正義の話

正義の話

正義は成り立つのか

私はここのブログ以外にも、毎月ビジネス・実用書の書評を企業のサイト*1に書いています。今回はマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』という本を取り上げました。この本は「政治哲学」という分野の学問を扱っています。

読んでいてずっと頭にあったことは、この見出しの通り「正義」というものが成り立つのかということでした。

元々小説を読むのが苦手な私は、実用書やノンフィクション、エッセイや哲学書をもっぱら読んでいます。それで、書評のために本を読むということがほとんどなく、今まで読んできたビジネス・実用書のベストセラーになったものを書評に書いてきました。
その中にあったD・カーネギーの『人を動かす』には、「盗人にも五分の理を認める」という項があります。それを読んで、それぞれが自分の立場から見た「正義」をもっているということに気がつきました。これは言い換えればそれぞれの世界に対する自分の価値を決めるための基準点となる価値観と言えるでしょうか。

サンデルの本に戻りましょう。この本は、手段を選ばず相手の気持ちを汲まないで商売をする、相手に戦う気があるかないかを考慮せず競い争って勝ち、自分の幸せを最大化することを善とし、その自由の行使を主張する、力関係に持ち込んで有利に立つことを目指す、という人々を正義の名の下に法によって裁くのが正しかどうかということを論じています。

他者に対する「共感力や思いやり」に欠けた人々は、差別・いじめ・モラハラ・パワハラ・虐待・家庭内暴力・恐怖政治・植民地制度・奴隷制度など、いろんなスケールの場で見かけます。
彼らにとっては「力」とは「正義」であり、その名の下に「弱きもの」を挫くのです。なぜなら彼らの世界観では強いことが善で正義であり、翻って弱いということは悪だからで、強く力のあるものだけがあらゆる権利を持つという価値観を持っているからです。

復讐するは我にあり

正義の成立への疑問と同時に私は読書中、新約聖書のローマ人への手紙・第12章第19節にある「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録しるして『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』」という中の「復讐するは我にあり、我これを報いん (Vengeance is mine, I will repay)」という言葉を、何度も心の中で聞きました。

Beloved, never avenge yourselves, but leave it to the wrath of God, for it is written, “Vengeance is mine, I will repay, says the Lord.” (Romans 12:19, New Testament, English Standard version)

この言葉をタイトルにした小説があり、映画化もされましたので、昭和な方はそちらでよくご存知かもしれません。

私は親の影響で3歳の頃からキリスト教の日曜学校へ通っていたので、自然にこういう聖書の言葉を知っていました。仏教徒にもキリスト教徒にもなりませんでしたが、この言葉を文字通りの言葉として受け取って生きてきました。

私はモラハラにあったとき4年ほどこの言葉を何度も呟きながら我慢を続けました。「私がどうこうしなくても、いずれ自ら裁きにあうに違いない」と。
最終的には相手を誰かが裁くのではなく、耐えられなくなって物理的に離れてお互いの幸せを祈るという解決策を選びました。

私の側からは相手に悪意があってひどい扱いをしたとしか思えなかったし、相手にしてみればちっとも言うことを聞かない私にムカついたということなのでしょう。お互いに相手が変わることを期待しながら、一緒にいることで受けるメリットと、一緒にいたために受けた損害を取り戻すために、我慢大会をしていただけだったと思います。

今でも自分が傷つくのであまり相手を悪く言いたくはありません。私の世界に対する価値はキリスト教的美徳を基準とする価値観の中にあるからです。かといって、威圧され怒鳴られるのを許し続けることもできませんでした。

お互いのために、離れて本当によかったと思います。

幸せ経済社会

個人の関係はこのように離れることで平和を取り戻すことができます。

この経験を通して、私は自分が自己犠牲の美徳と合理性を善として生きていることを知りました。しかし、自己犠牲は合理的ではないということもよくわかりました。「ちょっと待てよ、自分を犠牲にするような人が、自分のことのように人を大切にするとはどういうことか?」という問いを自分にするようになりました。

自分が人生で何を大切にして生きているのかがよくわかったおかげで、その大切なものが同じとまでは言わなくても、方向性が同じである人たちとなら幸せになれるということもわかりました。

しかし、離れたところでモラハラする人に似た考えの人たちはたくさんいます。そういう考えの人を含んだ社会の中に暮らしていると、明らかに法律を犯している人がなぜか捕まらなかったり、あからさまな差別が公的な場で行われたり、まったく無関係に幸せに生きるというのも実際には不可能のように思えます。

自分さえ良ければいいと思っているのではないかと思いたくなるような「今ここの自分の満足」や「今ここの自分の不安の払しょく」のために後も先も周囲の影響も考えずに、強引な一手を打って出る人がいるのは、社会の中に生きていれば多少なりとも感じることではないでしょうか。

でも、私は戦いたくないのです。戦うというのは、相手に力を与えるということだからです。社会が意地悪な人を含んでいる以上、離れることはできません。相手をどうこうするのではなく何とかすることはできないのでしょうか。

以前の投稿「壮大な問題に取り組む」で書いた枝廣淳子さんの会社が運営している「幸せ経済社会研究所」の活動を見ていると、そのヒントが散りばめられているような気がします。

正義を振りかざして意見の違う相手を断罪するのではなく、思いやりや共感力、社会の一員としての責任や自覚をもった人々のうまくいっている事例を作ったり紹介したり、興味を持った人が参加できる形で体験できる場を提供したりしています。
WE GiRLs CANの活動もアンチ女性差別ではなく、「勉強会で集まって、みんなで事実を捉えて、改善策を考えて、自分たちでできる行動をそれぞれがする」という活動として、自分たちの考え方の枠をずらして世界の見え方を変えようと訴えています。

主観の檻と事実把握

当たり前のことですが、人は自分の目から見たものしか見えません。
そして、心理学ではその目についたフィルターを通してしか外の世界を見ることはできないといいます。フィルターとは価値観のことです。
しかも、私たちは自分の目にどんなフィルターがかかっているか、あまり自覚していないのだそうです。

こういったフィルターに気が付かないと、自分が主観でものを見ているということがわかりません。自分が常識と思っていることが、他の文化圏の人からは非常識と思われているという例はいとまがありませんよね。例えば人前で靴を脱ぐことや、左手で物を渡すことなどです。

私の周りにいるフィルターに気が付かない人々の中には、「べき論」で自分や他人を傷つけてしまう人がいました。自罰的な人はその囚われによって生きることが苦しそうだったので、私はそれをひそかに「主観の檻」と名付けました。

私自身も先に述べた”Vengeance is mine, I will repay”という考えに囚われて許し続け、間接的に自分を傷つけていたのですから、人のことは言えません。

主観の檻から抜け出すには、事実の把握と具体的な解決策があれば何とかなります。あとは行動あるのみ!

今なら聖書の言葉の意味を違うように捉えることができます。

どちらが正しいかなど考える必要はない、そんな時間があったら事実を把握して問題を解決すべく今すぐ行動を。

結局、私は正義は成り立たないし、議論したところで誰の幸せにも貢献しないのだ、という結論と感想にいたりました(笑)

随分前から事実把握が上手にできるようサポートするアプリを開発したいと考えています。形にできるエンジニア募集してます! 協力者が見つかったらクラウドファンディングで資金をまた集めようと思います。

*((株)Ideal Worksという会社の補助金リーチ.comというサイトです。レイアウトや運営も私がやらせていただいています。興味のある方は是非読んでみてください)