思い込みからの解放

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これまでこのブログで、人間の「出来事からパターンを読んで、次を予測する編集能力」の“いい面”と“悪い面”について何度か書いてきました。“いい面”としては、例えばそれらは科学的な進歩をわたしたち人類にもたらしてきました。古代エジプトではシリウスと日の出を観察して暦を作り、暦と川の氾濫の相関関係のパターンから最適な種まきの時期を知ることで繁栄しましたし、古代イタリアのアルキメデスはお風呂で浮力の法則を発見して王冠に純金か銀が混ざっているかを調べることができたと言われています。“悪い面”としては、正しく現実をとらえていない場合は思い込み(イラショナルビリーフ)となり、失敗を繰り返したり精神を病む原因となってしまいます。

日常的にはわたし達は他者とのやり取りにもこの編集能力を応用しています。例えば、こういう表情はこういう感情を表しているとか、あの人はこういう性格なのでこんなことを言うと喜ぶだろうなどです。この仮説が合っている場合は人間関係がスムーズにいく一方、間違っている場合は予測した結果を得ることができず、上手な人付き合いはできません。

ときに人は予測した結果を得られないのに、その考えに固執することがあります。この場合、結果の方が間違っていて予測の根拠となる仮説や根拠は正しいと思っているのか、それとも自動的に同じ反応をしてしまうのか、どういう心や脳の働きが働いているのでしょうか。

前者は前回のブログ「カラダとココロのカンケイ」で書いた、わたしの父がマボロシ病院を探し回ったときのような「作話」をしている状態に近いものだと思います。結論ありきで、持論の正しさを証明するもの結果を求めて何度でも試してしまう状態です。後者はきっかけとなるショッキングな出来事に対する正しい事実把握ができないことが、その後の似た事象に対する正しい事実把握を阻害している可能性があるように思います。

PTSDのフラッシュバック

命を脅かすような天災や事故の経験、暴力など人権を否定されるような出来事に遭ったら、誰でも傷つき打ちのめされます。急性ストレス障害(ショックな出来事から3日以上1カ月以内症状があるが自然回復)を発症し、フラッシュバックと呼ばれる突然鮮明にショックな出来事を思い出す症状のため、日常生活に支障が出ることが知られています。多くの人は急性ストレス障害になっても心のレジリエンスを発揮して自然に回復していくようですが、一方で回復せずにPTSD(1ヶ月以上症状が持続)となる人もいるようです。

フラッシュバックは急性ストレス障害やPTSD(心的外傷後ストレス障害)に特徴的な再体験症状といわれています。フラッシュバックの再体験は前回のブログで書いたとおり、現実か想像かの区別なくアドレナリンなどのホルモンが分泌され、発汗や筋肉の緊張などの反応が体に実際出るわけですから、いくら目の前の現実とは違う頭の中での出来事だとしても、本人にとっては非常につらいものでしょう。

なぜフラッシュバックが起きるのでしょうか。これは、記憶の収納方法と関連があるようです。

記憶のプロセスは以下のようになっていると言われています(詳しくは以前のブログ「記憶と「私」」を読んでみてください)。

  1. 出来事
  2. 刺激(認識)
  3. 符号化(分類)
  4. インプット
  5. 保持
  6. 出来事
  7. 刺激(想起)
  8. 検索
  9. アウトプット

1~5までが「覚える」、6~9が「思い出す」になります。

記憶は1の出来事を認識したあとそれを分類して符号化し、図書館の本棚のようにそのグルーピングに合った場所に格納して保持しますが、保持しているだけでは記憶として存在することは証明できません。その記憶を持っていることを想起させるような6の出来事に刺激を受け、符号をもとに検索されてアウトプットされて完成するのだそうです。

Dr.ブラウン(Braun)の説によると、トラウマとなった出来事の記憶を収納するときには、自分が何をしていたとき(Behavior)に何が起きて、どういう感情が湧いて(Affect – emotion)、どんな身体反応があって(Sensation – body)、それはどういうことだったのだ(knowledge)、というひとつのまとまりとしてショックな出来事を記憶するけれど、起きたことB、感じたことA、痛みSなどが大き過ぎて処理範囲を超えると、「あれはどういうことだったのだ」という結論Kを持つことができないまま、ばらばらに保持されるといいます(BASKモデル)。

例えば、ある人が階段から転げ落ちたとしましょう。トラウマから回復する人は、多少時間がかかっても、「階段を転げ落ちた(B)とき、すごくびっくりしたし怖かった(A)し、あちこち痛かった(S)けど、あれはあの時他のことに気を取られてよそ見していて段を踏み外したから落ちちゃったのがいけなかったんだ(K)」と一連の出来事を処理していきます。

こんな風に記憶がひとつのまとまりとして理解できる形で脳にしまわれていれば、「今度階段を降りるときにはよそ見をしないで降りよう」と対策を立てて、階段以外では警戒を解くことができます。普段は忘れていて、「階段を見たときだけちょっと注意して降りる」ということができるようになります。

でも、何が起きたのか理解できなかったり、ショックが非常に大きかったり、身体的な痛みなどが強かったりして、言語化できず不条理としか感じられない場合は、その出来事の意味を持つことが不可能になります。対策に繋がるものも浮かばず、何に警戒すればいいかわからないためにむやみやたらに警戒するしかなくなってしまいます。警戒担当の脳の部位は危険回避のために落ちる可能性のある段あるいは高い場所すべてにおいて刺激を受け、記憶を鮮明な形で再現(フラッシュバック)するという見解です。

フラッシュバックが起これば起こるほどホラー映画を見たとき同様にその都度ホルモンは出るわけで、警戒は強化されるでしょう。行動心理学的にいうところの「オペラント条件づけ」(詳細はWikipediaで)が起きている状態です。

事実は人を解放する

Then you will know the truth, and the truth will set you free.
また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。

ヨハネ福音書8章32 / John 8:32

PTSDの治療にEMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作と再処理法)というものがあるそうです。この療法が今ほど認められる以前は、持続エクスポージャー法といって、トラウマに少しずつでも向き合い続けて「大丈夫だ」という経験を積むことが行われてきました。EMDRはトラウマに向き合うときに目をキョロキョロと動かすというものです。眼球運動をすることで意識を現在に繋ぎとめるので、フラッシュバックの反応が軽減され、当時の他の状況の記憶にも気が付いたりして、どういうことだったのだと結論や意味づけができるようになっていくようです。

ショックによって受け入れきれなかった出来事を自分の物語として受け入れることができるようになると、PTSD反応は収まるということでしょう。

また、「作話」をしないでいられるときのわたしの父は、びっくりするほど自己分析ができており、記憶力が低下していることを含めた老いた自分の状態を素直に受け入れて穏やかです。わたしたちの間に交わされる会話の認識にズレはなく、忘れてしまったことはそれとして流れていきます。作話をしていたころの父は、もう一人暮らしができないという事実を受け入れないために、ない記憶を埋めようとしていたのではないかと思っています。

6月に施設に入ってから3ヶ月が経ち、何かを必死に証明する必要がなくなったせいか、不本意に施設に入れられてしまったことを恨んでいるようではありますが、「なんでもやってもらって楽だし、不満があるわけではない」と現状を受け入れている風でもあります。ただ、「自由がない感じがする」のだそうです。

物語を生きる

話がそれましたが、人間が「物語」を生きているということは、心理学の療法の一つである交流分析の「人生脚本」という理論や、心理学者河合隼雄さんの「心理療法というのは,来談された人が自分にふさわしい物語をつくりあげていくのを援助する仕事だ」という言葉に表現されるとおりではないかと思います。

「こんなことが自分の身に起きるはずがない」「こんなことは到底受け入れがたい」「すべてなかったことになったらいいのに」「こんな人生を送るはずだったのに」

PTSDのショックな出来事を受け入れるプロセスを見ても、わたしの父の自由の象徴であった自宅での自立した暮らしを諦めるプロセスを見ても、その苦しみは理想の物語に生きることを手放して、今ある目の前の事実を受け入れることで解消されていっているように見えます。

しかし、事実から人を遠ざけ苦しみを生み出す「悪者」のように見える「思い込み」の役割は、受け入れがたい事実から必死に自分を守ろうとしている働きなのだろうと思います。この働きはかえってわたしたちを自由から遠ざけてしまうのですが、その意図や動機に悪いものは感じられません。

実際にその人を安心させ、心に平和をもたらすのは事実ではあるものの、それを受け入れていくプロセスはなるべく優しいものであってほしいと思います。間違った努力をしたことを責めることなく。

『事実はなぜ人の意見を変えられないのか~説得力と影響力の科学』(ターリ・シャーロット著・白揚社、感想ブログはこちら)によれば、ただ相手の間違いを正す目的で事実をいくら突き付けても、それは相手を自由にするどころか追い詰めて頑なにしまいます。

EMDRもエクスポージャー法も、まずは治療者とクライアントの間に信頼関係を築くことが重要とされていますし、前出の本にもシャーロット氏は「意見の食い違いよりも共通点に注目することで、変化は訪れるのである」言っています。

人はその反応や意見や態度を間違っていると正されるよりも、無理からぬことと理解されて初めて、勇気をもって事実を見つめることができるのかもしれません。

もしも、一人で自分の予測した結果を得られない状況を変えたいと少しでも思ったときには、例えば三日坊主の自分を変えたいならば、自分のそうでしかありようのなかったことを無理からぬと理解して受け止めることから始めるのがよいかもしれません。たいていは自分を責めてしまうものですから。

新しい物語を紡いでいく心の準備は、優しい見守りの気持ちによって育まれるものなのかもしれません。


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