差別についての考察

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WE GiRLs CANは女性蔑視のみならず、差別やイジメやパワハラ、モラハラ、DVなど、力関係に関する人間関係の問題には、同じ公式が裏に横たわっていると考えています。
差別という文字を分解すると「差」と「別」というそれ自体に人を蔑むような意味の漢字が入っているわけではないのに気がつきます。
差のあるものを何らかの基準によって別けているという意味しかないのです。

私たちは気づかないまま生まれた時から「自分とは何者か」という問いに晒されているのだと思います。
これが「アイデンティティー」というものに他ならず、それは「国籍」「民族」「人種」「男女」「老若」「世代」など色々な区分によって形成される「私とは〇〇である」という答となります。
この問いは何千年もの間、宗教や哲学を生んできました。
どれほどに「私とは〇〇である」という答を得たとしても、心の中に不安のような何とも言えない感覚を残してしまうこともあるのではないでしょうか?

WE GiRLs CANはこれを、生まれて存在するということに突然気がつき、同時に死ぬということを内包しているという事実に対する不安なのだと思っています。

人によって、このアイデンティティーは違います。

前述の通り単なる差異であってそこに優劣はないはずですが、不安を満たすために優劣を見出す必要がある人もいます。さらには、優劣を見出すことで安心しようとする人を蔑む人もいます。

優劣を生成して自分を優位に感じるためにはどうしても劣位の人間が必要になります。
これが力関係であり、差別なのだと思っています。

自分のことを相手が劣位とみなしたところで、それは相手の問題であり、それが単なる差異であることは変わらないはずなのに、時に劣位とみなされた者自身が自分を劣位と認めてそれをアイデンティティーとすることもあります。
代々続くものであれば、そこに疑問を挟むことなく受け入れてしまうということもあるでしょう。そういう場合は優位とされている方もその仕組みに気がつくことはありません。
これは特に女性蔑視という社会通念にあるケースです。誰もそこに疑問を挟まなかったのです。だって大昔からそうなのだから。
また、感情的に差別を受けたと抗議したとしても、科学的に検証したわけではなく、むしろ科学ですら最初から女性を劣位に固定した仮説の上に何かを検証してきた可能性すらあると思います。
優劣とは何かの基準において、それを採用することで社会全体の利益がある場合に、一時的につける区分で良いのではないでしょうか?
それによって不利益がある場合には、その固定観念を外すことも社会貢献です。
また、所属感がアイデンティティーであるという観点からいけば、社会貢献の実感とは生きて存在し死にゆく私たち人間という社会性動物の不安を消し去るものになりうると考えています。

差別することでアイデンティティーを保っている人の方はそれを手放すのはとても大変なことだと考えています。
そのため、WE GiRLs CANでは差別されてきた方がその劣位アイデンティティーをさっさと手放してしまうことを提唱しています。
不要なアイデンティティーを手放して、新しいアイデンティティーをどんどんクリエイトしていきましょう!

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