猿人と原人の間とされるホモ・ハビリスを人類の誕生と捉えるとして、そうすると200万年前から人類は幾多の危機を乗り越えて生き延びてきていることになるのだそうです。
200万年の間、何が人類を生かしてきたのでしょうか。
好奇心と本能と、困難に対する態度が鍵を握っているようです。
危機とは何か
それが物理的か精神的かによらず、ダメージを受ける可能性が高い場面が危機です。
人には本能という働きがあり、人はすべからく未知の物に対して不安や恐怖を感じることで身を守ろうとします。
同時に、人は未知のものに好奇心・興味を持って調べることでも危険から身を守り、不安や恐怖をも克服しようとします。
本能はホルモンの力で発動するそうです。ホルモンとは、男性ホルモン・女性ホルモンだけでなく、寒い時に血管を細くして熱が体外に逃げないようにしたり、暑い時に汗を出して気化熱を利用して体温が上がり過ぎないようにしたりといった働きをするものもあるということです。
その中でも、人が危機に直面した時に役立っているのがアドレナリンとノルアドレナリンというホルモンだそうです。アドレナリンが出れば心臓がバクバクして逃げ出したくなりますし、ノルアドレナリンが出ればイライラして戦いたくなります。
例えば、現在コロナウイルス (COVID-19)が流行していることに関して、まさにわたしたちは全世界が注目し、不安・恐怖に駆られて逃げ、事例を集め調べてワクチンや薬を開発し人類をウイルスから守ろうとしています。
インフルエンザも同じように罹患した人が亡くなることがあるウイルスですが、ワクチンがあり治療薬があり、手洗いうがいで防げるなどの予防策が一般的に知られているため、それほど不安や恐怖を感じませんよね。罹患した場合の死亡率はむしろインフルエンザの方が高いという話すら耳目にしていてもです。
ジャングルや草原で道具なく原始的に暮らしていれば他の動物に襲われるなど、危機は人間社会の外からやってきます。だから本能が役に立ったのだそうです。
時代が変わって、今の都市生活では人間社会の中に危機があるといわれているそうです。人間関係の中でうまくやることが一番大事で、嫌われて除け者にされたりしないよう、お互いに顔色を伺ったり嘘をついたりするのだといわれると、経験的にわたしも納得がいきます。
危機が困難に
自分が自分の力で危機的状況を乗り越えられるかわからない状況を「困難」といいます。
困難は大抵の人の勇気や希望を挫きます。諦めを引き起こし、受け身にします。
一方で、困難を歓迎するくらいの人々がいます。困難にあってこそ自分の力を試せる、成長できる、新しい学びを得られると感じる人がいるのも事実です。
アドラー心理学では「楽観的」という考えを使って困難に立ち向かう人たちのことを説明しています。
楽観的でいるとは何か
楽観的でいるというのは誰しもが「もうダメだろう」と思っているような場面で、「それでも乗り切れる」と自分の可能性を信じることです。
それは、根拠なく「大丈夫」と思い込むこととは違います。そういう事実を無視した心の状態は楽天的と別の言葉で表すのだそうです。
事実と信念に解離が起きると、人は心を病むのだそうです。思い込み、信念、理想、そういったものが強すぎると、人は事実を受け入れられなくなります。
根拠なく「もうダメだ」「何もかもおしまいだ」と思い込むことも、困難へ立ち向かう勇気を挫きます。
楽観的であるには、事実と向き合う勇気が必要です。事実を把握して具体的な対策を考えられるかどうかに、未来を変える力が潜在しているからだと私は考えています。
楽観的とは楽なわけではない
楽天的な考えと楽観的な考え方の違いはもう少し言えば現状を捉えた上で必要な変化をきちんと起こすかどうかなのではないかと思っています。
心理学の言葉で言えば、認知バイアスが楽天的な考えにあたるでしょうか。
具体的な認知の歪みを検証してみましょう。
気合で乗り切れるのか
できるという信念に従って、気合さえあれば何でもできるでしょうか?
空を飛ぶことができるという信念を検証してみましょう。
おそらく気合さえあればいつか羽を生やすことができるとか、気合でトレーニングすればジャンプで10メートルば飛べるようになるとか、いつか念じていれば足からジェットを出せるようになるとか、それはどう考えても無理ですよね。
しかし、人類は飛べない事実を認め、飛ぶ生き物との違いを調べ、飛ぶ生き物のメカニズムや物理的法則を調べ、知恵を絞り、飛行機という装置を考え設計し組み立てて、幾多の失敗から学んで空を飛びました。
嘘で乗り切れるのか
側から見て明らかな嘘を信じて乗り越えようという人も見かけます。
しかし、この食べ物を食べていれば大丈夫、この機械が浄化するから大丈夫、この神様に祈れば大丈夫という嘘を信じて医師の診断を受けずに亡くなってしまう人もいます。
自分でも落ち着いている時には「まさか」と思うようなことを、不安に駆られて信じて安心したくて嘘を信じようとしたり、自分を騙す嘘を自分について不安をとりあえず消そうとすることもあります。
嘘でできることはその場をやり過ごすことだけです。
事実は覚えていなくてもそこにあるし他の事実と整合性がありますが、嘘は覚えている必要があり他のことと整合性を保つために新たな嘘が必要となります。
後から嘘の上塗りのために使うエネルギーを、最初から根本的な解決に注ぐ方が理にかなっていますよね。
無視すれば乗り切れるのか
問題があっても物凄い勢いで無視する人もいます。
指摘しても反応すらしないようなビックリする人がいるものです。目をそらし話をそらし逃げまくります。
これは嘘をつくのと同じですから、その場はよくても後から後から事実を突きつけられることになるでしょう。
「みんな」に合わせれば乗り切れるのか
「みんな〇〇らしいよ」という人もいます。
人には目の前の危険よりも「みんな」にどう思われるかが大事になってしまうという傾向があるのだそうです。
そもそも、「みんな」とは誰のことで何人くらいの人のことを指すのでしょうね。
例えば、いま目の前のライオンが自分に襲い掛かろうとしているのに、「みんなが逃げないから逃げるとあとでなんかいわれるかもしれないから逃げない」なら、明らかに危機を乗り切れていませんよね。
認めたくない事実
以上のように、困難に立ち向かい、危機を乗り越えるヒントは事実にあります。
事実を見ない理由は何でしょうか?
事実を知って問題を解決に導くよりも大事なことがあるということでしょうか。
その大事なことは何でしょうか?
事実より大事なもの
心理学の理論では事実を体験と呼んで、下記のように説明しています。
私たちは自分の外側の事象の体験を、それぞれの価値観のフィルターを通して自分の中で捉えるのだそうです。そして、それぞれの価値観に従ってその体験にふさわしいと思う自分を外側に向けて表現するのだそうです。
例えば、身体的特徴から「私は女(あるいは男)である」と捉えて、自分の価値観に合わせた「あるべき女(あるいは男)の姿」を体現するということです。
しかし、時に体験が知らせてくる「あなたはこういう人ですよ」というサインと「こうあるべき」とか「こうありたい」と思っている自分が違っていて辛い、ということがあります。
例えば、男は強くあるべきという価値観を持っている人にとって、誰かに負けるということは辛いことです。女は若い方が良いという価値観を持っている人にとって、老いるということは辛いことです。
例えば、何かの権威であり知識人や専門家といわれることに自分の価値を見出している人にとって、間違えるということや知らないということは自分の価値を喪失することです。
気合や嘘や無視で、事実よりも大事にしたいものとは、「社会の中で人間は〇〇ということに価値があり、自分はその価値を持っているから社会の中で価値がある」と自分を評価しているその「〇〇」の部分です。
私は、これが差別などの力関係に優位性を見出したがる思想の原動力だと考えています。
自分の社会の中での価値にこだわる理由は、いったい何でしょうか?
勇気
社会の中での自分の価値というのは、別の言葉で言えば「私は何者か」という問いに対する答えであり、アイデンティティであります。
上で書いてきたたとおり、事実を知るにあたり、時として自分の価値が下がったり無くなったりしてしまうのではないかと感じるような、アイデンティティの危機を感じることがあります。
実際にはいろいろな価値観があり、外の世界での価値が下がるのかどうかはわからないのですが、同じ価値観を共有している人が多い社会集団においては本当に価値が下がったように扱われることもあります。
例えば、若さを称賛する社会において自分が若いことを自慢に思っていた人は、老いを認めなければならない時が来ると、疲れやすいなど体が今まで通りでないことに危機を感じます。
若さに価値を認めていない人なら、疲れやすくなったのだから今までより休むようにすればいいと考えるだけですが、自分の若さに価値を見出していた人は、若いフリをして無理を重ねたりするかもしれませんね。
でも、いつかは限界がきます。事実は容赦ないからです。水が高いところから低いところへ流れるように、事実はアイデンティティの危機などお構いなしで起きるのです。
アイデンティティの危機は内面で起きているだけなのです。
例えば、若さに価値を認める人が多い社会集団にいるならば、歳をとった途端に端の方へ追いやられたり煙たがられたりします。歳を取ることに価値を置いている社会集団にいるならば、歳を取れば取るほど尊敬を集め尊重されるようになっていくでしょう。
そういうフィードバックを見て、私たちは確証バイアスという「自説を補強する事象ばかりを集めようとする」傾向も手伝って、自分の価値を守ろうと必死になるのだそうです。
例え「みんな」が同じ価値観で生きていて、価値を失うことを恐れて必死になっていても、事実というのは容赦がないわけです。人間の思惑とは関係なく宇宙の法則は淡々と因果に従って動いており、そのシステムの一つとして人類があることは変えようのない事実ですよね。
このように、人類の敵が人類の価値観となった現代において、人類が生き延びるためには、アドレナリンが出るような不安や恐怖に打ち勝って、自分たちが築いてきた価値を手放す勇気が必要なのだと思うのです。
お互いを敵として戦うのではなく、勇気を出して事実を見て、古い価値手放し、自分たちの新しい価値を見出すことができるかどうかが、人類が人間関係の中で出会う危機を生き延びるカギではないかと思うのです。