リベリア共和国の内紛を終わらせた平和活動家の一人です。

内戦を終わらせるために彼女たちがやったことは、「祈り」「歌」「共有」でした。

部族間や宗教間の争いでは、その問題を解決しようとすればするほどこじれてしまいますが、彼女たちは教会やモスクで「母親であること」と「母の子に対する思い」を共有し、ともに祈って歌いました。

詳しくは、ドキュメンタリー映画や自伝『祈りよ力となれ――リーマ・ボウイー自伝』がありますのでそちらをどうぞ。
TDEのスピーチもあります。

武力紛争が当たり前の場所に生まれ、大人たちがいがみ合い利害対立を繰り返している姿を見て、子どもたちは「なぜ?」と大人たちに問いかけます。大人たちは「○○のせい」と説明します。納得がいかない子どもはさらに「○○のせいだとなぜ?」と聞くかもしれませんが、「とにかくそうなっているしそういうことなのだ。考えても仕方がない」と説明されて終わってしまうかもしれません。

「なぜ?」という問いは概念を聞きますから、思い込みを説明されるだけです。思い込みはたいていネガティブなものは外部要因、ポジティブなものは内部要因としがちです。心理学的にいえば、人は失敗を自分のせいと思うことによって傷つくことを避けようとする傾向があるからなのだということです。

つまり、物事の本質にたどり着くためには「なぜ?」という問いではなく、事実を知るための「いつ、どこで、誰が、何を、どのように、どのくらい、したのか」などという過去に起きた事柄、変えられないことについて、語ってもらう問いをしないといけないということでしょうか。

これは、わたしが近年ワークショップを受けたり本を読んで学んだムラのミライというNPO団体が広めている「メタファシリテーション」というコミュニケーションメソッドの仕組みでもあります。これが自然にできるようになるためにはトレーニングが必要です。興味のある方はムラのミライのホームページをご覧ください。

解決不可能に見えることを変えるのは簡単なことではありませんが、決して変えることのできないことではないということがわかるだけで、なんと未来が明るく見えることでしょうか?

WE GiRLs CAN的にいえば、「どうせ女だから」「どうせ男社会だから」「どうせ日本はジェンダーギャップ指数が低いから」なんて思わなくていいのです。

女だからとバカにされないように、見くびられないように、違うということを証明してやろうとしなくていいのです。

どうやって?

一人ひとりが自分自身の物語を生きることで

とわたしは考えています。

事実を把握し、物語を共有し、目の前のできることから取り掛かりましょう。