相対性理論と弁証法

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二項対立

昔読んだ本にこんなシーンがありました。ざっとこんな内容でした。

あなたは宇宙空間に浮かんでいます。すると向こうから別の人が向かってきました。
この宇宙空間には座標となる地点が見つかりませんので、あなたは自分が相手の方に向かって進んでいるのか、相手が自分の方に向かって進んでいるのか判断することはできません。
ただ、距離が近づいているということだけが確かで、いずれはお互いが遠のいていくだろうという予測ができます。
地上のような定点があって座標となる地点を持っていれば、どちらが静止していてどちらが近づいているのか、あるいはどちらも進んでいるのか、二人以外の地面や木や建物で簡単に判断することができます。
これが、相対的ということです。
ところで、相手はあなたがぶつかる勢いで近づいてきていると思って腹を立てています。
相手は自分を基準に絶対的な判断をして腹を立てています。

誰かとモラル的な正しい正しくないといった話をすると、決着がつかないことがあります。これは論理のようでいて価値観とか信念といったものだからだと思います。
人はそれぞれの信念や価値観、倫理観といったものを座標として持っており、それをモノサシとして出来事を測って善悪や正しさを判断します。
このモノサシは宇宙空間でたまたま出会った人とすれ違うときに自分たちとは別の小惑星か彗星が目に入ったので、それを基準としたという程度のものだと考えています。
しかし、この小惑星も動いているのかもしれないし、絶対ではなく相対な存在です。
相対とは単純に言えば「aであるもの」と「aではないもの」の比較です。
一方を正しいと言うと、他方は正しくないになります。
これは単なる二項対立で、どちらが正しいかと言う議論に決着がつかない理由でもあります。

ヘーゲルという哲学者の弁証法について読んだとき、割とさらりとこの考え方を受け入れることができました。
相対性理論に似ているし、これは思考という運動なのだなと直感的に理解しました。
「aであるもの」にフォーカスするというのはそれ自体が運動で、フォーカスした時点で「aではないもの」が反対側に立ち現れます。
Aという倫理観を正しいと言うと、それ以外の倫理観は正しくないという存在として立ち上がるわけです。

多様性

そう捉えてみると、倫理観を巡るどちらが正しいかという論争は、何を基準とするかという点においては絶対的な判断を要します。そしてお互いに正しさを主張するので、それを巡って実際に戦う人々の間に平和は訪れることはありません。永遠の反復運動を二項の間を行ったり来たりするだけです。
わたしはそこで、平和をもたらすことを目的としてできることがあるとすれば、相手を力でねじ伏せる事では全くなく、共存を許すこと、あるいはその二項対立のエネルギーを真ん中にして、新たなエネルギーを別に作ることではないかと考えます。
つまり、わたしは多様性が鍵を握ると考えているのです。
ジェンダー平等を目指すときに、それを阻害するものを糾弾するのではなく、その存在をニュートラルに良くも悪くもないものとして、単なる特徴として捉えて新しいものができないかということを考える方にエネルギーを使うのが良いと考えています。

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