壮大な問題に取り組む(後編)

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壮大な問題に取り組むの後編です。前編はこちらにあります。 中編はこちらにあります。

差別問題に取り組む2

アイデンティティーと差別

わたしはここに、アイデンティティー(自分とは何者か)の副産物としての差別が生まれるのではないかと考えています。
やっと本題の差別に到達しました(笑)

ちょっと乱暴ではありますが、差異とは事実であり差別とは価値観であると言っていいかと思います。

例えば大きいか小さいかは単なる差異ですが、それが良いか悪いかは価値観です。どちらが優れているかは本質には関係がないもので、価値観が加わると立ち現れてくるものです。
価値観は背景によって変わってしまう基準ですが、わたしたちは時にひとつの価値観だけで自分や他人を定義しようとしてしまいます。

しかし、重さを測るときには秤がふさわしく、長さを測るときには秤を使うことがナンセンスとなるように、ひとつの価値観を適用してすべてを判断することは適切ではありません。

例えば、見渡す限りの草原で、背が高いことは遠くまで見通せて早く危険を察知する能力を意味し、それは草原での生存の可能性の高さを表します。そこに背が高いことの価値が加わります。
逆に、みっしりと生い茂った密林の中で、背が低いことは枝を容易にくぐり抜けながら走る能力を意味し、それは密林での生存の可能性を表します。そこに背が低いことの価値が加わります。

草原で「背が高い(誰と比べてかという相対的な事実)から良い(背景によって与えられた価値)」という価値判断が自分や他人を定義する基準として使われるようになると、「背が高くないから悪い」という定義も発生してしまいます。これによって差別するということが起きてくるのではないでしょうか。しかし、これはとある基準を使って相対的に見てのことであり、絶対的に「悪い」ということではない訳です。証拠に、その同じ人たちを密林に入れれば立場が逆転してしまうこともある訳ですから。
さらには、自分が別の何かで劣っているあるいは自信がないと感じてしまった誰かが、他の人を見下すことによって自分の価値を上げたいとした場合に、攻撃的に差別する行為が発生するのではないでしょうか。

判断基準である背景や文脈も変化してしまう

このようにアイデンティティーの判断にはコンテクスト(背景や文脈)の存在が不可欠です。この草原なのか密林なのかというコンテクストによって背が高いことや低いことに対する評価は変わってしまいます。

わたしたちはこういったコンテクストによって自分が価値判断しているということをあまり意識していません。事実と価値観が違うものであるということすら気づかずにいます。
しかし、実際にはコンテクストによって求められる最善をその都度評価しており、流行を追いかけたり新しいサービスや技術を作り出しているのです。当然ながら時代が変わったり流行が変わると、求められる最善も変わってしまいます。

ジェンダーということでいえば、戦争が多く殺し合いのある時代に求められたのは「男らしい」男性でした。昨今では「男らしさ」の定義は変わらないまま、「男らしい」男性ではなく「女らしさ」と言われていたような部分を持った、繊細で優しく思慮深く気が利いて家事が得意で育児もする料理上手な男性が良いと評価される、といった具合です。
機械化が進み、ロボットが開発されていくと、肉体労働が減り、単純労働が減ります。人間はほぼ一日中パソコンの前に座って仕事をするようになりました。体力よりもデスクに長時間座っていられる能力、ゴルフや接待で飲み明かす体力よりもメールで上手に交渉ができる能力が必要です。これは「男らしさ」がなくてもできる仕事です。生物学的な性別もジェンダーも関係なく働ける時代がきていると言えるでしょう。
このようなことは数十年前には考えも及ばないことでした。

背景であるコンテクストは誰が決めているのか

社会という個人の集合体は、個人の価値観の集合体でもあります。

自分の価値観が社会の価値に影響を与え、社会の価値観が自分の価値判断に影響力を与えるというサイクルの中にいるのではないでしょうか。

社会はAだ→自分はこうしよう→構成員の考えや行動が集まる→流行Bが起きる→流行はBだ→自分はこうしよう→……

決して一方的に価値観や規範や慣習やルールを押し付けられている訳ではありません。それを守ることや黙っていることでも支持しています。それに疑問を投げかけることも、新しい価値を体現することもでき、自分以外の構成員に考えてもらうきっかけになることもできるのです。

わたしはジェンダー平等や女性のエンパワメントの活動として、

抵抗するのでもなく、かといって、執着するのでもない

柔軟で穏やかなアプローチがあるのではないかと考えています。

社会が大きすぎて自分の力などちっぽけだと思っている人がいるとしたら、一度このような「私」が「社会」に定義されているのか「社会」が「私」に定義させているのか、鶏が先か卵が先かに似た答の見えない議論に入り込んで、その中で何ができるのかじっくり考えてみてほしいと思うのです。

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