価値と値付け

わたしは社会に出てから三十余年間働いてきました。その間正社員として働いた期間は約12年で、半分以上は自営業でやってきたことになります。
最初の事業はDTPオペレータ兼デザイナーでした。MacとレーザープリンターとFaxを購入して起業しました。
当時から見積りや値付けが苦手でした。
大抵は相場に頼りますが、苦手意識の大きな原因は自分の損得感情です(笑)
「相場がない」とか「相場がわからない」仕事は本当に困ってしまいます。
それに加えても、近年は値付けが以前にも増して難しくなってきたと感じます。

いま現在特に私は「何屋さん」と一言で言えないほどいろいろな事業内容を展開しており、そのひとつずつが全く違う商品やサービスを提供するもので、「ものの値段」というものの不思議を痛感してきました。
カフェを経営していた時は、仕入れや家賃や光熱費や人件費などがあってコストの計算ができ、何割くらい原価に載せて価格を設定すればいいかというのが計算しやすかったのですが、同じものでもお客様によって「安すぎる」「高すぎる」と評価が極端に変わるのを目の当たりにする機会になりました。
DTPオペレーションは時間かページ数に単価を付けて、受注量に合わせて請求します。処理できるページ数が多ければ、ページ数で請求できた方がよく、時給の場合は質と処理量が高いことを納得してもらえれば時給を上げてもらうといった具合でした。
デザインは、実質的なコストではなく私のセンスやこだわりといった感覚的なものと労働時間という相手には目に見えない価値として判断されるもので、非常に難しく、結局は相場を踏まえて値付けしていました。

誰でもそうだと思いますが、わたしは基本的には誰にもがっかりして欲しくないし、値段を見てギョッとされるのも居心地が悪くて嫌です。欲を言えばお客様には自分のサービスや商品を喜んでもらえ、正しく評価されて、Win-Winでありたいと思うわけです。

ところが、お互いに大前提となる「期待値」があり、お客様の期待値を超えるものが出せれば喜んでもらえますが、期待値を下回るとがっかりされてしまうわけです。
サービスの提供者としてはある程度提供する質や量に関する情報を発信しているつもりでも、お客様全員がそれをそのまま予め受け取ってこちらの期待通りの期待を抱いてくれることはありません。
初めてのお客様にとっては良い意味でも悪い意味でも「冒険」ですし、提供者としてもどんなお客様がいらっしゃるのかは選べませんから「ガッカリ事故」は不可避です。
でも、有名な老舗は違います。適度な期待値があり、マニュアル化された社員教育によるサービス提供の均質化が図られていますから、「のれん」としてそのブランドと価値が双方の安心を担保しているわけです。当然「ガッカリ事故」は滅多にないということになります。ただ、「冒険」はありません。
大企業のサービスがお客様に選ばれるのも、長年取引している取引先が贔屓されるのも、提供側のサービスや商品がどんなものかをお客様自身がすでに知っていて、期待値が裏切られることがないという安心感なのだと思います。
同じ値段で同じものを提供し続けることができれば、飽きられることがあってもお客様の期待値を裏切ることはないのですから、提供側としても安心して事業を展開することができます。

年々値付けが難しくなっている理由はいくつかあると思います。

  • M&Aなど資本の統合
  • グローバル化

大企業がサプライヤーなどを取り込んですべての工程をやってしまうと、仕入れの時点で差がつきますから、小さな資本では太刀打ちのできない価格破壊を起こします。
また、賃金の安い場所に生産拠点を移す企業が増えると、わたしのようなフリーランスにアウトソースされていた仕事や単純労働は海外の労働者に流れます。
実際、グローバル化の波によってわたし自身90年代の終わり頃、ある日突然仕事を失ったことがあります。

そして、職を失うようなわたしこそが、大企業の提供する「安い食べ物」「安い洋服」「安い家賃」で衣食住という基本的なニーズを賄うわけです。自分が安い物を買うから自分の職がなくなるというこの皮肉のサイクル。
自分の仕事の質が落ちたわけでもなく、スピードが遅くなったわけでもなく、むしろ結果に直結する経験値やナレッジは増えているにもかかわらず、能力ゆえではなく価格競争ゆえに価値を下げなければならないのは職業人としてのプライドに傷をつけるものでした。

グローバル化にはいい点もあります。能力もやる気もある新興国の若者にチャンスが渡るのは本当にいいことだと思います。
グローバル化のおかげで大企業が巨大企業化でき、巨大企業であるからグローバル化ができるわけですし。

この職を失ったり価格競争に負けてしまったことに関して、プライドは傷ついてしまいましたが、一方で社会の中でわたしが身につけた経験やナレッジが価値を喪失したのであって、わたし自身が価値を喪失したのではないということに気がつけたのは大きな発見でもありました。

さ、泣き言を言っても始まりません。
機会の平等は守られた方がいいし、結果の平等は望めませんし、価値はいつでも流動的なものです。

それで、わたしなりに「新しい価値」を一生懸命考えました。
考え方をトレーニングする、決断を補助する、優先順位をつける補助をする、といったサービスを提供できないかと考えています。

しかし、これこそ値付けが難しいものです。セミナーのような形のものなら数千円から数十万円まであり、それを高いと感じるか安いと感じるか、怪しいものから本当にためになるものまであり、考えていると気が滅入ります(笑)
わたしの考えているサービスはお客様と提供者であるわたしは接触しない形ですから、セミナーにはなりませんが、いくらで売ればいいのかはっきりわかりません。
効果のない人からお金をいただくのは心苦しいし、役に立ったというのであればある程度は評価してもらえれば嬉しいと思います。

今度は自分でコーディングせずに外注しようと考えています。少なくともその分が回収できると嬉しいと思います。あとは自分のアイディアやその他諸々の労力に対する価値がどのくらい評価されるのかということだと思います。
それは使ってみて効果を実感した人にだけ、評価されるのだと思います。
効果のない人にとってはそんなものはクズでしかないわけです。
いくらわたしが頑張ったところで、明るい昼間に電灯をつけて明るくしているようなものです。こういったサービスはいわば暗闇にいる人だけに価値のある電灯なのです。
では、効果が実感できない人に間違って売りつけてしまわないようにするにはどうしたらよいのでしょう?

そんなことに悩んでいたところ、「NP後払い」というシステムを開発して提供しているネットプロテクションズという会社が「あと値決め」というサービスを始めたというニュースを知りました。
その場では支払いが発生せず、とりあえずお客様に利用していただき、感じたままにご自身でその価値に対する値段を払っていただくというシステムです。
かかったコストというのがありますから、それを下回るのは恐ろしいことではありますが、物が売れなくなったといって付加価値をたくさんつけて欲しいと思わせて売る、不安を煽って欲しいと思わせて売る、というスタイルの消費社会モデルにうんざりしてきた私には、このシステムが一つの打開策のように見えました。
ある人にはほとんど価値のないように思えるものが、他の人にはとても価値のあるものであるというのはよくあることです。明るい場所での電灯と暗い場所での電灯のように。