他人は鏡とはどういうことか

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前回の不寛容さが気になるという話が続きます。前回は他者との関係においての罪と罰ということを考えました。でも、わたしが本当に言いたかったことはもう一歩深くへ入ったところにあるのです。

わたしたちは「他人は鏡」だと言います。これは具体的にはどういうことを意味するのでしょうか。

ほとんどの人は、「他人がやっていることを見て思うことがあるならば自分を改めよう」あるいは「他人の反応を見て自分の言動がどうなのかを知る」という意味で他人は鏡だと考えていると思います。

私の理解は少し違っていて、「自分をどう捉えているかによって他人の見え方が変わるので、他人がやっていることがを見て思うことがあるならば自分のこだわりや囚われがそれであると知る」という意味だと考えています。

例えばわたしは30代になるまでお化粧をほとんどしませんでした。完璧な化粧ができないのであればしない、という不寛容な考えからそういう選択をしていました。しかし自分はしないくせに人の化粧にはうるさく、いつも人の化粧が気になっていました。完璧な化粧というものがあると思い込んでおり、下手な化粧を許さないという不寛容さを持っていたのです。自分はお化粧をしないので、批判されないポジションにいるつもりでした。誰かに批判されると思い込んでいて、それを怖がっていたのです。でも、お化粧初心者であるわたしを一番強く批判していたのはわたし自身でした。単純にいえばわたしは上手にお化粧ができるようになりたかったのだと思います。とても気になっているのに「上手にできないならしない」という選択をすることのバカバカしさと「下手でも化粧したい」という自分の気持ちに気付けたので、わたしなりに自分に合った化粧品で自分に合った化粧をするようになり、40代になってやっと新たな自分らしさを感じられるようになりました。

少し乱暴な意見かもしれませんが、前回の罪と罰の話に戻ると、罰の抑止効果を評価しているということは、自分の中にも同じ構造があり、自分自身が何かの罰を避けるために我慢している言動があるということだと思うのです。自分が罰が嫌で我慢できているから、罰は抑止力があるという実体験からくる判断です。例えば、わたしはスピードのある乗り物が好きで、時々スピード違反で捕まるかもしれないからスピードを出し過ぎないように運転しなければと考えることがあります。そう考えていると警察や法律を憎んでしまいます。が、スピードを出してはいけない本当の理由は悲しい事故を防止するためと考えると、その法律に気持ちよく従うことができます。なので、わたしは罰の抑止力には懐疑的なのです。

また、「そういうものだから」という理由で従っている言動を評価するということは、自分も「そういうものだ」という納得のしかたをして従っている、ということを表していると思うのです。前述のスピード違反の話のように、法律で決まっているからという理由で法律に従うなら、法律は権威・支配になります。長い目で見たら誰のためにもならない法律や時代の変化にそぐわない法律もあるのですから、きちんとその法律ができた背景を理解する必要があると思うのです。法律を作った人たちがスピードの出し過ぎによる悲惨な事故を減らすにはどうしたらよいか、スピードを出していなかった時の事故と比べて被害状況はどうなのか、という見地から速度制限を設ければ助かる人が増えるという判断をしたのだろうと想像して理解納得できなければ、法律は単なる押し付けであり力による支配と感じられることもあるでしょう。納得のいかない法律には異議を申し立てる権利がわたしたちにはあるのですから、言葉は悪いですが、言いなりになることを評価する必要はないと考えています。専門家ではないから間違っているかもしれないけれど、納得がいかない点があるので納得いくように説明して欲しいと頼むことくらいしてもいいのだと思います。

話しが逸れてしまいました。

自分が何を評価するのか、というのは外の世界との関係の中で、自分のどういう部分を評価しているのかということの現れだと考えています。それがアイデンティティの本質だと感じるからです。

つまり、

世界がどう見えるかは自分をどう見ているかが現れている

ということだと捉えています。

他人を非難するとき、その同じものさしが自分の価値評価の基準になっているということを忘れてはいけないと思うのです。わたしの化粧の例がいい例です。わたしの中の「化粧は完璧でなければならない」というものさしは、批判という形で外へ向かってもいましたが、自分が真っ先にそのものさしで測られていました。他にも例えば、頭の良し悪しというものさしで頭がいいということを価値として、自分を基準に誰かが頭が悪いということを批判しているなら、それは基準となる自分が頭がいいということを評価しているということですが、一方で基準を変えれば誰かよりも自分は頭が悪いということになってしまう危うさを持っています。

誰かを非難するとき、わたしたちはその相手には該当しても自分にはまったく同じ部分がない人(あるいはその人のある部分)を非難するよう、慎重に相手や対象を選んでいます。わたしが化粧をしないことで「化粧が上手い・下手」ということから自分を隔離できると思ったように。「化粧しない」という安全地帯に退避すれば攻撃しても反撃されないと考えていたと思います。しかし、そもそも興味がないのであれば他人の化粧が上手かろうと下手だろうと気にすらならないはずなのです。でも、わたしは化粧そのものに興味があってフォーカスしており、化粧というものに価値を見出していたのです。

わたしの理解では、わたしたち「存在」は自分というものを感知するのに、自分以外のすべての中から何かをきっかけに「何か」を感じる必要があります。例えば、わたしたちが目が見える存在であることに気がつくには「見る側の自分」と「見られる側の自分以外のもの」が必要です。この場合の「見る側の自分」と「見られる側の自分以外のもの」を対照と呼びます。対照とは「私」と「私ではないもの」という切り離せないセットのことです。

不寛容であることについて考えてみると、「私」が「私ではないもの」との比較において「私ではないもの」より「マシだ」と思うとすれば、「マシかマシでないか」という価値基準は微分値のどこを切り取っているか、何と対比しているかの範囲において暫定的に評価がでるため、別の範囲と比べたときにはその評価は変わってしまいます。「私ではないもののすべて」の中から特定の何かにフォーカスすることで「私」は「私」を感じることができるのだと思います。何かを認識するとは自分を認識するということとほぼイコールなのではないかと思います。

何にフォーカスするかという決定はわたしたちがたいていそうと気付かずやっています。わたしたちは「私」を感じるのに「私ではないもののすべて」が必要です。フロイトの言うとおり、強烈に自分の欲望を感知するには、阻害や抑圧が役に立ちます。もちろん、快感や喜びを使って自分の欲望を感知してもいると思いますが、阻害や抑圧が自分の中で増幅されるようフォーカスを強くすると、欲望をより強く感知することが可能になります。

それゆえに、「気付かずに」やっている部分を意識的に変えることによって、世界は大きく変わるのだと思います。例えばわたしが他人の化粧に批判的だった時には批判が怖くて化粧ができなかったように、そして化粧を楽しいと感じるようになった後は批判が怖くなくなったように(誰にも恐れていたようには批判されたことがない)。わたしの世界は変わりました(「フォーカスすることの力」については以前も書いているので興味があればそちらをどうぞ)。

例えば、他人の言動に不快を覚えるならば、そこには自分を縛っている価値観とそれに抑圧された欲望があると考えていいと思うのです。同類嫌悪という言葉で表せると思います。自分のそういう部分をどういう風に見ているのかに繋がっていると思うからです。絶対にあいつとは違う!と叫べば叫ぶほどそこにわたしが恐れていると同時に解放したいと思っている何かがあると思うのです。だから「他人のふり見て我がふり直せ」はフォーカスを強くしている(比較を強くしている)ので逆効果なのだと思います。そのように鏡として他人を使うのではなく、「自分が他人を批判しているのは批判することによって自分の何を評価しているのか」を理解するのに使うことによって自分の中に平和と幸せを取り戻せると思うのです。なぜならその評価に自分の存在価値を頼り過ぎたとき、わたしたちは他者を批判することで「私は違う」を強調することになり暗黙裡に批判を恐れるようになるからです。力で支配する者は反逆を恐れます。

寛容さをもって何でも許してしまったら、また同じことをやるのではないか?厳しく監視したり、消えるまで叩き潰す必要があるのではないか?という不安があるということも理解できます。前回のブログの「罪と罰と寛容」で書いたように、寛容というのは「同じことをしてもいいという許可を出すこと」ではありません。でも、寛容さを向ける相手が他者ではなく自分なのであれば、できればむしろそんな許可も監視も討伐もしない方がいいと思います。フォーカスを外すことができれば、それほど脅威ではなくなると思います。「私」の中の「フォーカスされていない私のすべて」は、ポテンシャルとしては存在するものの、フォーカスされるまではカオスの中にほぼ「無い」ように「在る」と感じるからです。

むしろフォーカスを「好き」「心地いい」「楽しい」に向けると、それとセットの自分を体験することになるのだと思います。どんな自分になりたいのか、どんな世界を目指したいのか、ワクワクするものを実現する方へ。

これが、WE GiRLs CANの活動の骨子です。差別に対する反対運動ではなく、自らが新しいロールモデルとなることで作る明るい未来を作りましょう!ということがどういうことか少しでも伝われば嬉しいです。

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