「私」が変わる時

コロナ禍に変化することを余儀なくされた人は多いことでしょう。もともと変わるべきであった「何か」(あるいは誰か)は、コロナ禍によって自らの力で変わるタイミングを逃し、変えさせられた(あるいは変わらされた)かのように感じる変化であったと思います。

人生の転機というのは避けようもなく訪れます。わたしたち人間は多かれ少なかれ第六感のようなものをもっています。変わる前には、全く気がついていないようで、何となく変わらなければならない匂いをかぎ分けている人もいます。わたしはそういう匂いにとても敏感な方だと感じて生きています。わたしには自明な匂い、変化の予感が他の人と分かち合えないことの方が多く、寂しい思いをしてきました。

この歳になって、やっとこのセンサーを活かすことを考えるようになりました。

以前のブログにも書きましたが、わたしには「未来からの記憶」という逆方向のようなビジョンがあります。これは予言のようなものとは大きく違います。何も確証がなく匂いに近い感覚的なものです。自分だけがおかしいのだと思ってきました。

変わらなければいけない匂いがするとき、ほとんどの人はその事実や予兆を無視します。DNAの中に変化を嫌うようになっている配列と変化を求めるようになっている配列があるとのことです。また、不安を感じやすい配列と楽観的な配列もあります。日本人の割合としては変化を嫌い不安を感じやすい人が多いのだそうです。前者はドーパミンという脳内物質が関係しています。後者はセロトニンという脳内物質が関係しています。(参考サイト:ログミー「ヒトの認知機能と神経伝達物質」中野信子さんの講義議事録より)

変化を嫌い変化に不安を感じやすいタイプと変化を求め不安を感じにくいタイプは、どちらもいい面と悪い面があります。お互いにわかり合えない間柄ではありますが、変化せざるを得ない状況下では後者がリードすれば乗り切れる可能性が高くなります。逆に世の中が平和である場合は前者がリードしていた方が恒常的にうまくいっている状態を続けることが可能になります。

私が今年の3月に卒業した産能大学の授業のひとつに、「人生の転機を考える」という授業がありました。面白過ぎて独自の考えが浮かびすぎてテストはいい点が取れなかったのですが、テキスト自体は非常に興味深い本でした。『トランジション 人生の転機を活かすために』(ウィリアム・ブリッジズ著)という本です。

この本にはいかに人間が環境・状況や求められる役割などに合わせて「アイデンティティ」を選び、デザインし、演じ、全うするか、また内的な人間的成長や外的な要因によってどのように一度纏った「アイデンティティ」を幼虫からサナギとなり蝶に変化するように変化させるのか、できない場合の危機とはどんなものか、という観点からアイデンティティの再構築の物語を学ぶことができる一冊です。

わたしはニーチェの、あるいは仏陀の「脱皮しない蛇は死ぬ」という言葉を何度も思い出しました。もう、おなじ皮の中にはいられないとき、わたしはどんなに外の世界が恐ろしく見え、自分が脆弱に見えても、とどまる方がリスクが大きいのだと、この言葉を心の隅に置きながらここまでの人生を歩いてきました。バブルの崩壊から数々の経済的な変化や個人的な人間関係のあれこれの変化の中で。

“The snake which cannot cast its skin has to die. As well the minds which are prevented from changing their opinions; they cease to be mind.”
「脱皮できない蛇は死ぬ。意見を変えることを妨げられた精神も同様で、精神であることをやめる」

Friedrich Nietzsche フリードリヒ・ニーチェ

最初の蛇の喩えは元は仏陀の言葉のようです。ツァラトゥストラ(ゾロアスター教の教祖)を出したり、ニーチェはいろいろな宗教の知識が豊富だったようですね。

本の話に戻りましょう。この本の中で、非常に印象的に感じた部分をいくつか引用したいと思います。

あらゆる組織や人々のグループがそうであるように、家族もまた一つの「システム」である。(中略)一人ひとりが、まさに全体の一部であり、全体に起こることはどんなことでもメンバー一人ひとりに影響する。

関係性というものは暗黙の了解で成り立っている。そのことに気づいている人間はほとんどいない。人生のかなり早期から、関係性において心理学的な役割分担がなされている。

役割は無から生まれるのではなく、結局のところ関係から生まれるのだ。

私が話せばよいかもしれないが、その時点で本人が望んでいないような援助を与えても何にもならないだろう。むしろ、自分にトランジションの時が来ており、それが人間関係にどういう影響を与えているかを自覚している一方の人が、関係の中で何が終わり、それに対して何をなすべきなのかの探求を一人で始めた方がよい。たいてい明らかになるのは、終わりを迎えるのは何かの外的状況ではなくて、双方が抱いている態度や思い込みやセルフイメージである。
相手に援助が必要だと思っている夫や妻こそ、実は援助を必要としているものだ。

ウィリアム・ブリッジズ『トランジション』より

もうひとつ、わたしが印象的に感じたのは “Unlearner“「学んだことを捨てるべき人」という言葉でした。

それは、わたしたちが何度も経済危機が来るたびに見せられているものではないでしょうか。わたしたちはこの「行き詰まり感」にそろそろ新しい思い切った改革を迫られてはいないでしょうか?

お金のあるなしで自分たちを評価するのをやめるときかもしれません。あるいは、貨幣経済の仕組み自体を手放す時なのかもしれません。都市生活を捨てても都市型の生活を地方に移すだけでは解決しない問題があるのかもしれません。

慣れた「私」だけでなく、慣れた「私たち」を脱皮することができるかどうか。

わたしはできるとみています。未来からの記憶によれば。

きっとわたしはセロトニンの多い日本人には珍しいタイプなのかもしれません。