コロナ以降のこの先の見えない変化の時代に、あなたはどのように生きていけばよいと感じていますか? 何か指針となるものはありますか? 人や自分を欺いてでも勝ち抜きたいと感じていますか? それともどんな状態になっても人間性を失いたくないと感じていますか?
このブログが少しでもあなたの世界に光をもたらす役に立ちますように。
内的照合枠と自己概念
人はみな、幸せな、よりよい人生を送りたいと願っています。あなたにとって、よりよい人生とはどんなものでしょうか(幸せについての考察はこちらのブログをどうぞ!)。
それぞれの人の人生全体に差を、しかも非常に大きな差を生み出すのは、その人が世界をどういうものであると捉え、世界と自分の関係をどんなものであると定義しているか、ということによります。
人生を「世界という舞台で展開する自分が主人公の物語」と譬えることがありますよね。舞台にはセリフやト書きが必要となります。それらはシナリオに書かれています。そして、そのシナリオを書くときに必要になるのがプロットと呼ばれるものです。プロットは、悲劇なのか喜劇なのかサスペンスなのか、成功物語なのか社会ドラマなのか、どんな主人公の物語なのかといった基本となる企画を考えてまとめたものです。この主人公はこんな場面ではこんな立ち居振る舞いをして、セリフを言うだろう、という風にプロットに合ったセリフやト書きをシナリオに書いていくわけです。
プロットが重要なのは人生の物語においても同じです。なぜなら、それはその人が瞬間瞬間どのような選択をして、その選択の結果にどのように向き合うかということの「基準」となるものだからです。
カール・ロジャーズという心理学者が提唱するカウンセリングの理論では、プロットの「悲劇か喜劇か」「どんなストーリーか」という部分のことを「内的照合枠」と呼んでいます。「内的照合枠」はカメラのフィルターのようなもので、それを通して見ると世界はその人のフィルターに合わせた見え方をします。また、プロットの「その物語のどんな主人公なのか」という部分を「自己概念」(自己構造)と呼びます。
例えばAさんが「世界とは勝つか負けるか、生きるか死ぬか、正しいか間違っているかといったようになっており、弱肉強食で非常に厳しいものだ」と捉えている(内的照合枠)としましょう。そして、Aさんが自分を「その世界で自分は生き延びるためにいつも勝者で正しくあるべきだ」と捉えている(自己概念)としましょう。Aさんはイチゴ味のチョコレートが大好きですが、誰かがAさんに対して「チョコレートはやっぱりカカオのチョコレートが一番だよね」と言ったとして、Aさんはイチゴ味のチョコレートが好きであることを批判されたと受け取ることでしょう。そして相手に対してものすごい勢いで反論することになるでしょう。
チョコレートの味の好みを批判されたと感じたAさんは、弱肉強食の勝ちか負けかしかないサバイバルな世界に住んでいるので、自分がイチゴ味のチョコレートが好きと言っている時点で、心のどこかにそれ以外の味のチョコレートが好きな人を批判する構えがあります。世界は勝つか負けるかという厳しいものだから、自分も負けないように強くいる必要があるし、正しいか間違っているかであれば自分はいつでも正しくあるべきだし、そのためには自分がいいと思うものはみんなもいいと思うべきだ、と思っているベースがあるのです。相手に自分を本当に批判する意図があるかどうかは関係がなく、「内的照合枠」のフィルターと「自己概念」によってそう見えてしまうのです。
逆に、Bさんは「世界とはわりとあいまいで、多種多様な個性に満ち溢れており、とても気前が良く優しいものだ」と捉えていて、自分を「自分は世界に受け入れられていて、自分も世界に対して友好的である」と捉えているとしましょう。誰かに「チョコレートはやっぱりカカオのチョコレートが一番だよね」と言われたBさんは、「そうね、カカオのチョコレートが好きな人もいるよね、いろんな人がいて面白い」と思うでしょう。お互いになぜその味が好きかを聞き合って、その良さを試して実感してみようとするでしょう。
違いが面白いと感じたBさんは、たとえ相手に批判の意図があっても、「内的照合枠」のフィルターのせいでそれを受け取るのが難しいのです。そのうえBさんの世界は誰かが誰かを批判することも受け入れられる世界なので、もし批判してもされても友好的でいられる世界に住んでいるため、批判すら単なる意見の違いとしか受け取れません。意見が違うということを悪いことだと思っていないし、むしろ世界を楽しむために違いが存在していると思っているベースがあるのです。違いを面白がり、違いを楽しんでいるので、そのためにBさんの世界は広がっていくのです。
このように「誰かと関わって好きなチョコレートの味の話をして意見が分かれる」ようなことを、「経験」と呼びます。
同じ「経験」を受けて批判されたと感じるAさんよりも面白いと感じるBさんのほうが心理的な健康を保っていると感じませんか? だって何気なく自分の好みを言っただけで「えっ!?それは絶対おかしいよ」と言ってくるAさんよりも、「えー、そうなんだ!面白ーい!今度一緒に食べ比べしてみようよ」と言ってくるBさんのほうが安心して話せて、一緒にいたいと感じるし、楽しくて付き合いやすいですから。
Bさんのように「世界と自分の捉え方が現実通りそのまま受け取れている」か、もしくはそのまま受け入れられなくても「否定」したり「無視」したりしていないということが心の健康に寄与します。逆に言えば、自分の基準枠の中で「理想の自分」と「経験される自分(人と関わることで感じる自分)」の乖離が大きいと、人は精神を病んだり心身症を発症したりするようです。
ロジャーズのカウンセリングでは、すぐに批判されたと感じてしまうAさんが、「たまには負けても大丈夫」「必ず正しくなくてもいい」「ほかの味のチョコレートが好きな人がいてもいい」というように、少し緩んで生きやすくなることを目指します。その人の内的照合枠と自己概念を根本から変えてしまう必要はありません。経験された自分を受け入れられずに苦しむAさんが、理想に沿わない現実の経験された自分に優しくなれるように手伝いをするのです。ロジャーズは「最適な心理適応とは、自己と経験の完全な一致の状態、ないしは経験に対して完全に開かれている状態をいうのである」と言っています。
経験とはつまり、現実のことをいいます。現実とは、When(いつ)、Where(どこ)、Who(誰)、How many/long/much (どのくらい;数字で答えられる)という問いの答えのことです。その人の思い込みや理想といった主観が入ることのない、過去に起きた事実のことです(詳しくは過去のブログ「わたしたちは「どうせ」をこえられるのか」をお読みください)。
『ワーク』という画期的なメソッドを公開し、人々に悩みから解放される方法を伝授しているバイロン・ケイティさんも「現実と闘うと負けます、毎回100%の確立で(When you argue with reality, you lose—but only 100% of the time.)」と言っています。『ワーク』は自分の中の「こうあるべき」という物語を自問することで、現実を受け入れて建設的に次にできることを考える助けをしてくれます。
何がどう画期的なのかメソッドに興味を持った方、『ワーク』及びバイロン・ケイティさんについて詳しくは、ケイティさんのホームページをご覧ください!
Reality is always kinder than the story we are believing about it.
Katieisms, from “The Work of Byron Katie – An Introduction”
無意識層
お芝居の世界ならシナリオは文字に書き起こされ、それを俳優が暗記して演技していきますが、人生の舞台では文字に書き起こされたシナリオはありません。記憶の中にあるものを出しているのではなく、どこかにあるプロットを使ってアドリブで演技することが求められるすべてぶっつけ本番の舞台です。人生のプロット、「内的照合枠」や「自己概念」はどこにあるのでしょうか。
「内的照合枠」も「自己概念」も「無意識層」にあります。なぜなら、わたしたちは自分が世界をどう捉えて自分をどう定義しているかということを、意識的に考えてそれに従っていちいち選択しているわけではないからです。意識することなく「内的照合枠」と「自己概念」に合った選択を瞬時に、いわば「アドリブ」で行っているのです。
ロジャーズは「自己概念」は幼少期の経験と他人からの評価に大きな影響を受けるといっています。うれしかった、誇らしかった、楽しかった、気持ちよかった経験はもちろんのことながら、トラウマとなったような怖かった、つらかった、寂しかった、痛かった、悲しかった経験は二度と経験したくないと思って当然ですし、ことさら大きく影響を受けることでしょう。
もう一人の心理学者のカールさんであるカール・ユングは、個人の経験から構成される無意識を「個人的無意識」と呼びました。なので、個人の経験から構成される「個人的無意識」の中に幼少期の経験と他人からの評価に影響を受けた「自己概念」があるといっていいでしょう。
この「無意識」を個人から広げてみると、ユングのいう「集団的無意識」も同じように過去の膨大な人類という集団の経験から構成されているものでしょう。だから、わたしたちはそうと知らずに、わたしたちが直接には知りようのない過去の出来事に影響を受けているということになります。例えば、わたしには日本人として他の国の人たちとは共有していない集団無意識や、そういう枠を超えた人類としての集団無意識の両方があると感じます。
ユングは、意識が自分の方向性に合わないものを排除し、無意識層に捨てる傾向があるために、捨てられたものがあふれてバランスが崩れて精神を病むと考えていました。そのため、ユングのカウンセリングでは夢判断など無意識層にあるものを明るみに出すことで、意識と無意識のバランスを整えて統合することを目指します。
一方ロジャーズは、自己概念に合わない経験にあった時、人はそれを自己概念に合うように湾曲して捉えたり否定したりすることで自分を守ろうとし、そのために自己概念(理想の自分)と経験(現実の自分)の乖離が大きくなり、乖離が大きくなると人は心を病んでしまうと考えていました。そのため、ロジャーズのカウンセリングでは、カウンセラーがクライアントの内的照合枠と自己概念を理解して寄り添い、クライアントのありのままの姿を受容することを通して、次第にクライアントもありのままの自己を受容するようになることを目指します。
このように経験された現実は、理想にそぐわなければ湾曲され、見過ごされ、無視され、無意識層に捨てられます。経験の中には自分の感情もあることでしょう。例えばネガティブな感情を抱くことをよしとしない世界に住んでいる強くなければならない人は、寂しかった気持ち、良心の呵責、小さな嘘、弱さ、などなどを無視して無意識層に捨ててしまいます。捨てられた経験は消えてなくなったかのように見えますが、それらは内から外からわたしたちにその存在を気付かせようと働きかけてきます。乖離が大きくなればなるほど、それは病となって声を上げ、精神や肉体に存在を示します。
社会も病む
集団の構成員である個人が病むとき、その集団も病むことでしょう。わたしたちの体のどこかが痛んだり炎症を起こしたりすると、「私」という存在全体が元気をなくして普段通りに活動ができなくなるように。
集団的無意識にも社会の思い込みや偏りが反映されることは容易に想像がつきます。Aさんが「自分はいつも正しくあるべき」と信じていたように、文化という名の無意識層の階層には「べき」がたくさん詰まっています。例えば「女は家庭を守るべき」「男は強くあるべき」など時代によって少しずつ変わってはいくものの、そういった「べき」は過去の大勢の人たちに支えられて受け継がれたために非常に強い力を持っており、今でもそれを頼りに生きている個人は「べき」は変わる「べき」ではないと感じます。しかし、たとえ何百年何千年続いた「べき」でも、それが現実と一致していなければ、その文化にしがみついていれば次第にバランスを崩して病んでいくでしょう。
もし、この集団的無意識に溜まった思い込みや偏りの力が強くなれば、人間が病んで治療ができなくなって死に至るように、社会も死に至ることがあるかもしれません。別の言い方をすれば、変わらざるを得ない時に変われない集団は滅びる運命にあるということでしょう。
では社会をよくするにはどうしたらよいのでしょうか。社会という集団の構成員であるわたしたち一人ひとりが、自分が疑問にも思わずに従っている思い込みや偏りに気づいて何らかの形で現実と一致するか、現実に対してオープンでいるか、とにかく現実と戦うことをやめることなのではないでしょうか。
しかし、自分が思い込みや偏りに従っていて、現実と乖離していると気づくのはとても難しく、現実と戦ってしまうのをやめるのは至難の業のように見えます。
現実と闘ってしまう理由
バイロン・ケイティが「現実と闘うと負ける」という通り、どんなに自分の理想に合わなくて無視して切り捨てても、現実は毎回100%勝ち、わたしたちは毎回100%負けるのです。
わたしたちは負けるとわかって戦いを挑んでいるのでしょうか。
おそらくそうではないと思われます。ただただシンプルに、わたしたちは自分たちが何をしているかわかっていないのだと思うのです。自分が現実と闘っているなど、夢にも思っていないのです。
わたしたちは日々、妥協したり、我慢したり、耐え抜いたり、合わせたり、諦めたりしているだけだと思っています。何なら、相手が悪い、世界が悪い、時代が悪い、努力が足りない、頭が悪いとすら思っているのです。だから相手を罰してみたり、世界を憂いてみたり、時代を恨んだり、さらに努力したりさせたり、勉強してみたり馬鹿にしたり、差別したり、喧嘩したり、戦争したり、駆け引きしたり、自分だけ損しないようにしたり、相手の足を引っ張ってみたり、脅したりして生きています。何とかコントロールして思い通りにしようとしているのです。実際コントロールできるものもあるからです。
水が高いところから低いところへ流れることはコントロールできませんが、その流れる場所を堤防を作ってコントロールしたり、その流れる量を水門やダムを作ってコントロールしたり、大勢の労働者と知恵の結晶である重機や建築技術を使って、コントロールしたものもたくさんあります。狩猟採取だけの時は偶然でしかなかった食糧の調達だって、農業や牧畜業や栽培漁業や養殖業でコントロールする方法を確立してきました。
だから、人間は自然に翻弄される無力な存在から努力や工夫によってコントロールする者となって力を持ったように感じてきました。
努力や工夫さえすれば、現実と闘うことができるような気がしているのかもしれません。現実と闘って勝てないのは努力や工夫が足りないからだ、自分がバカだからだ、政治が悪いからだ、時代のせいだと思っているのではないでしょうか。
現実とサイコパス
ポストコロナで強く感じるようになったことがあります。それは、意図的、作為的、恣意的、故意的な空気と、それにどう対処していいかわからなくなった「途方に暮れた」感です。もちろん今に始まったことではなく、ずっとあったけれど、ここまで顕著ではなかったと思うのです。
- 意図的とは、良い悪いどちらにせよ、はっきりした目的や狙いがあって、わざと物事を行うことです。
- 作為的とは、悪い企みや目的があって、わざと物事を行うことです。悪意を持って何かをする場合に使います。不自然であることが特徴です。
- 恣意的とは、その場の思い付きによって物事を行うことです。自分勝手な行動が原因で、物事が悪い結果になってしまった場合に使います。
- 故意的とは、特にはっきりした目的や理由はないものの、わざと物事を行うことです。
こうやって言葉の定義を比べてみると、特に作為的なものが当たり前のように行われることが増えたように思え、またそのことにショックを受けることがあります。
バレなければいい、しらを切りとおせればいい、負けを認めなければいい、嘘をつきとおせばいい、見えなければいい、黒く塗ってしまえばいい、ルールで決めてしまえばいい、やってしまえばこっちのもの、知らせなければいい、こっそりやればいい、誰かのせいにしてしまえ、死んだ後のことまで知らない、やりたい奴がやればいい、大声を出せば通る、怒鳴りつけてやればいい、正直にやると馬鹿を見る、ずるくても頭のいい奴が勝ちだ…
これらを平然と考えて行動に移しているとしたら、それはサイコパスでしょう。人口の1%といわれるサイコパスの脳には、共感にかかわるミラーニューロンがないのではなく、前頭前皮質に問題があるために、計画的に冷徹な心無い行動をしてしまうのだそうです。
情動にかかわる認知(=熱い認知)のために使用される<前頭前皮質>腹側システムの機能に乏しいが、理性的な認知(=冷たい認知)のための<前頭前皮質>背側システムは活発なまま
東洋経済ONLINE 「サイコパス」の脳内構造はこうなっている―ウソに長け、口がうまく、愛嬌たっぷりより
すべての人の前頭前皮質の背側システムにも悪魔の考えは浮かんでいるはずです。ただ、サイコパスではない人(人口の99%)の脳の中では前頭前皮質の腹側システムの天使がそれを引き留めるのです。悪魔と天使の会話が頭の中で繰り広げられるという漫画のようなシーンを思い浮かべてください。
悪魔:やっちまえよ、どうせバレないから大丈夫だよ。バレてもしらを切りとおせばいいんだから。あまりにも堂々と嘘をつかれると人は引き下がらざるを得ないんだ。
天使:そんなことしたら、相手が傷つくし、自分の信用だってなくなってしまうよ。されて嫌なことはするべきじゃない。お互いに対する信頼がなかったら騙し合うだけの世界になってしまうよ。
悪魔:そんなやわなことを言っているから欲しいものを手に入れられないでバカを見るんだ。
天使:欲しいものはそんな刹那的な満足でいいの? それで本当に幸せになれるの?
サイコパスだけが勝ち誇ったように人を見下して自信たっぷりに暮らしているのを見たら、多少そういうズルをしてもいいのではないかと思う人も出てくるでしょう。自分だけが損しているような気になる人もいるかもしれません。
良かれと思って意図的に嘘をついたり隠し事をしたりする人もいるでしょう。恣意的に保身に回って逃げたり知らんぷりをしたりごまかしたりして、自分以外の誰かが損をする結果を招くこともあるでしょう。損な役回りにやさぐれた気分になって、故意に適当に言い放った言葉で相手をいたずらに傷つけてしまうこともあるでしょう。
ちょっと待ってください。よく考えてみましょう。そもそもなぜ人は意図的、作為的、恣意的、故意的になるのでしょうか?
現実と闘うためではないでしょうか?
だって、もしも現実のままでよければ意図的、作為的、恣意的、故意的になる必要はありませんよね。
もしもわたしたちが、現実と闘わずにいられないサイコパスの仕掛けている「勝ち負け」「拝金主義」「優劣」の作為的なゲームに、絡めとられているだけだとしたら?
天使の声
大昔から人間社会には拝金主義的な傾向はありますが、最近はそういう拝金主義傾向がかえって際立たせるのか、人間性を重視しようという流れも同じくらいあることを特に強く感じるのはわたしだけでしょうか。拝金主義的、物質主義的な価値観が中心の世界観の中で、生きている意味を見出して自分の魂を救い出そうとしている人たちが、いつの時代にも少なからずいるということがむしろ浮き彫りになる気がするのです。
わたし自身も拝金主義的・物質主義的に偏りすぎる生活に疑問を抱くようになっていきました。
わたしの重要視したい人間性というのは、他人を蹴落としたり差別したり虐待したりすることと闘うことではありません。わたしが人間性というとき、自分の気持ちを大切にし、自分の体をいたわり、生きている時間を味わい、人間として生まれて生きていることに感動し、感謝し、それらをそばにいる誰かと共有する喜びを感じる時間を持つことを言います。そうであるなら、現実と意図的、作為的、恣意的、故意的になって闘う必要を感じないので、結果として他人を蹴落としたり差別したり虐待したり、そういう人と闘ったりそういう人を罰して自分の正当性を感じて安心する必要性すらなくなると直観的にわかるからです。
わたしは2017年に、勝ち負けや損得・拝金主義・物質主義・生産性重視の価値基準の世界から離脱しないとダメだという内なる声を聞きました。その声に従って、清水の舞台から飛び降りるような思いで最低限の経済活動を除いて経済活動をサイズダウンしました。それは清水の舞台というよりも、暗闇の空中ブランコでした。
真っ暗闇の中で空中ブランコにぶら下がって前後に揺れている中、飛んだ先に受け手がいるかどうかすらわからない暗い空中へ手を放して飛ばなければならない、そんな風に感じました。飛んでも飛ばなくてもいい結果を得るような気はしませんでした。でも今飛ばなければ飛んだ先に待っているはずの受け手のところへは行けなくなる…ブランコは次第に揺れる勢いを失っていき、暗闇の宙にとまったままになるでしょう。かといって、飛んで誰かが自分を受け止めてくれる保証はない…そんな中、飛びました。
勤めている会社を辞めるけれど、転職はしない。何をして生計を立てるか決めていない。ただ、未来が少しでも良くなるために自分にできそうなことだけをやる。モノがあふれてモノが売れない時代と何年も前から言いわれ続けている中、誰も本当には必要ではないものを皆が欲しがるように、「ニーズからウォンツへ」とマーケティングで苦労して煽り立て、持っていないことを不安にさせてまで商品やサービスを売りつけることに加担しない仕事をする。なぜなら、その相手は同時に自分自身でもあるから。
もし、これが世界のために闘うとか自己犠牲をするという発想のもとに聞こえていた内なる声であれば、おそらくわたしは飛ぶこともできなかっただろうし、今まで続けることも難しかったと思います。
この声は、わたし自身を何よりかけがえのない大切なものとして残りの人生を生きたい、という願いに対して聞こえたものでした。
低空飛行
わたしはかくして暗闇の中の空中ブランコを飛び、奇跡的に飛んだ先に受け手がいて、その差し出す手にしっかりと掴まれ、新たな旅を始めました。それは低空飛行生活と名付けたくなるような暮らしでした。人と会いに行くにも時間がかかってでも一番安い運賃の経路で行き、洋服ももらったものを大切に着て、安い八百屋に足を延ばし、本当に必要か欲しいか熟慮してモノを買うようになりました。こういう生き方を「ダウンシフト」と呼ぶようです(ダウンシフトについて詳しくはWikipediaで)。ダウンシフトという考え自体は2000年の初頭にはすでに出ていたもののようで、すでに四半世紀近くが経っています。また、こういう暮らしを選んでいる人を「プア充」と呼ぶそうです(プア充についてもWikipediaを参照してください)。プア充ですら2013年に流行った言葉で、10年以上経っています。わたしも空中ブランコを飛ぶ必要性は実際に飛んだ2017年よりも前の、2000年頃からずっと感じており、その方法を探していました。実際には方法ではなく勇気だけが必要だったのですが。
飛んで以来今までに、金銭的なピンチは何度もありましたが、そのたびに不思議なことにお金や仕事が舞い込んできて、何とか支払いしなければならない支払いを済ませ、人さまに迷惑をかけることなくやってくることができました。
やってみてわかったのは、豊かさというのは金銭やモノではもちろんなく、キープしたりためておけるような何かですらなく、ふと感じるものであるということでした。
ある日、飲み会をお金がないからと一次会で帰ろうとすると、仲間がみんなでお金を少しずつ出し合ってわたしを二次会に連れて行ってくれたことがありました。思いがけず仲間の優しさやわたしへの想いに触れることになって、感動したのを思い出します。
別の日には思い立って家から飛び出して、近所の河原を歩き、豊かに流れる川の水面や風に揺れる緑を感じながら、頭上に開けた空を感じる瞬間に「何にもいらない。すべてここにある。なんと満ち足りて豊かなことよ」と感じるようなことがありました。でも、次の日に同じ河原でその豊かさを感じるとは限らず、再現性もなく、むさぼることすらできない、ただ僥倖として受け取るだけのものでした。
低い場所を飛んでいるからこそ見える景色がたくさんありました。時間に追われ、長時間デスクにしがみついて働いていた高速高高度飛行の時にはその存在すら知らなかった豊かでいとおしい世界でした。
わたしたちは何を手放そうとしているのか
これまでわたしはいろんな仕事をしてきましたが、一番長くやっていたのがマニュアル制作という仕事です。高校を卒業後フリーターをしながら欧米諸国を旅行したあと、24歳で初めてマニュアル制作の会社に社員として就職しました。就職した直後にバブルが崩壊し、どんどん仕事が減っていきました。振り返ってみればバブル崩壊は日本だけの問題ではなかったと思っています。市場を奪い合っていたのだから、その時点ですでに、資本主義経済の自由競争という社会の在り方には無理があり、それを何十年もごまかしながら進んできただけなのだと思うのです。
わたしはマニュアル制作の世界で働いているうちに、残業が当たり前で徹夜もしょっちゅうあるような状況で身を粉にして働いているのに楽にも幸せにもならないし、社会に流れている「もっともっと」という価値観に矛盾や行き詰まりを感じ、社会の仕組みに疑問と不満を感じ始めました。でも、その社会の一員として生まれた以上、それからはみ出ることなど想像だにしなかったし、結局はその価値観の上に成り立ったシステムから恩恵を受けて生きていました。疑問を感じ不満に思う価値観で回る社会のシステムの中に生きる矛盾に悩み、脱サラしてカフェ経営をしてみたりしましたが、その時は別の方法で「勝ち組」になれないかと考えていただけだったので、お金に振り回されることからは逃れられませんでした。
最終的には前述のとおり思い切って空中ブランコを飛びましたが、最近断捨離やミニマリストという言葉を耳にするにつけ、同じように感じて物質主義的な世界から少しはみ出してみようという人たちが増えているように感じます。
ダウンシフトやプア充までいかなくても、断捨離やミニマリストというのもブランコのバーを手放したり、必要以上にモノを増やさないという生き方のひとつでしょう。
しかし、究極的にわたしたちがこの社会の構成員のひとりとして手放さなければならないものは、もしかしたら何千年という単位でわたしたちが空気のように当たり前だと思っていた「何か」ではなかろうかと思うのです。
それはもはやわたしたちの社会を支えることすらできなくなっていて、それに気が付き始めた人たちもいて、異口同音にそのことを人々に伝えようとし、自らも社会を支える新しいシステムを模索し始めているように思います。
薬も適量を超えて飲めば毒となるように、本来なら当たり前に社会を支え、構成員である一人ひとりに寄与するはずのものも、偏りが発生すれば害となります。
その当たり前のひとつが「お金」だと思います。本来は物々交換がその場でできない場合に、後からそれを持っていけば交換できることを証明するために発明されたものがお金です。
お金を手放すことはできるのか
例えばCさんが釣った魚が欲しいDさんはバナナをあげたいのですが、まだ実がなっていないので困っています。そこで、Dさんは今魚をもらう代わりに後でバナナがなった時にバナナを魚の分渡すことを保証することを考えます。その方法がバナナ引換券です。バナナ引換券を発行してCさんの魚をもらうことができるように交渉します。かくしてCさんがDさんを信用してこの引換券の価値を認めて、実際のバナナがなくてもバナナ引換券と魚を交換することができる仕組みができました。Cさんも同様に荒天で漁に出られない時にもバナナを魚交換引換券を発行することでもらうことができるようになりました。
この二者の間でだけ通用していた引換券を、あらゆる人との間で通用することを国が保証する仕組みがお金です。国が保証してくれるのだから、今魚と交換するバナナがなくてもお金という引換券と自分のバナナを交換しましょうというところから、お金という引換券は直接バナナだけを引き換えるのではなく、靴修理のEさんに魚を持っていかなくても引換券を渡すとEさんのサービスを受けられるというように、汎用性の高い引換券となりました。
魚もバナナも「モノ」ですが、お金は「概念」でしかありません。たとえお札やコインの形をしていたところで、概念です。
概念とは何でしょう。概念とは「ものごとの共通の特徴や性質を抽出して一般化した考え」のことです。
お金とは、お金に価値があると信じた人たちが支える概念なのです。これを持っていけばバナナに交換してもらえるという、信頼がその価値を保証しているだけなのです。その一般化した考えから逸脱すると、その人にとってお金は単なる紙切れや数字になってしまいます。お金の価値はそれを信じる人に支えられて存在するものなのです。
しかし、前述のとおり、適量を超えた薬のように、お金はわたしたちから人間性を失わせ、最悪の時にはお互いを殺しあうところまでわたしたちを駆り立てることがあります。
わたしたちはお金なしに関わって、お互いの存在をかけがえのないものと感じることはできるようにのでしょうか。
過去のブログ「新しい価値の創造~傾注」でも紹介したスーザン・ソンタグの『良心の領界』の序文の言葉が思い出されます。
この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。
In this world, businesses are dominant activities, and making money is a dominant standard. Maintain the philosophy of places to counter business or don’t care about business. If you want to be by yourself, you can be a power to counter the things that are weak and lack heart.
スーザン・ソンタグ『良心の領界』/Territory of Conscience by Susan Sontag
ここで考え直したいのは、そもそもバナナも魚も誰のものでもなかったということです。
これらは地球上に発生したひとつの命であって、バナナを採ったDさん、魚を釣ったCさんのものになったように思われるだけです。
靴を直すことのできるEさんはサービスを提供しています。直す技術と道具を持っていて、具体的なモノを相手にあげることはありません。
Dさんもバナナを採る技術や育てる方法を他の人より知っているだけなのかもしれません。Cさんも魚の取れる場所を知っていて、魚を釣る道具を上手に作れるというだけなのかもしれません。
だとすれば、CさんDさんだって物々交換でモノをやり取りしているようで、得意なことで他の人たちに貢献しているだけだと考えることも可能です。
魚を釣るのが下手な人に代わって魚を多めに釣ってシェアし、バナナを育てるのが下手な人に代わってたくさん育ててシェアし、助け合っているのであって、魚を持っているから売って儲けるのではないし、バナナを持っているから売って稼ぐのでもない。魚を自分の代わりに釣ってくれたからお礼をしたいけど今すぐバナナを渡せないので、忘れずに実がなった頃にあなたの分も育てておくからバナナを取りに来てねとDさんはメモを渡しただけ。
つまり、わたし達は本当は何も「所有」することなどできていないのではないかと思うのです。
さらに、お金を「持っている」という考えも単なる思い込みです。これは自分の得意なことでの他者への貢献に対するお返しの約束であり、見返りの期待です。お金はそれに価値があると信じる人が一人もいなければそれで何かをしてもらうことはできなくなってしまいます。
一方で、人が自分に対して実際にしてくれた優しさや思いやりの行為は、お金のように価値がなくなることはありませんし、現実なのだから闘うことはできません。闘っても100%負けます。
もし、「所有」という幻想をわたしたちが手放すことができれば、きっと思いやりがいつもそこにあったことに誰もが気付くことができるようになるでしょう。わたしたちは今はまだお金に振り回されていますが、お金自体に罪はありませんし、そのせいでわたしたち人間が残酷になっているのではなく、勘違いしているだけですぐにでも人間性を取り戻して、わたしたちの思いやりに満ちた世界を感じ取ることができるようになるでしょう。
そんな風に、わたしは考えています。
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