自己啓発と自己研鑽

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現在WE GiRLsCANの勉強会はストップしていますが、なぜ「セミナー」ではなく「勉強会」なのかということを説明します。

グルと弟子と共依存

人生をより良くしたいと考え自己研鑽する人々が頼る自己啓発という世界には、「グル」とか「先生」とか「指導者」に頼るという方法が多く存在します。誰かに教えてもらいたいと思うのは、今まで生きてきた方法ではうまくいかず、あれこれ試したけれど自分だけの力では自分を変えようにもうまくいかないと感じたからでしょう。

わたしは料理や英語や投資やソフトウェアの使い方から、子どもを育てたことがないのに子育てについてまでどうしたらいいか教えてほしいと言われることがよくあります。悩み事を相談されることや秘密を打ち明けられることもよくあります。「私はこう!」というのが比較的はっきりしているため、自信に満ちているように見えるからでしょうか。

そう、ここに、わたしの共依存のタネがありました。

過去のわたしは必要とされることを必要とし、長い間共依存の一翼を担っていました。わたしが自分に依存してきた人に依存していた理由は、必要とされることそのものではありませんでした。もし、必要とされることに喜びを見出していただけなら、一度手助けをしたらそれでその関係はおしまいで、解散です。でも、わたしには自分がその人と「一緒にいる理由」が必要だったのだと思います。必要がなくなれば一緒にいることができないと、無理にでも相手の問題を見つけて助け続けるという共依存のスパイラルにいました。

おそらく、共依存傾向のない人には、他人の「教えて」とか「助けて」というお願いが耳に入っても脳のある部分には届くことがなく、自動的に「教えるほどのものでもないし」とか「私が助けてほしいくらいよ」と答えて終わっているようなことなのだと、最近はわかるようになってきました。

かつてわたしの恋愛遍歴を見て「道場」と揶揄した人がいましたが、本当にいい得て妙でした。暫くそのあとも自虐的に「道場」と自嘲しながら続けていた共依存的恋愛でしたが、モラハラを受けたことを境に道場は閉めてしまいました。

人の役に立ちたい

とはいえ、どんな人だって多少は人の役に立ちたいし、誰かに喜んでもらえたらこちらも嬉しいというのは当たり前の人間のあり方だと思います。

だから、必要とされることを喜ぶこと自体は悪いことではないと思っています。本当に、「お役に立てて光栄です」という言葉が表すのはその言葉の意味通り、人の役に立てるということの尊さありがたさを表していると思うのです。

会いたいから会う

大人になると、用がないのに友だちと会うのが悪いような気がして「お土産渡すから」とか「おいしいものを食べに行きましょう」とか、何らかの理由を考えて会うようになる気がします。

なぜそう思うかというと、子どものころは会ってから「何しようか」と考えることがあったからです。用事なんてひとつもなく、会いたくて会い、遊びたい、何か一緒に楽しいことをしたいという動機だけで会っていました。会うことそのものが楽しくてうれしいなんて、なんて素敵な関係だったのでしょうか。

煩わしくいとおしい

今考えてみると、誰かと一緒にいる理由として必要とされることを必要とする、とはなんと悲しい在り方でしょうか。

その人と一緒にいることが純粋に楽しく、嬉しいということがないというのではなく、誰かといることを煩わしいと思ってしまう自分がいたのだと思います。特に、親との関係はそうでした。

マイペースで自立心が強く責任感が強い傾向のあるわたしは、頼られるのが好きなくせに、逆に誰かに頼るのが苦手です。相手のやり方が気に入らなかったり、ペースが合わなかったりするからです。

わたしといることを逆もまた然りで他人は煩わしいと思っていると思い込んでいたような気がします。わたしのような偏屈でめんどくさい人間には居場所がないと思い込んでいたのかもしれません。

一方で、わたしは相手を煩わしいと思う瞬間があっても、相手を思う気持ちがないわけではありません。しょっちゅう「どうしているかな?」と考えたり、相手のことを思って買い物したり、見ている景色を見せたいと思ったりしているのです。

なのに、そこは相手もまた然りだとは思わなかったのです。おそらく、わたし自身のそういう消極的な相手への想いというものを評価していなかったからだろうと今では思います。

そんな経緯があって、必要とされることにしがみつかない、でも少しは人の役に立つ方法があるとしたら、何だろう?という風に考えるようになったのです。自己犠牲や共依存が発生しない仕組みはないかと。

「よりよく生きる」とは何か

「よりよく」という表現はあいまいな言葉です。何を何と比べてどのくらいどのように変化したら「よりよい」ということになるのでしょうか。

現状を理想と比べて、理想に近付いたらよりよくなったとする、という理解でいいでしょうか。

その場合に、過去や現状が嫌だからそれをする(しない)のか、理想が素敵だからそれを目指すのか、という違いはとても大きなものだと実体験として思うのです。

わたしにはずっと理想がひとつありました。会社員として働いていた時や飲食店を経営していた時に、天気が良い日にその天気を楽しみたかったし、生活を丁寧にしたかったのです。生活のために働いているのに、働くために生活していることの矛盾を何とかしたかったのです。

いやだいやだ何とかしたいと思って働いていた時より、最低限しか働かないで天気を楽しみ生活を丁寧にしている今は、収入が少なくてもとても心が豊かで幸せです。幸せでいる自分に気がつく暇がある、といった方がいいかもしれません。

自己研鑽には終りがない

どんな理想を持っているかは人それぞれです。どんな現状を生きているかも人それぞれです。

思うに、自分をバージョンアップすることに終わりはありません。知らないことを知ったら、自分が知らないことがまだまだあるということを知るからです。

これまで自己啓発本を何冊も読み、いくつかのセミナーやワークショップに参加してきました。宗教、哲学、占い、スピリチャル、心理学、脳科学、ありとあらゆる「よりよい人生」を生きるための術や考え方について、自分に合ったものを探してきました。

決してどれか一つだけがよかったというものはなく、結局勉強したり試したりしたすべての総合がわたしに合った方法で、新たに勉強すればそのぶんまた形が変化していくようです。有名な「グル」や「先生」の著作に学ぶことはもちろん、むしろ身近な友人知人家族から学ぶことが多くあり、痛い経験から学ぶこともあります。

わたしの知識や経験が誰かの役に立つように、わたしの話を聞きに来た人たちからもわたしはたくさんのことを学びました。だから、教える人と教えられる人、与える人と与えらえれる人、という関係は本当は常にクルクル逆転しながらあるのだと思うわけです。

参加してくださる人がいるなら、その方にわたしも教えてもらいたいと思っているからこそ、同志として教え合い学び合う場を持てたらいいなと思って「勉強会」としています。リクエストがあればオンラインで再開します。ツールは一般的なのでZoomになるかと思います。

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