微分値と「私」

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先日たまたま脳科学者の中野信子さんのビデオ講義をYouTubeで見つけて視聴しました。その中で「微分値」という言葉を使って表現されていたことがとても印象的だったので、今回は恐れおおくもわたしなりに真似をして「微分値」という言葉のそういう切り口でブログを書いてみたいと思います。

入り口〜テレビと脳科学

中野信子さんを知ったのは2年くらい前でしょうか。中野信子さんの出演されたテレビ番組について誰かが話しているのを聞いたのが初中野信子さん体験でした。わたしは子どもの頃からテレビをあまり見せてもらえなかったので、今でもテレビを見るという習慣を持っていません。禁じられていたからテレビというものに飢えていて、大人になって一人暮らしをする中テレビを買った当初は貪るようにテレビ画面を凝視し続けた時期もありましたが、結局テレビはほとんど見ないし、本を買うにもインターネットで買うので本屋さんで平積みになっていても中野信子さんの存在は知らないままでした。

でも、元々ブルーバックスなど科学の本が大好きで、脳科学についても脳内物質についての本を読みあさっていた時期があり、とても興味を持っていました。脳科学者の名前はスター脳科学者である茂木健一郎さんくらいしか知らなかったので、これによって新たな「みんなが知っているスター脳科学者」の名前を知ったというわけです。

脳科学が面白いのは、物質的化学反応としての人間という装置について知る、というところに尽きるのではないでしょうか。これを、人間が決められた反復運動しかできない機械のようなものである、と捉えることも可能ですが、多くの脳科学者がそういった考えを持っていないのと同じく、わたしも逆だと考えています。

とあるシステムの仕組みを「外側から見る視点を持つ」ということは、新たな選択肢を見つける可能性を示唆していると考えるからです。システムの内側からは見えないシステムの仕組みを見るには、過去のデータを集めて地図を作り、パターンを発見する必要があります。科学というのは再現性を必要条件の一つとしてあげられているように、自然界における普遍的なパターンを取り扱うものです。また、理論としてどこまで検証しても破綻しないことも条件の一つと考えていいと思います。発見された脳内物質の働きのパターンは固定されたものであり、そこから人間は外れることがないと考えることも可能です。しかし、ある事象から次の事象への継ぎ目に選択肢を発見できれば、そこに別のアプローチを入れることで新しいパターンを作り出すことが可能になります。

これが「問題解決」という手続きだと思います。

「問題とは理想と現実の差である」とするなら、科学で発見された現実というパターンに対して、理想に向かってどのようにアプローチすることができるのか?ということを考えられるのも、人間の与えられた能力のひとつであることは疑う余地はありません。こう考えると、「人間にはリプログラミングシステムが与えられている」と思えてうれしくなることがあります。例えば、「火」を扱うこと、「道具」を作って使いこなすこと、「言語」を使って協働すること、「数字」と「数学」を使って計算すること、「文字」を使ってより広く長きにわたって知識を伝播すること、「暦」「農耕」「料理」「建築」などなどあげればキリなく、与えられた環境に従うだけではなくアプローチして変化を起こしてきたことがわかりますよね。

そして、そのために必要な第一歩が事実把握の力だと考えます。事実把握は「科学」のお家芸ですよね。例えば医療は症状と原因となりそうな物事との因果関係を知れば対策が立てられるという対処療法です。

アメリカの作家ジェームズ・ボールドウィンの言葉をもじっていえば、知ることで全てを変えることができるわけではありませんが、知ることによってしか、何かを変えることはできません。

Not everything that is faced can be changed, but nothing can be changed until it is faced.

向き合えば何でも変えられるというわけではないが、そもそも向き合わないなら何も変えられない。

JAMES BALDWIN ジェームズ・ボールドウィン

微分値

さて、動画の講義の中で中野信子さんが「微分値」という言葉を使ったのは以下のような文脈においてでした。

幸福度は何かと比べなければ測ることができないものなんです。微分値といえばいいですかね?傾きの値で決まるものなので。

中野信子 人間の性質は「生まれと育ち」のどちらで決まるか【上智大学講義④】

わたしは「微分値」の意味を正確に知りたいと思い、調べました。そもそも、微分が何を知り何を表現するのに使われるのかをわかっていませんでした。Wikipediaによると、

数学における実変数函数の微分(びぶん)、微分係数、微分商または導函数(どうかんすう)は、別の量(独立変数)に依存して決まる、ある量(函数の値あるいは従属変数)の変化の感度を測るものである。

Wikipedia

ということです。もっと簡単にいうと、「ある関数の各点における傾き(変化の割合)」のことだそうです。つまり、ある量の度合いを知るために別の量との関係を見るということです。

わたしの認識が間違っていなければ、「私」という個人の意識も同じような存在の仕方をしていると理解しています。つまり、「私」はわたしによって微分値の形で定義され認識されていると。

中野信子さんがおっしゃっていた「幸福度」ということでいえば、「去年より今年は何かがあって(あるいはなくて)幸せだな」「あの人(あるいはあの人達)より何かがあって(あるいはなくて)幸せだな」と己の幸福を感じる、ということでしょう。

  • 生物学的な性別
  • ジェンダーの自認状態
  • 生まれてからの経過年月
  • 地理的な属性
  • 民族的な属性
  • 社会的な地位
  • 経済的資産の値

例えば、上のような基準をもとに、周囲の人々との関係から自分の価値をはかり、どのように振る舞うべきかを決めているということになると思います。心理学の用語でいうところの「対人比較欲求」というものになると思います(「セルフイメージ」)。その価値の決め方は自由ですので「優劣」として捉えることも「単なる記号」として捉えることも「その場における流動的な変数」として捉えることも可能です。ただし、わたしがこのブログで繰り返し書いている通り、「優劣」という変数だけに頼って自分を捉えることは必ずしも「幸福」には繋がらないようですし、そのことによって命をかけて戦うことになる人たちや精神を病んでしまう人たちもいるということも考慮して、その選択や適用には十分に注意する必要があるのではないかと考えています。

微分で表されたグラフのどの範囲を基準に自分を捉えているのか(=微分値)によって幸福度は変わります。つまり、女に生まれたから幸福あるいは不幸とは限らないし、男に生まれたから幸福あるいは不幸とも限らないのはいうまでもありませんよね。

微分値から希望へ

となると、アイデンティティも「微分値」のことである、といってもいいのかもしれません。変数として何を入れるかによって、またその変数で何を測ろうとしているのか、自分が含まれたどの範囲を見るのかによって、「私」というものは全く違ったものとして捉えられるといえるでしょう。

もっと簡単に表現するなら、「何とどのように比べて何を表現するか」が「私」であるということでしょうか。公式は決まっていて変えることはできませんが、変数(何と比べるか)や範囲を選ぶことは可能です。

わたしたち人間の能力はたくさんありますが、その中のひとつで最大の能力が「選ぶ」という能力ではないかと、わたしは考えています。その能力を使えば、変えられないものを変えられるように見ることができるようになるかもしれません。

諍いや差別を引き起こす、嫉妬や恨みや不安や恐れといったネガティブな感情をなくすことはおそらく不可能(「感情が怖い」「苦手な感情に寄り添う」)ですし、アドレナリンを出ないようにすることもセロトニンをたくさん出すようにすることも容易ではありません。でも、それはそれとして自分たちの傾向として知った上で、違う選択肢を選ぶことができるからこそ、わたしたちはいつでも絶望的な現状を理想的なものに変える力を失わずにいるのだと思うのです。どんな悲惨な出来事の後でも人類は常に希望を見出し、その光の差す方へ手を伸ばして変化を続けてきたのだと思うのです。

例えば、人に対してイライラしたときに、お腹がすいているとわかっただけで、目の前の人間関係が問題なのではなくホルモンによる一時的な過剰反応とわかってホッとしたりすることがあります。であれば、何かを食べるだけで無駄ないさかいや喧嘩を避けることが可能になります。

戦争も差別もなくなっていません。改善したと思っても揺り戻しが来たり(「バックラッシュにもいい面がある」)、現状を見るとガッカリするし、他国と比較した日本のジェンダーギャップ指数の順位を知るとゴールがいかに遠いかと思い、諦めたくなることもあります。

しかし、人類は全く進歩していないわけではないようです。2012年に出版された(日本語版は2015年)スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』(原題:The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined by Steven Pinker)を読むと、事実として有史以来暴力が減っているという数値が出ています。もちろん、どんな変数を入れるかによって微分値は変わりますからそこの確認は必要ですが、少なくとも絶望するのはまだ早いのかもしれません。

もしも未来に希望を見出し、自分の力を信じて生き生きと人生を諦めずに生きていきたいなら、どういう変数を使って「私とは〇〇である」の〇〇の部分を宣言するのかを「選ぶ」ことは非常に重要です。

どれも事実であるなら、どの事実をどの変数で切り取って感じ取り自分のアイデンティティを宣言するかは自由なのだということです。それは、個人は社会の既存の価値によって定義されるものでありつつ、同時に選ぶことによって社会の価値を作っているからだと思います。既にある価値観をなくすことはできませんが、社会の構成員として変化させていることに気がついていただければ幸いです。

ちょっと無理があるのではないかと思うかもしれませんが、最後に、現実がどんなに悲惨でも想像力がめちゃくちゃ強ければ既存の思想や価値観を変えることを諦めなくていいし、何とかできる、という実例を示してくれた故ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領の言葉を紹介して終わります。

“The power of imagination created the illusion that my vision went much farther than the naked eye could actually see”.

「想像力は現実に肉眼で見えている世界を遥かに超えるほどの幻想(理想)を作ってくれた」

“It is in your hands to create a better world for all who live in it”.

「世界をより良いものにするのは、その世界に住んでいる人たちであるあなたの手だ」

“It only seems impossible until it’s done”.

「ものごとは成し遂げてしまうまでは不可能に見えるものだ」

Nelson Mandela ネルソン・マンデラ
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