Reality is always kinder than the story we are believing about it.
Katieisms, from “The Work of Byron Katie – An Introduction”
(わたしたちがそういうものだと信じ込んでいる物語よりも、現実はいつでも優しいものです)
「認知バイアス」や「確証バイアス」という言葉を知っていますか?
英語の「bias バイアス」とは「偏り」という意味で、どちらも人間の心理状態が偏っていることを表す心理学の用語です。
「認知バイアス」は人が何かを判断する際に、先入観や思い込みによって偏り、非合理的な判断をしてしまうことを指します。
「確証バイアス」は心理学者の言葉を借りて説明するなら「人は自分が得た情報を正しいと信じたいために、都合のよい情報だけを偏って選択する」(『今日から使える行動心理学』齊藤勇著より)ことを指します。
例えば一度犬に噛まれた経験がある人が、犬は噛むから怖いと信じているとしましょう。これは「認知バイアス」によって、すべての犬が噛みつくわけではないのに犬はすべて怖いと判断している状態です。
また、どんなにたくさん噛まない犬がペットとして飼われているのを目にしていたとしても、誰かが犬に噛まれた話がひとつでもあると、「ほら、やっぱり犬は噛むから怖い」と確証を得たように感じるのが「確証バイアス」です。
考えが偏るということは、犬に噛まれたなどの強烈な印象を残す経験がなくても起きます。例えば、わたしたちは「女性がおしとやかで男性が勇ましい」ということを信じています。しかし、自分自身を含め経験上必ずしもこういった考え方が正しくないケースがあることを知っていますよね。なのにとっさに勇ましくない男性を「男らしくない」と非難してしまったり、心のどこかでおしとやかではない女の自分を恥じたりします(#昭和のチップ)。これはステレオタイプと呼ばれますが、すべての犬を噛む犬だとして怖がるのと違いはなく、一般化による偏りであるといってもいいでしょう。
そもそもなぜわたしたちの考えはこのように偏ってしまうのでしょうか。
概念
これは「概念」というものに原因があります。「概念」とは、ものごとの共通の特徴や性質を抽出して一般化した考えのことです。
わたしたちは人類が何十万年もの大昔から集積し続けた「犬とはこういうもの」「女性とはこういうもの」「男性とはこういうもの」などの、巨大なデータベースにある一般化されたイメージに頼っています。AIがビッグデータを活用するように、わたしたちの脳もその集合的無意識というビッグデータを活用しています(ユングの#集合的無意識)。おかげでわたしたちは瞬時に「それが何で、それと自分の関係がどういうもので、それに対してどうふるまえばいいか」ということを、その場でいちいち調べたり考えたりしなくても一瞬で理解して反応できています。
「概念」のおかげでわたしたちはほぼオートパイロットで生きることもできます。実際に危険や安全を感覚器官が捉えるまでもなく、それぞれの概念に紐づけされた回路が、脳や体の中で神経として組み立てられており、危険を察知したときにとっさに逃げるなどの反応を瞬時に行います。一方で、アドレナリンなどのホルモンが血管やリンパ腺を通って全身にいきわたり、それぞれの機能を担う細胞が働いて勝手に筋肉が緊張して汗をかいたり、リラックスして血圧が下がったりしてくれます。
例えば、狼と犬の違いを素早く認識できないと狼には襲われて死んでしまいます。ですから、犬に似ているけれどより体の大きい獰猛な動物に「狼」という名前(概念)をつけて警戒します。その狼という「名前」と「概念」が社会に浸透すれば「狼だ!」と誰かが叫んだだけで、まだ狼の姿を見る前にその叫びを聞いた人たちが一斉に逃げることができるようになります。このようにして先人たちが経験から得た「概念」を集団内で共通の特徴や性質を抽出して一般化したものが「社会的通念」や「文化」や「常識」と呼ばれるものとなっていきます。
「概念」を作るには、ものごとを観察し、それらの共通の特徴や性質を抽出し一般化して「犬」や「狼」などの「名前」を付けます。名前がつくまでは混沌とした恐れや感情や状況でしかなかったものが、具体性をもった「概念」として編集されるというわけです。
「概念」を作る編集能力はわたしたちの「記憶」の仕組みそのものでもあります。
記憶
以前「記憶と「私」」という記事で記憶の仕組みを説明しましたが、わたしたちの脳は記憶のシステムのなかで、モノゴトを認識したら、まずはそれらを他のモノゴトと区別して、名前やタグをつけて分類して格納しておきます。しばらくしてまたモノゴトによって刺激を受けると、似た分類・タグ・名前を辿って思い出すという工程を行います。憶えたところから思い出すところまでが「記憶」のプロセスです。図書館の本棚のイメージで例えれば、本を本棚に無造作に突っ込むのではなく、内容にあった「タイトル」が付けられた本を、「分野別」「作家別」「50音順」など、いろいろなグルーピングのタグをつけて並べておき、読みたい本を探すときに、1冊ずつ見ることなくなるべく早く探し出せるようにしているのと同じです。この認知の過程を認知心理学では「スキーマ」と呼びます。
社会通念の中では犬は怖くない動物として概念化されていますが、犬が怖いものとして記憶されている人の中では、この「スキーマ」の過程のどこかが犬に噛まれたという個人的な恐怖体験によって書き換えられています。
もともと、スキーマはある程度柔軟に構成できるようになっています。そのため、例えば犬のスキーマもチワワからレトリーバーまで体の大きさや毛の長さ、色や顔の形がある程度違っていても、同じ「犬」というグループとして認識できるようになっています。
このように、わたしたちは「名付け」「カテゴリー」「分類」「一般化(概念)」という記憶のシステムの恩恵を受けながら、時系列という因果の連続の中で生きているのです。
その中で、噛む犬と噛まない犬がいることを認識できないとすべての犬を怖がる必要が出てしまうように、「社会的通念」においてもスキーマの柔軟性を適用しすぎて、本来事実に即して区別しなければならないものまでいっしょくたにカテゴライズするならば、「事実」と乖離して「偏り」となり、個人のケースと同様に問題となりえるでしょう。
問題
「認知バイアス」が問題となる理由は、事実を誤認させて非合理な判断を導くからです。非合理であるということから、心理学の別の言い方で言えば「イラショナルビリーフ」です。
事実を誤認すれば、わたしたちは事実がわたしたちに与えてくれるはずの恩恵を受け取り損ねます。犬に噛まれた人が、恐れを乗り越えて一度でも噛まない犬と出会い、犬と触れ合う喜びを知ることがあるなら、犬を恐れて一生暮らすよりもその人の人生は豊かになるかもしれません。
同じように、社会通念としてわたしたちは狼を恐れていますが、狼を保護して犬と同じように共生している人もいますから、条件によってはいつでも狼が人間を襲うわけではなく、すべての条件において狼を恐れ、悪者扱いするのはわたしたちの偏った考えなのかもしれません。事実、北米イエローストーン国立公園で狼を駆除した結果、森林が鹿によって破壊されて他の野生動物が絶滅・減少したケースでは、狼を再び導入することで生態系が回復したといいますから、少なくとも獰猛な肉食動物が鹿などの草食動物を殺してしまうことをかわいそうだと思い、肉食動物だけを獰猛であるがゆえに悪いものと捉えるのも偏った考えであることは明らかです。
ステレオタイプのような社会通念の理解を通した、わたしたち個人の事実の誤認もあります。例えば、「男は強い」という社会通念は、男女で比べれば腕力の差があることは統計的には事実に近いですが、何に比べてどの領域でどのように強いということを指しているかは、「男は強い」という文脈だけでは非常にあいまいです。それを個人が「自分は男だから、誰よりも腕力・財力・権力において強くあるべき」という「偏り」のある定義にしてしまえば、そうでない自分は「男らしくない」となってしまうので、事実とは異なります。フェミニンな男性も、力持ちやマッチョな女性も存在するのが事実ですから。
こういった事実の誤認によって個人が深刻な状況に陥ることもあります。例えば、その「偏り」のために事実を認めることができずに、事実と大きく乖離した結果、わたしたちは誰かを傷つけたり攻撃したり、自分自身を責めて心を病んでしまうこともあります。精神神経免疫学の研究によれば、自分を責めることによるストレスなど、精神的なストレスが持続的に体験されていれば、自己免疫疾患やガンやなどの病気として現れることもあるといいます。
わたしたちは「偏り」のために現実を受け入れることができないとき、心身を病んだり、薬物や買い物やギャンブルに依存してしまったり、誰かや何かを苦しめたり傷つけたりしてしまうこともあるのです。
心理学者ロジャーズは「最適な心理適応とは、自己と経験の完全な一致の状態、ないしは経験に対して完全に開かれている状態をいうのである」と言っています。平たく言えば、「自分が思っている自分と実際に経験していることに矛盾がないか、自分が思っている自分とは違う経験を受け入れられる状態が最適な心理状態である」という意味だと思います。例えば、自分が得意だと思っていることをやって実際にうまくできているときは完全な一致ですが、得意だと思いたくて失敗を恐れながらやっているなら一致していません。得意だと思っていたことで失敗しても「そういうこともあるから次はこうしよう」などと受け入れているなら経験に対して開かれているといえますが、失敗した自分が許せなかったりそれを環境や他人のせいにして責めるなら経験を受け入れられない状態です。
ここでロジャーズが言っている「自己」とは自分が自分に対して思う理想であり、「私とは○○である」というアイデンティティ、自己像、セルフイメージ、自己概念(自己スキーマ)のことです。また、「経験」とは過去に起こったこと、つまり事実のことです。
心身の健康を保つには、自分が思う自分と事実が完全一致するか、少なくとも一致していないという現実を受け止めている必要があるのです。
「事実」「現実」「真実」と「理想」
先に進む前に、混乱している人もいると思いますので、ここでいったんこれまで繰り返し書いてきた「現実」と「事実」という言葉を整理しておきましょう。「現実」と「事実」に似た言葉に「真実」がありますから、それも一緒に整理しておきたいと思います。
事実
「事実」は英語でいうところの「Fact ファクト」で、ファクトフルネスやファクトチェックなどの言葉から察することができると思いますが、過去に起こった出来事や、過去に起きて今も続いている状態や状況のことを指します。ロジャーズの言葉の中では「経験」と表現されています。
「事実」は「誰が、いつ、どこで、何をした」という形、「何個、何時間、何メートル」といった数量で測れる形、「イエスかノー」で答えられる質問の答えという形で表現される事象のことでもあります。
「事実」は時系列の中にあり、過去もしくは過去から現在に続いている時間に属します。
現実
わたしたちは「こうあってほしい」「こうあるべきだ」「こういうものだ」「普通はこうだ」「みんなこうだ」「いつもこうだ」という「理想」と、目の前にある「事実」が違っているということを言い表すために「現実」という言葉を使います。
つまり、「現実」は「理想」とペアになったときの「事実」の別名です。
いわば「事実」は「理想」なしにも存在できますが、「現実」は「理想」を裏切ることなしに存在することはできないところが「事実」と「現実」の違いです。
真実
そして「真実」は、わたしたちの思いや考えも含めた「現実の見え方」のことを指します。
「こうあってほしかったのにそうではなかったから悔しい、つらい、悲しい、恨めしい、腹立たしい」といったその人それぞれに「真実」があります。
だから、その前提となる「理想」が共有できない人には「なんでそれが悔しいの?」と理解されないということもあるのです。
たとえ他の誰にも理解されなかったとしても、その人にとってその悔しさは紛れもない「真実」なのです。
理想
最後に「理想」についても考察しておきましょう。
前述のとおり、「理想」は「そうあるべきなのにそうではない」「現実」とペアです。
「現実」は「理想」を裏切るものと書きましたが、実は「理想」を持つには「現実」を知っている必要があります。目の前の「現実」と「こうありたい」という「理想」にギャップがあるから、憧れたり維持しようと努力したりします。例えば「お金持ちになりたい」という「理想」は、誰かと比べて持っているお金が少ないと思わなければ生まれません。
わたしたちは「現実」が「理想」に合わないとき、「現実」の方を忌み嫌いがちです。お金持ちのような贅沢な生活ができない自分を否定したり、男らしくない男の人に腹を立てたり、女らしくない自分を責めたり。
その結果、何とか「現実」をコントロールしようとします。でも、「現実」は目の前にあり、バイロン・ケイティの言う通り、「現実と戦うと必ず負け」ます(詳しくは「意図的、作為的、恣意的、故意的であるということ」)。
健康な心理状態でいるためには、少なくとも「一致していないという現実を受け止めている必要がある」のに、なぜわたしたちは「事実」から離れてしまうのでしょう。
感情
理由は「記憶」が「感情」と密接な関係にあるためと考えられます。
解剖学的に記憶に関わる脳の部位を見ると、大脳辺縁系という場所に記憶の入り口があることがわかっています。大脳辺縁系には、感情をつかさどる扁桃体と、記憶をつかさどる海馬があり、このふたつの部位が生命維持に関わる情動行動と記憶の形成に大きく寄与しています。情動とは、感覚器官から得た刺激に対する本能的な恐怖などの激しい感情のことを言います。偏桃体と海馬が近くで連携しているのは、生命を維持し繁栄するために、怖い経験、嫌な思いを避け、気持ちいい体験、心地よさを再体験するための記憶が重要だからであろうと理解されています。
というわけで、わたしたちの脳内でこのふたつの部位が同じ大脳辺縁系に位置していることを見てもわかるとおり、感情と記憶は密接な関係にあります。
犬に噛まれた痛くて恐ろしい経験をした人が、すべての犬を噛むものとして恐れるようになるような「偏り」につながる原因の一つがここにあります。恐怖のような強い感情は、強い記憶を形成します。認知症になっても感情の記憶は心に残りやすいといわれるほどです。大脳辺縁系は生命維持が主な仕事ですから、恐怖が伴った体験は強い記憶となり、経験から妥当な対応策を立てられなかった場合は「偏り」となってしまいます。
妥当な対応策を立てるには、記憶のスキーマに物語としてのまとまりが必要です。そのスキーマは以前紹介した心理学者ブラウンのBASKモデルでは次のように構築されます。
自分が何をしていたとき(Behavior)に何が起きて、どういう感情が湧いて(Affect – emotion)、どんな身体反応があって(Sensation – body)、それはどういうことだったのだ(Knowledge)。
「犬を触ろうとして犬に噛まれた(B)とき、すごくびっくりしたし怖かった(A)し、痛かった(S)けど、あれはあの時あの犬が牙を剥きだして吠えているのに近づいたのがいけなかったんだ(K)」という物語が組み立てられれば、「吠えている犬は噛むから危ないので近づかない」という妥当な対応策が立てられます。
しかし、犬が見えていないところから突然吠えたりせずに飛び出して噛んできた場合は、こういう物語を組み立てることができずに、ただ暴力的で不条理な経験として「恐れ」を記憶するしかありません。
暴力的・不条理な経験は「トラウマ」になります。「トラウマ」は「心的外傷」とも表現されます。つまり心に受けた傷です。
例えば指をケガしたら傷口に炎症が起きて治るまで痛みがあり、痛みがある限りは自然に指を使わないようにしますよね。それと同じで、心に受けた傷も痛みのように感じるので、同じことが起きるのを避けるためなら、どんな手を使ってでも避けようとします。その避けようとする心理的な反応が繰り返しによって強化・固定されます。
骨折などケガが酷くて長期間使わないでいると、その部分は元のように使えなくなります。それを避けるためにリハビリがあります。心の傷もリハビリをしなければ、元のように振舞うことが難しくなってしまいます。少しでも似たような状況が起きると体が硬直したり、フラッシュバックと呼ばれる、突然鮮明にショックな出来事を思い出す症状によって日常生活が送れなくなってしまったりします。これを「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と呼びます。
すべての犬を怖がって避けるということが妥当な対応策ではなかったとしても、そこには自分なりに不条理な出来事の原因を見つけて対策を立て、たとえそれが事実とは違う見立てによる間違った判断であったとしても、何とかして自分を守りたいという強い思いがあります。犬に噛まれた人は二度と犬に噛まれたくないという強い思いに従い、すべての犬を噛みついてくるものとして恐れ、噛まない犬もいるという事実は無視して、一切犬に近寄らないという対策を立てるわけです。
犬に噛まれた人の例のように、その経験があまりに突然だったり暴力的で、強いネガティブな感情を感じたなら、「犬が怖い」というのはその人にとって紛れもない真実であり、恐ろしくて痛かった体験を避けようと「すべての犬は噛むので恐れるべき」という「認知バイアス」を持ってしまっても仕方のないことなのです。
ただ、犬と一生触れ合わなくても特に問題はありませんが、もしも犬を見かけただけで恐怖でパニック症状を起こしてしまうような場合は、すべての犬が噛みつくわけではないという事実を受け入れることは、パニック症状の軽減につながります。犬好きの人に敵対心を持つ必要もなくなり、争いが減ることでしょう。
同じことはすべての人間関係の対立にも言えるのではないでしょうか。意見の違い、争いごと、ケンカ、戦い、戦争などは「安全な環境で安心して平和に暮らしたい」という生命維持に関わる大脳辺縁系の「理想」から発しています。
恐れ・不安とコントロール
「現実」が「理想」に合わない場合、わたしたちは「現実」の方を忌み嫌う傾向があります。実際には高すぎる「理想」の方がわたしたちを苦しめる要因になっていたとしても、「現実」を受け入れることも「理想」を変えることもせずに「事実」の誤認を続けることがあるのが人間です。こういう状態のとき、わたしたちは自分を「現実」の「被害者」であると感じます。被害者とはイノセントで非力で無力なもので、救われるべきものです。自分に思わしくない「現実」をもたらすモノを加害者とし、「悪」と断定して非力で無力な「被害者」である無垢で善良な自分を救って欲しいと考える傾向があります。
しかし、「事実」はどちらかというと物理現象であり、因果の連続であって“良く”も“悪く”もなく“ニュートラル”で、わたしたちのように「意図的、作為的、恣意的、故意的」に「どうこうしてやろう」という意図をもって何かを能動的に「起こす」ことはありません。ただ出来事と出来事の相互関係によって「起こる」だけです。
むしろ、このブログのタイトル通り、「現実」は「理想」には適っていなくても、思っているほど恐ろしいものでも酷なものでもなく、意外と優しいものであることのほうが多いのです。忠実で人懐っこい犬のように。
「理想」に適った「現実」を受け取れなかったとき、なぜわたしたちは「現実」を「悪い」と捉えることがあるのでしょうか。
認知
心理学者のジャン・ピアジェの認知発達段階を参考に考えると納得がいきます。
わたしたちは発達段階で、2歳から7歳の間の前操作期と呼ばれる時期に「自己中心性」という段階を経ます。この段階ではわたしたちは「自分自身の視点を中心にして周囲の世界を見ること」しかできません。やがてこれはだんだん変化し、相手の立場に立って世界を見ることができるようになっていきます。
また、わたしたちはこの時期に「アニミズム的思考」という、モノに命や意思があると捉えて擬人化する傾向も持っています。
このように、わたしたちは成長して他人の視点からものを見て共感力を備え、モノには共感をしないように育ってもなお、基本的には「自分」を基準に考え、「現実」に自分たちと同じように意図があるかのように捉えて「良し悪し」のレッテルを貼ってしまうような、幼児期の傾向を持ったままなのではないでしょうか。
調子の悪いパソコンを「機嫌が悪い」と表現したり、悲しいことがあった日の雨を「空も泣いている」と表現するとき、わたしたちは前操作期の世界観と繋がっているのかもしれません。
自己中心性をもってアニミズム的思考で「現実」を捉えるとき、わたしたちは「現実」が意図をもってわたしたちを思い通りにしようとしていると考えます。しかし、実際にはわたしたちの方が二度と同じ目に遭いたくないので何とかしてそれを避けようとして、「現実」を何とかしてコントロールして思い通りにしたいと思っています。
つまり、心理学でいう「防衛機制」によって自分の思い通りにならないものや相手を「悪」とし、善悪二元論で思い通りにしようとする精神の機構が、「現実」を「悪者」にする起源であり、なぜ思い通りにしたいのかといえば、恐れに基づく不安を解消したいからでしょう。
防衛
「防衛機制」とは、ウィキペディアによると「受け入れがたい状況、または潜在的な危険な状況に晒された時に、それによる不安を軽減しようとする無意識的な心理的メカニズムである」ということです。また、「投影(Projection)- 自分の内面にある受け入れがたい感情や欲動を、自分のものとして認めず、外部に写し出すこと」とあります。
この説明をもとに解説するならば、「理想」に適わない「現実」を憎んだり恨んだりしているのは自分なのに、「現実」の方が自分を憎んで酷い目に合わせるから「悪いのだ」と考えるということになるでしょう。自分が「被害者」で相手が「加害者」であるならば、正義の名のもとに相手の事情や立場を尊重せずに自分の思い通りにすることができ、自分はイノセントでいることができます。このように、「投影」の防衛機制は「精神病的防衛」や、「未熟な防衛」として現れるとされています。「未熟な」とはまさにピアジェのいう2歳から7歳の発達段階です。
古今東西わたしたち人類には「自分をこのような目に遭わせるものをコントロールさえできればすべてうまくいく」という考えを手放すことができない理由がここにあります。戦争や法律や政治や宗教や警察などなどは、思い通りにならない相手を思い通りにすることを正当化するために発明されてきたのではないかと思います。
法律や警察が相手を思い通りにするための正当化である、という考えに違和感や反発を感じたなら、それはあなたの防衛機制が無意識裡に今まさに働いた瞬間です。
「自分をこのような目に遭わせるもの」という視点が自己中心性とアニミズム的思考に基づく無意識の防衛機制による「偏り」だとすれば、わたしたちは、「コントロールさえできればすべてうまくいく」という「真実」を生きている人類の無意識の「偏り」を解いて、「現実」から目をそらさず「事実」を観察し、正しい「事実把握」に合わせて「理想」を緩め、誰かや何かを悪者にすることなく、「事実」に即した可能性に開かれた暮らしを、お互いを尊重しつつ営むことは可能なのでしょうか。
「偏り」を解く
「偏り」の原因になるからといって、「概念」「カテゴライズ」「記憶」をなくしてしまえ!ということはできません。
「偏り」は避けたいのですが、「偏り」のもとになってしまう「概念」や生命維持に必要な「記憶」のシステムは上手に利用していく必要があります。
理論的に説明・説得すれば「偏り」がある相手に「偏り」に気づいてもらい、考えが偏っていることを認めてもらうことはできるのでしょうか。
わたしたちには、「心理的リアクタンス」といって、どんなに相手の言うことが正しくても、人が自由を奪われたと感じたら、それに抗おうとする心理と、「ブーメラン効果」という説得すればするほど相手が逆へ行ってしまうという傾向があります。つまり、基本的に説得はできないと考えていいでしょう。
でも、「事実」がそうであったり、反論の余地なく理論的であれば納得せざるを得ないのではないかと思う人もいるでしょう。
残念ながら「事実」や「理論」には説明力も説得力もないようです。
以前感想を書いた『事実はなぜ人の意見を変えられないのか~説得力と影響力の科学』(ターリ・シャーロット著)の中に、フランス人とアメリカ人のカップルの議論が例として書かれています。それぞれが自説を裏付ける証拠を出し合い、お互いの証拠を否定し合う姿が以下のように描写されています。
(前略)すでに述べたように二人は弁護士であり、陪審員を説得して味方につけることを一生の仕事としている。二人はともに、自分の専門である法律問題を扱うように夫婦間の問題に着手した。自らの意見を裏づける事実や数字を提示し、相手を打ちのめそうとしたのだ。ジェレミアがテルマに「生活費はアメリカの方が安い」というデータを見せれば、テルマはジェレミアに「フランスに住む弁護士の方が高収入」という数字を出す。ジェレミアがテルマ宛てのメールで「アメリカの教育システムのすばらしさ」を説く記事を送れば、テルマは「フランスで育つ子供はより幸せ」と訴える記事を見つけてくる。ところが二人とも、相手がもってきた「証拠」は信憑性がないと一歩も譲らない。それどころか年月を経るにつれ、どちらも自分の考えにさらに固執するようになってくる。
『事実はなぜ人の意見を変えられないのか~説得力と影響力の科学』(ターリ・シャーロット著)「1事実で人を説得できるか?(事前の信念)」より
彼らが「確証バイアス」合戦をしているのがわかりますよね。これが「偏り」であるのはなぜでしょうか。彼らはフランスのいいところとアメリカのいいところを主張しあっているだけですから、そこだけを見れば非合理的な判断をしているようには思えません。
「偏り」によって起きているのは、手段と目的を入れ替えてしまっているという非合理な判断です。
せっかく仲の良いカップルなのに、将来どこに暮らすかということ1点だけで仲たがいしてしまっています。彼らはどちらの国に住めば自分たちが幸せになるかを説得しようと「正しさの戦い」を戦っています。これは「仲がいいからこそ、この先も一緒に暮らしたいと思った」という目的からすると、そのために仲たがいすることを選択しているのは非合理的な判断をしていると言わざるを得ません。いま目の前の幸せを壊してでも将来の幸せのために戦っているのですから。
こういうことは古今東西、家庭から国家間に至るまで、人間が2人以上いる場所では比較的多く起こってしまうことです。目指していることは同じなのに、手段に関する意見の相違でコンフリクトが起きてしまいます。
この例を見てもわかるとおり、相手の「偏り」を説得して解こうとするなら、どんなに説得のプロであっても相手の「偏り」を解くどころか、自ら「偏り」の沼にはまっていってしまうということになります。ミイラがミイラ取りになるとはこのことですね。
では、一体何をどうすればわたしたちは恐れや不安を手放して何でも思い通りにしたい思いに駆られることなく、心穏やかな境地に達することができるようになるのでしょうか。悟りでも開かないと無理なのでしょうか。
悟り
仏教の開祖であり釈迦族の王子として生まれたゴータマ・シッダールタは、修行によって悟りを開いて教えを説くようになる前にこんなことがあったそうです。
(前略)悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを考えた。その結果、この真理は世間の常識に逆行するものであり、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。
ところが梵天サハンパティが現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われたとされる(梵天勧請)。3度の勧請の末、釈迦は世の中には煩悩の汚れも少ない者もいるだろうから、そういった者たちについては教えを説けば理解できるだろうとして開教を決意した。
Wikipedia「釈迦」より
宗教は特に、釈迦が言うように世間の人には伝わらず、教祖の死後、むしろ誤解され、利用されて真逆にいってしまったものもたくさんありました。日本でも中世には武門専業の僧侶がいたり、日清戦争から太平洋戦争までは仏教が積極的に戦争に協力したこともありましたから、釈迦の懸念は当たっていたのかもしれません。
悟りを開けず常識を手放すことができないわたしたちは、恐れや不安から解放された戦争のない、争いごとのない、平和で思いやりにあふれた世界や、苦しみのない、恨みごとのない、平和で満ち足りた世界を創造するというのは戯言・妄想でしかないということでしょうか。いったん恐れるべきでないものを恐れ始め、不安を払しょくするために相手やモノゴトをコントロールしまくるというループに入ってしまったら、わたしたちは誰一人としてそこから抜け出ることができないということでしょうか。犬が怖い人は犬と触れ合うことは一生ないのでしょうか。ストレスによって心身を病んでしまったら、もう治る見込みはないのでしょうか。意見の相違で仲たがいした人たちはいがみ合い続けることになるのでしょうか。
変化と希望
真理は世間の常識に逆行するから人々には理解できないだろう、と当初ゴータマ・シッダールタは考えたようですが、梵天サハンパティに請われて教えを説くようになり、おかげで後世彼の教えを学ぶ弟子たちは数えきれないほどいて、彼らの中には真理が理解でき、悟りを開いた人たちもいました。釈迦も直接彼が説いた真理を理解したコンダンニャをはじめとする弟子たちも何千年も前に亡くなってしまいましたが、その後も地球上には一定数彼が理解した真理を理解できる人たちが現れては消えていってを繰り返していることでしょう。
そう、一定数はいるのです。
そこにゼロではないという希望が存在するから、釈迦も誰かには伝えたいと思ったのでしょう。でも、その一定数が世界を変えるほどに至っていません。
社会が変わるにはイノベーター理論でいわれる「クリティカル・マス」を超える必要があるでしょう。
地球の何パーセントかの人が「宇宙とは、生きるとは、世界とは、社会とは、人間とは、自分とはこういうものである」という思い込み、あるいは釈迦のいう「世間の常識」を変えたら、わたしたちの地球は変わるのでしょうか。その割合はどのくらい必要なのでしょうか。
社会学者エベレット・ロジャーズのイノベーター理論どおりなら、16%です(イノベーター2.5%+アーリーアダプター13.5%で、残りはアーリーマジョリティ34%+レイトマジョリティ34%+ラガード16%=84%)。
社会学者ロザベス・モス・カンターの理論でいうなら、35%です(35:65)。
どうやってその割合に到達するかは別として、クリティカル・マスの理論が正しければ、少なくとも「世間の常識」もいつかは変わるものだということを示しているのではないでしょうか。
世間の常識が変わった例を探してみると、例えば私が20台だった30年前の1990年代には、同性同士が結婚するのは常識外でしたが、今や37の国・地域(2024年8月)で同性同士でも結婚ができるようになっています(出典Marriage For All Japan)。
また、戦中の1939年生まれのわたしの母曰く、「結婚する以外に女が実家を出る方法はなかった」し、母の時代は「自営業の妻か看護師か教師以外に女性が結婚後も続ける仕事はなかった」ということでした。30年後の1968年に生まれたわたしは就職して実家を出て自営業を始め、今では同性パートナーと暮らしています。
まだまだ給与に差があるとはいえ、今は少なくとも結婚後も働いている人たちがいますし、家事分担や子育ての負担の不均衡はまだあるにしても、今は少なくともイクメンという流行があって男性の育児休暇制度があって、結婚相手を見つけるために就職して寿退社して、その後は核家族の専業主婦とワンオペ子育て以外に何の制度もなく選択肢がなかった母の時代とは差が出ています。
理想に比べたらまだまだではあっても、わたしの母の時代に比べたら、女性に対する差別もLGBTQ+に対する差別も、変化に消極的なレイトマジョリティ34%と、かたくなに差別したいレガード16%の人たちの常識(=偏見=バイアス)として残ってはいるものの、少しずつ変わってきているのではないでしょうか。
前述のとおり、わたしたちは何かを基準にして比べることで差を知り、その差によってものを認識する脳の仕組みを持っています。だから、目の前の何かがすぐに大きく変わらなかったとしても、何と比べるかによっては変わっていることに気づくことができるでしょう。何より長い目で見れば変わっているのが見えてきます。むしろ「変わらないものがないということだけが変わらない」ということに気が付くことができます。
釈迦の言葉通りこの世は「諸行無常」であり、「脱皮しない蛇は滅びる。意見を脱皮していくことを妨げられた精神も同じである」とニーチェが言った通り変わらないでいるほうが難しく、連続する変化の関係性の中に浮き上がってくるのが「存在」というものなのかもしれません。
釈迦のみならず、その時代その社会に合った言葉で、いろいろな人がその準備が整った人、その境地に近い人、その覚悟ができた人に向け「心の平和」へ至る道を示してきました。
世界の平和はその構成員であるわたしたち一人ひとりの「心の平和」によって実現されるでしょう。
ブッダは6年も苦行した後に菩提樹の下で決死の覚悟で深い瞑想を行い、悪魔の誘惑や攻撃と対峙したといいます。またキリストは荒野で40日間も断食し、悪魔の誘惑と対峙したといいます。そこまでしないとわたしたちは「悟り」を啓くことはできないのでしょう。よっぽどの覚悟がない限り、そんな恐ろしい体験がしたい人などいませんよね。
実は、そこまでやらなくても、少なくともロジャーズがいう「最適な心理適応」つまり「自己と経験の完全な一致の状態、ないしは経験に対して完全に開かれている状態」でいるための、現代のわたしたちに合った方法はいくつかあります。
各メソッドについては、次回以降紹介していきたいと思います。
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