コロナ禍に思うことがたくさんあります。
今朝突然啓示のように「Symbiosis」という言葉が思い浮かび、わたしの問いに対するひとつの答をもらいました。
予定外の更新をしたくなりました。
Symbiosisは「共生およびその関係」のことです。
共生するために、近くにいてはお互いを破滅させてしまう関係もあります。想い合うことしかできない関係のことです。
「きれいごと星人」できれいごとしか言わないといわれることもあるわたしですが、これもひとつのきれいごとなのかもしれません。
例えば、わたしは争いが極端に嫌いで、その裏側には負けず嫌いが潜んでいるのだと思います。
争う人がものすごくアグレッシブに自己主張するのを見るのが好きではなく、またパッシブアグレッシブといわれる相手の罪悪感などを使って強烈に自己主張するのを見るのもつらくなります。
わたしは、何とかスマートに美しく自己主張しつつお互いの納得できる着地点をクリエイトしていける道はないのかと考えるタイプです。
でも、残念ながらアグレッシブな人やパッシブアグレッシブな人とはどうしても相容れません。
ダイバーシティやインクルーシブで起きる矛盾で書いたように、このジレンマたるや悩ましい限りです。
わたしは初めから1ミリたりとも譲る気もなく第三の選択肢もあり得ないと考えているようなタイプの人には100%譲歩してしまいます。相手は戦う気満々なのですが、わたしは戦う気が全くないからです。それでモラハラの共依存関係を築いてしまったのだと思っています。
負けず嫌いだから、たとえ自分が勝っても、相手の気持ちを思うと手放しで喜べないことを知っています。
わたしは負けたら悔しいので相手をいつまでも恨みます。
だから、勝ったとしてもずっと恨まれることを知っています。
そして、わたしは主張しても戦うことなく、最終的には譲歩して相手を恨んで終わってしまうのです。
でも、わたしは恨みを抱えて生きることの辛さも知っています。だから、そういう人と一緒にいることはできません。
恨んでもそのことを恨んでいるだけで、その人を恨んでいるわけではないのですが、その人と一緒に居続ける限り恨みは増えてしまいます。
だから、それ以上恨まないために離れる決断をします。
それは、わたしにとっては「愛情表現」のひとつです。
そういう形で相手の存在を認めているつもりなのです。
遠くから相手の幸せを祈るということが、わたしにできることだと判断するからです。
相手の求めることをしてあげるだけが愛情ではありませんよね。
こういう消極的な愛情表現をする共生関係があってもいいのかなと思います。
WE GiRLs CANの活動が地味で、目立った効果もないことに焦りを感じることもあります。なかなか賛同して仲間になって一緒に考えてくれる人が見つからないことにしょんぼりすることもあります。自分からどこかに出かけていく必要があるのかな?とか、もっと宣伝広告費などをかけたほうがいいのかな?とか考えるのですが、必ず「地味で地道」にこそ力がある、というところに引き戻されます。
周りがどんな大波でも、じっとこらえて同じことを違う切り口で表現し続けるのがわたしのスタイルで、「消極的」な「遠くから想っている」活動もいいんだなと思いました。
まず真っ先に自分をインクルードする、というSymbiosisを考えた朝でした。