前回の「感情が怖い」で予告した内容です。
おそらく、完ぺきな親というのはいないんだろうと、自分が50歳を超えたいま、50を超えてもこんなものなのかと実感するにつけ、それにしては本当によくやっていたと両親を労いたい気持ちになります。
生前母が「私には母性がないのかもしれないと悩んだことがある」と話してくれたことがありました。若いころはあまり子どもをかわいいと思えなかったのだそうです。兄とのときはかんしゃく合戦だったそうです。わたしのときはわたしが気が散りやすい性格だったので、食べものとか飛んでる虫とか花とか車とかを「ほらほら見て」といって指させば泣き止むから楽だったと言っていました。
感情をごまかしてなかったことにする
わたしは、母の策略が功を奏したのか、自分のネガティブな感情をごまかしてなかったことにするというのが得意でした。ネガティブな感情を出すと相手のネガティブな感情も引き出すような気がして、なるべく機嫌よくいる方が得策だと考えていたということもあると思います。
一方、他人のネガティブな感情は自分ほど簡単にはごまかせません。本当にどう扱っていいかわかりません。非常に居心地が悪く感じます。慰めたり気休めを言って終わる距離感の相手ならいいのですが、関係が近いとそうもいかず、解決しようとばかりしてきました。
前回のブログに書いたとおり、他人の不快は自分の不快なので、代わりにできることをやってしまうという方法で乗り切ってきたように思います。代わりに問題を解決するという方法が一番多かったかもしれません。逃げることができれば、モラハラにハマることもなかったと思います。代わりに問題を解決できることなら、自分のことをぶん投げてでも手と口とお金を出しました。その人が解決すべきこともやってあげてしまいました。
「モラハラにハマる「共依存関係の仕組み」を考える」という勉強会の報告での参加者との結論に尽きますが、「他人の責任をとってはいけない」ということなんだと思います。つまりは、自分の感情の処理がわからないというのは、自分の責任を取れていないということでもあるのかもしれません。
そう書くと、なんだか厳しくて批判的ですね。そうではなく「わたしたちは「どうせ」を越えられるのか」で書いたように、わたしは感情は起こってしまった事実だと考えています。だから、それを認めないとちゃんとした対応はできないのだと考えるようになりました。
どうやって感情を認めるか
心理学で学んだカウンセリングの理論では、キャリア相談でも家庭の悩みでも、たとえ相手と意見がまったく違っていても、カウンセラーには「相手がそう感じるのは当然だと受け止める」という技術と心構えが求められていました。(来談者中心療法)
これが、感情及び事実を認めるということだと思います。
心理学の各理論によれば、自分で認められない、ごまかしたり隠したり禁じて抑えたりした感情が心身に不調をもたらすのだそうです。そうやって、どうしようもなくなった時にカウンセリングなどを受けることで外側から認めてもらい、自分自身で受け止めることができるようになるのでしょう。
カウンセリングを受けるほどではないときでも、上手に自分の感情を受け止められれば、次のステップに進めます。
感情を怖がらずに寄り添い、じゅうぶん味わったら、そのきっかけとなった出来事について、改めて自分がどうしたいのか、やっと見えてくる気がします。自分でどうこうできることとできないことをまっすぐ見極めることもできる気がします。
自分で自分の感情に寄り添う
わたしは意識して自分のネガティブな感情を出したことがあまりありませんでした。周囲には顔つきや態度にダダ洩れだったかもしれませんが、自分ではないものとしてごまかしていました。
耐えきれなくなって出したころには腐って恐ろしい匂いを発するものになっていたので、「ネガティブな感情というのは怖いものだ」と変な裏付けをしていたかもしれません。そんな恐ろしい恨みつらみを出された相手だって、自己防衛本能が働いて戦闘的になるのは目に見えていますよね。ネガティブな感情はネガティブな感情を呼ぶと思って押し殺したくなる悪い循環です。
でも、腐る前に出すとそれほどではないということをあちこちの文献で見聞きしてはいたのです。実践したことがあまりなかった、あるいは、実践しているような得意なネガティブな感情はサラリと出して何の実感もなくうまくやっていたのかもしれません。
苦手なネガティブな感情をどうにかして早めに出す、という課題に取り組み始めたのが50を過ぎてからというわけです。
少しでも早くネガティブな感情に気がつけるように、自分の感情に注意するようになってきました。また、勇気を出して、少しずつ早めに不快な気持ちを出せるようになって、それほど大変なことにならない、ということが実体験的にわかってきました。
例えば、楽しみにしていたことができなくなって、それを伝えるのに罪悪感を感じている相手の気持ちを汲んでがっかりしていないふりをしがちでしたが、ちゃんとがっかりした方がお互いのためなのだとやってみてわかってきました。相手の罪悪感にまで責任を持たなくていいということを知りました。
わたしが責任を持たなければならないのは、自分の感情に、なのだと実感してきたところです。
そして、その先相手がどう感じてどうするのかは、相手を信頼して任せなければならないことなのだと体験的に理解しました。自分でどうこうできることと、できないことがあるのだと。
いまは、もっと早く出せたらもっとひとと楽にいられるんだろうなと感じています。
まだまだ上手に付き合えていませんが、前ほど自分や他人のネガティブな感情が怖くなくなってきました。
何より、歳を重ねてもチャレンジしてできるようになることが増えるというのは、座学で学ぶことだけよりも喜びや興奮が大きく、生きている価値を実感できるのが嬉しいです。
苦手なことにこそ、宝物が隠れているのかもしれません。
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