わたしは二十歳くらいのころ恋人の悩みを聞きながら、「人は主観の檻の中にいる」と感じたのを思い出すことがあります。
このわたしが「主観の檻」と捉えた感覚を、心理学では「ビリーフ」と呼ぶということを学びました。論理療法の國分康孝先生の説明を借りると「人間の悩みは出来事や状況(例:友人がいない、昇進しない)に由来するのではなく、そういう出来事をどう受け取るかという受け取り方に左右されると考える。この受け取り方のことをビリーフという。」(『論理療法の理論と実際』国分康孝編 誠信書房)ということになります。
このビリーフ自体は悪いものではなく、本能的に生き延びるために不特定多数の他者と協力していくためのベースとなる、共有された価値観であると考えます。なぜ本能的だと思ったかというと、保育園の運動会を見ているとほとんどの子どもたちがうながされずに先頭の子どもについていくことができるからです。
子どもたちを観察していると、ほとんどの子どもたちはお互いに影響し合って上手に流れに乗っている様子が見えます。わたしは幼少期、これができませんでした。おそらくアンテナの方向か周波数のダイヤルが合っていなかったのだと思います。多数が左へ一斉に動いても、それに気がつくのに時間がかかるか、気がついていても自分もその流れの一員として動くことができずにぼんやりと見ているような子どもでした。中学に入って親や教師や友だちから「変わっている」「個性的」言われたのを誉め言葉だと思っていたことを覚えています。
変わっていて個性的であるというのはどういうことだと思いますか?
それは、大多数の人たちと同じ価値観を共有していないということです。わたしのビリーフは「人と変わっていて個性的であることはいいことである」というものだったからこそ、周囲の人たちと価値観が合わないことを意に介さなかったのです。
でも、目の前の友人は悩んでいました。自分が可愛らしくないこと、社交的ではないこと、胸が小さいことなどなどです。自分が男の子にもてるタイプではないことというのがすべての悩みの行きつくところです。この悩みは深く、友人の生きる気力にも大きく影響しているように見えました。
わたしは当時すでに自分が男の子より女の子の方が好きだと自覚していたので、彼女の悩みの終着点である「男の子にモテる」という価値を共有できませんでした。だからこそ見える景色があり、そこから見える景色を伝えたのですが、「別に男の子にモテなくてもあなたの価値は下がらないでしょ」というわたしの励ましが彼女に届くことはありませんでした。このときはっきりと彼女は彼女の、わたしはわたしの、主観からしか物事を見ることはできないのだということを理解しました。その檻のおかげで、彼女は若い輝きを失い、打ちひしがれ、生を謳歌することができずにいました。どれだけ考えに囚われているだけなのかを言えば言うほど相手は苛立ち、心を閉ざしてしまいました。言われたのは、
「あなたにはわからない」
同じ価値観を共有していないのだから当然です。もう一つ言われたのは、
「わかってもらおうとばかりしないで」
もし、本当に役に立ちたいのであれば、まずはわたしが相手の価値観を理解する必要がありました。当時のわたしには価値観が違うということがどれほど世界の見え方に影響を与えるのかということを知りませんでした。
ある価値観に適った自分であることだけが自分の価値であると信じて暮らしていると、適っているときは優越感を感じたり安心しパワーを持ったように感じ、適っていないときには劣等感にさいなまれ不安で無気力になってしまうようです。もちろん、わたしには檻に見えたそういうものを私自身も持っています。そして、自らその主観の檻の中で苦しむことがあります。
自分の檻の中から自分の姿を見ると、たとえ傍から見ていかに辛そうで苦しそうであっても、主観の檻がその人をその人たらしめているものなのだとわかります。それはその人が人と関わる上で何よりも大事なもの、生きる指針としているものだからです。
ただ「価値観を変える」といっても、変えるのは価値観だけではなく、その人そのものの存在の拠り所「私とは○○である」つまりアイデンティティを変えるということであるということでもあることがわかってきました。
変わることにはリスクがあります。価値観という地面を失う恐ろしさがあります。私が私でなくなるということへの不安があります。わたしはそういう彼女の気持ちを理解していなかったのだと今になればわかります。
前述の論理療法では、全面的に価値観(思い込み)を変える必要はないと考えているようです。行き過ぎた思い込み(イラショナルビリーフ)の部分を是正するだけでよいというものです。論理療法は対処療法的な働きを期待されているからです。100%価値観に適っていなくてもよい、とするだけで現実との乖離が減り、そうすれば楽に考えられるというのは納得がいきます。しかし、わたしには不眠の原因があるのにそれを治さずに睡眠薬を飲んでしのいでいるのが本当にいいのかわかりません。少なくとも睡眠薬で眠れるようになり、体力が回復してきたら原因となる個所を治療するほうが睡眠薬への依存をなくすためにも必要な気がするのです。
だから心理学の素人に毛が生えたようなわたしがあえて言いたいのは、思い込みは変えることができる、ということです。お金ですら、成り立ちを考えればあらかじめ価値が与えられていたわけではなく、歴史上のどこかの時点で誰かがそれに価値があるということに決め、それを世界中で信じているだけのものなのです。
例えば、生き延びるためには女性の側から進んで「女性は従順であるべきで、男性に性的に魅力的だと思われる必要がある」という価値観を共有して支えていた時代があったことを覚えていますか?20年前のテレビ番組をYouTubeなどで見てみればわかります。いま見るとセクハラにしか見えない不快になるような扱いをされることを喜んでいる女性像が描かれていてびっくりします。
このように、その考え方を支えるのをやめる人が増えると、現実だと思っていた世界がガラリと変わるのです。一人が睡眠薬を飲んで眠れぬ夜を無理やり眠るのをやめ、自分を苦しめる価値観に気付いて主観の檻から一歩外に出ることで、少しずつ世界はその見え方を変えます。
一人では怖いしリスクに足がすくむでしょう。たくさんの仲間が隠れて睡眠薬を飲んでいます。決して一人ではありませんよ。
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