アプリの再開発のためにラーニングコストをかけて、自らコーディングの基礎から学んでいる最中なのですが、自分で開発したくてしているのかというと、実はそうではありません。
経済的なステータスが個人の存在価値を量る重要な基準となっている社会において、それがたくさんある価値基準の中のひとつにすぎないという想いがあり、この活動そのものが、人やモノにおける金銭で表せない価値の部分にスポットを当ててみたいという試みでもあります。
こういった考えに賛同してもらえる開発者を探していたのですが、残念ながらそんな悠長なきれいごとをいいと思ってくれる開発者には出会えませんでした。開発費を払わないと言ったわけではなく、相場通りの開発費を支払うつもりでいたのですが、同じ方向を向いて理想を一緒に熱く議論しながら開発してくれそうな開発者が見つからなかったのです。
わたしは産業能率大学の通信教育課程で心理学を学び2020年に卒業しました。産業能率大学はその名の通り産業と能率について学ぶ場としてスタートしているため、どんな学科を取っても、経営学・経済学・社会学についてしっかり学ぶ機会を持ちます。「顧客の創造」「新しい価値の創造」という言葉を何度目にし耳にしたかわかりません。わたしはバブル末期の世代で、就職後すぐににバブルが崩壊しました。企業で働いている間「物が売れない時代」と言われる中で、自分も買わない製品を作る矛盾に悩みました。「付加価値、付加価値」と呪文のように唱えながら、一度も使ったことのない機能を説明する取扱説明書を作っていました。一方で付加価値として質のいい取扱説明書を作ろうと工夫するとコスト面でダメ出しが来て、「間違いでなければ十分で、改善する必要はない」と言われてがっかりしたものでした。
そんなわけで、自ら「コストと納期を度外視する開発」という価値の世界そのものに飛び込んだというわけです。
目的に適わない価値を手放す
リン・トゥイストというグローバル活動家の『ソウル・オブ・マネー』という本がありますが、この著者の言うように、金銭にまつわる思い込みや価値観は、相手に感謝の気持ちを表現し、わたしたちの生活を豊かにしてくれるはずのお金との関係を、かえって不安や憎しみや不信感へと追い込んでいるように見えます。そして、それは文化として根付き、受け継がれ、自分達ではどうしようもない、従うしかないものとして固定されている、という彼女の見解に納得し、さらに金銭自体が人間の作ったものである限り、それは変えられるという彼女の主張に、日々勇気づけられています。
わたしたちは見たい世界を見るということがわかっています(「『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』感想」参照)。また、過去の経験によって誘発される闘争・逃走反応(fight-or-flight response)という脳内物質による防衛機構があり、自分ではコントロールしにくいストレスによるアドレナリンやコルチゾールといった生体反応に動かされる部分もあります。どちらも人間が生身の体を持って生きるために必要な機能のひとつではありますが、思い込みや反応に偏りが起きるとかえってそれらによって生きづらくなるのも確かではあります。一方で、嬉しいことにそういった偏った思い込みや強い自動反応の軌道修正ができる能力があるのも事実のようです。
価値が価値として成立するのは、目的に適っている範囲においてであると思います。例えば、健康に良い食べものが食べ過ぎるとかえって体に害を与える事実があるなら、健康のためにという目的に適うには適度に食べるという範囲内でのみ、その食べ物の価値は成立します。健康に良い食べ物が食べ過ぎると健康を害するように、目的が見失われているときには価値は人を苦しめます。
目的の見失われた共有された価値観も、わたしたちの社会に害を与えるようになります。例えば、「平和のために戦う」ということの矛盾です。平和を乱すものと戦って平和を維持するという考えは一見正しいように聞こえますが、そもそも戦うことで平和が損なわれていることに気がつく必要があると思います。
アンチであるということはしょせん同じ穴の狢なのだとわたしは思うのです。何かに反対するときに、その解決として自分が挙げているものが含む論理的破綻に気付くことができるかどうか、ということを常に検証していたいものです。平和的に問題を解決できない言い訳ではないかどうか、その意図を自問する冷静さを持ちたいものです。
万物には二面性があり、長所は短所となることがあり、いいものの側面には悪い側面もあります。お金は非常に便利なツールでわかりやすい誰にでも使える価値の表現のひとつです。しかし、お金持ちだからすごい・偉い、貧乏だからダメ・ダサい、そういうわかりやすく単純な評価は、多面的な人間の価値を正しく表現できていないと思うのです。価値基準を変え、見方を変えてみれば世界とはもっと豊かで驚きに満ちたものなのではないでしょうか。
確かに、信頼を基に貨幣経済が成り立っていることを考えると、お金が集まってくるということは、その人の提供する労力やサービスや商品を、多くの人が評価し信頼しているからであると理解してもいいかと思います。でも、「私が私である」ということは金銭的に評価される以外の部分のほうが多いわけで、負け惜しみと言われようがきれいごとと言われようが、それ以外の形でしか評価できないような価値にも、もっとスポットを当ててみたいと目論んでいるのです。
スーザン・ソンタグの『良心の領界』の序文の一節が年に数回、季節の変わり目のようにわたしの心にめぐってくるたびに、その想いを新たにします。
人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。(中略)
この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。 (中略)
恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。(中略)
他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません──女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。(中略)
傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課せられた何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。
傾注は生命力です。それはあなたと他者とをつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。
スーザン・ソンタグ『良心の領界』
量子論でいわれるようにエネルギーしか宇宙に存在しないのであれば、意識もエネルギーであり、意識が注目するということはエネルギーの流れをそちらに向けることである、と考えるのは自然なことだと考えます。
もちろん、そんな単純なことではなくもっと複雑な関係性の編み物であると考えてはいるのですが、少なくともイメトレのようなものが大いに役に立つのであろうと理解しているのです。そのひとつがロールモデルであり、あこがれることであり、夢を見ることだと考えています。それは未来からの記憶のようなものであるとも考えています。
わたしは幸福とは「なる」ものでも「目指す」ものでもなく、心の状態を表すものであり「気づく」ものなのだと捉えています(「幸福と希望」参照)。その存在に気付き、注目してエネルギーを増幅することができたときほどの僥倖はないと思うのです。その機会に満ち溢れたこの生命の時間を、探検家のように生きていきましょう。
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