頑張っていること

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「アイデンティティが救いであり牢獄」という名越康文さんの言葉について、「理屈と心構え」というブログで書きましたが、牢獄になってしまったときどのようにして自分を自分の牢獄から救えるのかということを考えています。

原点はもっと前にあった

交流分析という心理療法理論で、人生脚本というものがあります(人生脚本については「自由意思と人生脚本」に書いてありますので興味のある方は読んでみてください)。その理論によると、7歳くらいまでに決めた脚本に従ってわたしたちは日常を生きているということです。

大乗仏教ではこのシステムをアーラヤ識と呼んでいるようです。外界から受ける刺激を、脚本、フィルター、色眼鏡、ものさし、価値観などと呼ばれる機能を通して受け取ることで、その人が生きたい人生を生きているのだと言います。わたしのフィルターを通して読んだ本などによれば、哲学の世界でも宗教の世界でも心理学の世界でもスピリチャルの世界でも、極めた人たちや臨死体験を経た人たちは異口同音に説明しているように見えています。

これは何度も書いているのですが、わたしの出発点は『アンネの日記』にあると思ってきました。なぜ、女優になることを夢見てみたり、学校の成績を気にしたりしていた自分と同じような一人の女の子がユダヤ人であるという理由のためだけに、差別を受けて死ななければならなかったのか、という問いから始まったと思っていました。でも、人生脚本が7歳ごろまでに決まるのであれば、アンネはわたしの人生脚本に影響を及ぼしたものではなく、7歳以降に人生脚本に従って興味を持って読んだものなのだと思い至りました。すると、わたしの原点はもっと前にあることになります。

探っていくと、わたしの母がキリスト教徒だったので、一緒に小さなころから教会に通っており、イエス・キリストという人の物語を毎週日曜日に聞いていたことの影響だろうという気がしてきました。イエスという人もやはり、迫害されて殺されたのですが、彼は人々を幸せにしたいと力を貸していた人なのに殺されてしまったということの不条理を、小さな子どもながらに感じていたのだと思います。子どもだから本当に単純な理解をしたのだろうと思います。なぜ、彼は殺されなければならなかったのか、という問いがアンネよりも以前にありました。

同じことを言っている

当たり前のことですが、イエスの生涯がどんなものであれ、そのイエスという人が伝えたかったことの神髄は彼がたどり着いた答にあります。

キリスト教やその他の仏教といった宗教でも、物理学でも天文学でも占星術でも錬金術でもスピリチャルでも哲学でも言語学でも認知科学でも心理学でも何でも、個人が極めていくとたどり着くのは「意識」というもののようです。それぞれの専門用語を使ってそのことについて、ときに断定的に、ときに遠慮がちに、ときにそうとわからない程度に、そのことを言っているような気がします。たとえ対立しているように見える分野の専門家であっても、門外漢の専門知識がないわたしが読むと同じことを言っているように読み取れます。彼らや周囲の人々は、言っていることは同じなのに違うことを言っていると思い込んでいるのか、あるいは単純にこれが言語というコミュニケーションツールを使った刺激の限界なのか、正しさの戦いをしているように見えます。しかも、何千年も前からそれはちゃんと知られている事実のように見えるのです。

なのに、なぜ?

それこそが、結局アイデンティティだからなのだと考え至りました。

例えば、専門家であるというアイデンティティ、唯一無二の真理を知りたいと深く人生の長い時間をかけて、ときには何か大きな犠牲を払ってたどり着いた答がある、ということがアイデンティティであるから。

この宇宙は何か統一的な意識のような意思のようなものが根底にあって、あまねくものがそれによって響き合うように動いている、ということだった、と。そのプロット、因果関係、それが自分たちであり宇宙である。何千年も、もしかしたら文字文化以前の記録を残すことができなかった文明にもその真理は解明されているし、それは逆にいえばそのことに気がつかないでいることの方が難しいほどのことなのだとさえ感じるのです。

そして、その答えのもたらす極めつけは「時間がない」ということに尽きるのではないかということです。ここを一人の人間として生きながらにして掴み取れると、人生脚本のようなアイデンティティが牢獄になってしまうことから救いを得るところの視点を持つことが可能になる気がします。イエス・キリストやゴータマ・シッダールタやモハメッドのような、救いを求める人々に求められるような人たちが苦労し、その死後に宗教団体として後継者がむしろ救いではなく、争いのもととなってしまった点は、「時間がない」ということの理解がわたしたちには非常に難しいということであろうと思うのです。

時間がアイデンティティを作る

「時間がない」ということは、「私とは○○である」ということを覆すものだと思います。時間の観念と時間を感じ取るための仕組みがなければ、「私」を「私」として認識することはできません。「私」は他との差において認識されるものだからです。他と差があるということは時間が作り出すと考えています。

例えば、わたしたちは国の名前、都市の名前を使って何人であるとかどこに住んでいるとか言う形などで、自分のアイデンティティを説明しますが、それだと個々人の「私らしさ」ということを表すには不十分で、他のたくさんの人々と共通項があって属するグループの一員としてだけしか認識することができません。

しかし、過去何をやってきたのか、どんなことを大切にして選択してここまで来たのか、どんな出来事に対してどんな対応をしてきたのか、現在どんなつもりでどんな構えでやっているのか、未来にはどんなことをどんな考えのもとにやっていくつもりでいるのか、という人生脚本に立脚した時間軸に沿った物語の主人公の「私」は唯一無二のものです。この選択の繰り返しの物語によって浮き立つ存在が、「私」で、その選択基準が「私らしさ」となるのです。すべての人生経験には同じものが一つとしてないため、上述のアイデンティティに比べるとこれの方が確固とした「私とは何者か」という問いの答となっているのだと思います。

だから、専門家は自分の人生をかけたアイデンティティとしての、得た真理の見え方、経路、用語、理解のしかたにこだわるのだと思います。

そこまでは、真理だと思っているもの、です。

でも、どうやら時間というものは存在しないようなのです。だから「時間がない」ということの本当の理解が自分の軸になるほどに行ってしまうと、自己を認識するのは難しくなっていくだろうという気がします。この領域は説明してもなかなかわからないものでしょう。触れたり見たり嗅いだり聞いたりできませんが、それらと同じように感覚的な理解しかできないのではないかと思います。わたしも前よりは何か掴めてきた感じがするという程度のものしかありませんので、わかっているかどうか自信はありません。

余計なお世話

この活動は初めてから4年ほどたちます。仲間を募集していますが、今のところ個人のブログと化しています。誰かの役に立つようにとしていることが本当に役に立っているような気がしない毎日です。このブログも、作ったアプリも、Twitterアカウントも、誰かに頼まれたことをやるようには役に立っていないと感じています。

わたしのアイデンティティには、交流分析で言うところの「存在するな」(禁止令)からの「人を喜ばせろ」(ドライバー)が働いているので、喜んでもらうことで存在を認めてもらおうとしてしまうところがあります。「役に立てば存在してもよく、役に立たなければ存在することは迷惑でしかない」という脚本は、名越康文さんが言うように、役に立てていると感じるときはアイデンティティのよい面として救いになっている反面、役に立っていないとか役に立っているのにわたし自身が幸せではないと感じるときには悪い面として牢獄になることもあります。

このわたしのアイデンティティがまさにこの活動そのものなのですが、これが余計なお世話であることも認識しています。大々的に宣伝しないのも、なるべく断定的な書き方をしないで歯切れの悪い書き方をしているのも、人の役に立とうとしているのは自分のためという、余計なお世話である以上、受け取らない人や受け取っても役に立たない人にまで届けなくていいなと思っているということもあります。表面上は良かれと思ってのことではありましたが、実際に身近で大切だと思った人たちを追い詰めてしまったこともあると思っています。

また、アイデンティティに絡んだ問題を根本的に解決するとなると、文字通りそのアイデンティティそのものがその人であり存在や存在価値なのですから、アイデンティティを否定することと受け取られることが避けられず、並々ならぬ反発を受けるということも認識しています。イエスという人はそのために殺されたのではなかったかと推理しています。また、ただ存在するだけで、反対側のアイデンティティを持つ人から自動的に弾圧を受けることも、男女差別や人種差別といったものを見て簡単に学習することが可能です。

わたしはズルいので、このアイデンティティがもたらすいい面と悪い面のどちらも両立できるようなことを考え、アプリやTwitterといったわたしという個人から遠く、それを自ら選んだ人にだけ届くようなことをやっているのです。でも、だからこそ、本当に誰かの役に立っているかどうかはあまり実感がありません。

一方で、小手先の変更ではなく、決定的に根本的にわたしたち人間がアイデンティティの問題から解放されて、平和を感じて暮らすことができる方法(認識)があるということにも気がついてきています。

歴史を紐解くと、本当に人々をその人のアイデンティティの牢獄から解放するような力強い魔法のような何かがあるようです。それはアイデンティティの救いからもその人を解放してしまうことでしょう。おそらく、それは「時間がない」ということに直結しているのではないかと考えています。なんとなく、わたし自身はその時間を超えるという魔法を非常に恐れてもいます。

それは、自分が頑張ってきたすべての時間を、頑張りを、意味がないこととしてしまうように感じるからだと思います。わたしにとっても余計なお世話であるのかもしれません。

励ましが仇となるとき

余計なお世話といえば、最近、励ましたつもりの人が嫌な気分になっているのを感じ取って、なぜそんなことが起きてしまったのだろうと考えました。また、協力しようと提案したことで相手に嫌な思いをさせていたということを言われて、なぜそんな風になってしまったのだろうと考えました。

言うまでもなく、余計なお世話だったという一言に尽きますが、わたしの意図は励ましであったり、少しでも相手が楽になるための提案であったりしたので、本当に悲しい出来事で、自分を慰めるためにもなぜそうなったかを考えずにいられませんでした。

例えば、そのままのその人が魅力的だと感じるから「あなたは素敵な人だし、あなたのままでいいんじゃない?」と言ったとします。もし、その人がその「素敵な人」であるためにものすごく努力して犠牲にしてきたものが多かったとすれば、それは「やはり何かをここまで犠牲にしなければ素敵な人でいることはできない」とか「犠牲を払ってまでやってきたことはすべて無駄だった」というメッセージになってしまうでしょう。もし、わたしがその人の本質を見抜いて素敵だと感じたのだと理解するならば、それは「もう少し肩の力を抜いても大丈夫」というメッセージとして届くでしょう。

理想の自分と現実の自分に大きなギャップがある人にとって、努力と犠牲は必須です。努力して犠牲を払っていなければ、理想と一体化した自分を体現することができないからです。わたしもそういう一面はあり、経験的に理解できることです。

でも、頑張れば頑張るほど理想から遠のいてしまうことがあります。そういうときにどこかでわかっているのは、理想が高すぎることではあり、しかし緩めることは自分を諦めることに感じます。アイデンティティに「限界まで、あるいは限界を超えて頑張る自分」が入っている場合は、それを緩めることは「頑張る自分の死」を意味します。

あるいは、手の届かない理想を持って頑張っていることを自分のアイデンティティとして持っている場合は、そのこと自体がアイデンティティなのだから、頑張らないことが存在することすら認められないと思います。

それは、わたし自身も同じで、頑張っていることを頑張らなくていいと言われたら腹が立つと思います。でも、時間が存在しないということも事実のように感じるようになってきています。認めたくないだけで、もうすでにわたしはアイデンティティの牢獄から救われているのかもしれません。

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