今回は、前回のブログ「「傾聴する」ということ」で予告した自我と自己の違いについて書きたいと思います。
ユングの「自我」と「自己」
まずは、カール・グスタフ・ユングの「自我」と「自己」について簡単に説明します。
ユングは、「自我」とは「“私とは○○である”と認識されている部分」の「自己」であり、「自己」とは「自我」を包含している全体であると言います。
言い換えると、人間は「自己」の一部である「自我」を「私」として認識しているというわけです。認識されている部分は「意識(=自我)」認識されていない部分は「無意識」です。
これはジーグムント・フロイトの心の捉え方が、それぞれ別人格のようなイド・自我・超自我の「対立と調整」というモデルなのに対して、ユングの心の捉え方は、「自己」の中に「“これが私だ”と思っている自分」と「未知の自分」がいるという、「同一で地続き」なモデルだと理解できると思います(「ユング心理学の世界へようこそ」というブログにユングとフロイトの心の図あり)。
ユングは、人類は共通したイメージを持っていると考えました。例えばグレートマザーという「慈しみ、包み込む母親像」を人類が共通して持っていること等に着目しました。あなたがもし自分の母親が母親らしくないと思うならば、それはあなたがあらかじめ「母親とはこうあるべきもの」というイメージを持っているからというわけです。ユングはこういう人類共通のイメージは教えられたものではなく、「集合的無意識」というものがあって、そこから来るのだとしました。
そして、それはグレートマザーのような基本的なものから、その時代共通の、その社会共通の、その家族共通の、各無意識が存在しているという無意識のモデルを想定しました。
集合的無意識「昭和のチップ」
集合的無意識の「世代共通」な例として、「昭和のチップ」という話をしたいと思います。
わたしは女装パフォーマーのブルボンヌさん(公式プロフィール)が配信している「ジョソラジ」(YouTubeチャンネル)が大好きで、毎回欠かさず聞いているのですが、その中でゲストのフリーアナウンサーの「モッチー」さんこと望月理恵さん(公式プロフィール)がおっしゃっていた「昭和のチップが埋め込まれている」という言葉を非常に印象深く聞きました。これはユングのいう「集合無意識」のひとつだと思います。
「昭和のチップ」について調べてみると、おそらく言い出しっぺと見られるラジオDJの「レモンさん」こと山本シュウさん(公式ページ)が「昭和のチップ」を具体的に言い表していました。山本さんによると、昭和チップとは、ICチップのように昭和初期の親に育てられると、昭和の物の考え方(社会通念)が埋め込まれていると言います(Presidentオンライン2012年の記事)。
望月さんは、離婚してみると一人が楽で楽しいということがわかり、頑張ればできてしまうけれど自分は結婚には向いていなかったなと感じたのだそうです。離婚されて便秘が治ったということが象徴するほどに頑張ったのは、自分自身の中に「みんなにいい子と思われたい」という気持ちがあるからとおっしゃっていました(その回のYouTubeアーカイブ)。
「いい子でいたい」とは
比べるものでもないですが、望月さんより年上のわたしは親の世代もより昭和初期(父がひとケタ)なので、より強烈な「昭和の“女”のチップ」が埋め込まれている気がします。でも、たまたまわたしは小学生のころに自分がレズビアンで「女」の規格外であることに気がついて、それをさっさと自分らしさとして受け入れて自己認識してしまったので、同世代に比べて「みんなにいい子と思われたい」という気持ちに従うポイント、例えば男の子にモテるために「可愛い女の子でいたい」というようなポイントがありませんでした。思春期はみんなが憧れた「聖子ちゃん」みたいに可愛くなりたいとか、やり過ぎて「かわい子ぶりっこ」と攻撃されることもなく、みんなに怖がられた長いスカートのガンを飛ばす「つっぱり」にもならず、みんなが一目置く勉強のできる子というわけでもなく、「なんか変わった人」という特別席にいました。
ところで、「みんな」とはいったい誰でしょうか。
これは「自分が所属していると思っているグループ」のことだと思います。「罪悪感の用法」で書いたように、わたしたちは自分が所属しているグループの人たちと価値観が合わないということを罪悪として感じてしまう傾向があると思っています。だから、所属しているグループの価値観を自分の価値観と同期させることが自分が自分でいるために必要なことのように感じ、多少違和感があったとしても頑張るのだと思います。
価値観を所属グループと合わせることは生き延びるために必要なことでもあります。一人で生きていくことが難しいと感じる場合は属するグループの中で助け合うことになります。「みんな」が大切だと思っていることを自分も大切だと思い、そのために自分は何らかの貢献をしているという感覚は、自分がみんなの役に立っている安心感につながるからです。
だから、「みんなにいい子と思われたい」というのは、わたしたちが特定のグループに価値を見出し、そこに属することを望み、その中で自分の価値を認めてもらいたいという心の働きの現れなのだと思います。
「みんな」の別名を「所属グループ」、そのグループ内で共有されている価値観を「集合的無意識」と呼ぶことも可能だと思います。
昭和というグループの集合的無意識は「昭和のチップ」ですね。
「昭和のチップ」に書かれた「女」プログラム
このプログラムは時代が違っていればいいように働いた面もあると思います。
世界中で女性の地位が向上し、#MeToo運動や#Time’sUp運動などに代表される沈黙をやめた女性たちの内面的な変化によって、今はプログラムが見せる面は悪いものばかりに感じられます。
昭和という時代は鎖国を開いて近代化していった明治の日本のグローバル化の始まりに根をもって育ったものです。侵略されて植民地とされるか侵攻して宗主国となるかは日本人としてのアイデンティティの危機でもあり、明治から盛り上がっていった富国強兵の考えや武力による外交は時代の必然だったのでしょう。世界中が力による外交をやって殺し合っていた時代だったから、「男社会」が合っていたし、強いことが望まれていたのだと思います。たとえ機械化が進んでいても、その機械はまだ重く大きいものだったから、女性の筋肉ではまだ動かせるものではなかったということだとも思います。
屈強な男の人たちですら恐怖を隠しながら命を懸けて戦ったり、歯を食いしばって肉体労働を長時間行わなければならなかった時代には、女性は男性をなだめておだてて働いてもらい、苦労を一緒に耐える他なかったのかもしれません。母親たちは兵隊にとられていつかお国のために死んでしまうかもしれない男の子をつい甘やかしてしまったのかもしれません。そうすることがそのグループ(時代や国家や村や家族)の中で生き延びる方法のひとつであり、アイデンティティの拠り所のひとつでもあったのだと思います。
だから、今のわたしたちから見るとまるで「男尊女卑」としか見えないものも、女性たち自ら「男尊女卑」に進んで加担して忖度して甘やかして許してしまっているように見えるものも、その時の必然であったろうと思うのです。
バージョンアップ
しかし、時代は変わりました。パソコンの前に座ってする仕事がほとんどになりました。飛行機を飛ばすにもメカではなくプログラミングです。工作機械という機械を作るための機械ができました。インターネットが発達し、コロナ禍でリモート化も進んでノートパソコンひとつでどこでも仕事ができるようになりました。性別が制約を与えることもなくなってきました。トランスジェンダーがオリンピックに出場したり、性別というもの自体が問われていく時代も始まっているように思います。さらに、この先は肉体労働だけでなく頭脳労働も含め、労働というものは機械とAIがやってくれるようになるでしょう。わたしたちは弁護士や医者も不要になる時代を予想しているそうです。そうなればいつか「私」が「何者か」であること、つまりアイデンティティのひとつである職業がなくなるかもしれません。性別や職業などアイデンティティのベースが変わるならば、個人のありようは古いチップのままでは想像できないほど大きく変わっていくでしょう。
古いパソコンをいつまでも使っていることができなくなるように、昭和のチップが載った個人は時代から取り残されていこうとしています。今はまだ人口比率で昭和のチップを使っている人が多く「みんな」と共有する価値が通用しているとしても、レモンさんがおっしゃるように、バージョンアップができるならどんどんアップデートしていく必要があると思います。人数は多くても一人ひとりの健康寿命を考えれば活動のエネルギー量は減っていくからです。そろばんが計算機になり、計算機がパソコンになり、パソコンがAIになっていくのですから。
では、バージョンアップはどのようにして可能になるのでしょうか。
カテゴリーと階層
「集合的無意識」にはカテゴリーがあり、カテゴリーには階層があります。カテゴリーの階層はより局所的なものから普遍性の高いものへとつながっていっています。
例えば、わたしは「多摩市民」で「東京都民」で「関東人」で「日本人」で「アジア人」で「モンゴロイド」で「人類」です。小さなエリアから大きなエリアに階層的に含まれていることがわかるでしょうか。そのエリアに含まれる同じアイデンティティを持った人の人数も増えていきます。
普遍性の高い方へ意識を向けると、普遍性の低いカテゴリーで起きる葛藤はどうでもよくなることがあります。例えば今いがみ合っている国の人たちも宇宙人に攻め込まれたら、人種も国籍も関係なく「地球人」となって力を合わせるかもしれません。
わたしたちが、あるカテゴリーによっては分断され、別のカテゴリーでは統合され、共有する点があるだけで親近感を覚えるというとてもいい例がYouTubeにありますので興味があればご覧ください。元はデンマークのテレビ局が作ったもので、「All That We Share」という動画です。Kuriki Indianaさんが日本語字幕をつけてくれたものがあったのでそちらへのリンクもつけておきます。
集合的無意識の、昭和のチップのようなものに苦しんだり他者と葛藤が起きることがあるとすれば、それは集合的無意識のカテゴリーが普遍性の低いものだからだろうと思うのです。しかも、「みんな」という「グループ」の一員である、あるいは「みんな」とは違うという認識は客観的であるように見えて境界線のはっきりしない「無意識」という領域の「概念」でしかないということになります。
わたしは「昭和のチップ」のような普遍性の低い集合的無意識のカテゴリーは「自我」の集合体で、多分に個々人の「思い込み」を吸収してできている「社会通念」なのではないかと思うのです。まったく新しい個人の思い込みをより多くの人たちと共有すれば、古いチップである社会通念はバージョンアップし、新しいチップが次の世代に埋め込まれていくと思います。コロナ以前にはリモートで仕事をしてZoomで会議をするようになると誰も思わなかったように。コロナ禍で育った子どもたちが通勤というものを知らないということすら起こりうるように。
普遍的な「私」
わたしが「そうだね」と今なら言える心境になった前段階として、ユングの「自我」と「自己」のように地続きのモデルを感じ取ったということがありました。
それまでは、世界そのものを弁証法的に二項対立から新たなものができていくモデルのように捉えていました。
愚かな思い込みの社会通念vs.普遍と愛でできたスピリチャルなワンネスの世界感です。
でも、自我が自己の中に包含されているように、愚かな思い込みの社会通念もワンネスは包含していると捉えることができたのです。その上、間違いを犯す自分を包含するおおらかな領域が自分の中にちゃんとあることはっきり認識することができました。その大らかな領域は、今までも感じてはいたのに名前がなかったために認識できなかったのでしょう。ユングによって「自我」と「自己」と区別され名付けられたものと、「それ」がつながったことで、自我はやっと「わたし悪くないもん」と叫ぶことができ、前回のブログへとつながったのでした。
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