「私」は「〜された」のか?

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わたしはモラハラされたのでしょうか。

「これ以上誰にもモラハラさせない」と決めてから全てが変わったことを考えると、モラハラさんの問題だけでなく、それを許していたわたしの問題でもあったんだなぁと感じることが増えてきました。

モラハラされている人を「自己責任」という言い方で非難してしまっているような形にならずに(私自身がそんなようなことを言われて、当時は本当に嫌な気持ちになったので)、でもモラハラさんと一緒にいようとしたり相手を変えようとしたり信じよう(何を?)としたりしていた時には考えられなかった世界が今、私の目の前に広がっているということをどうしてもお伝えしたいのです。うまく伝えられて役に立てばいいなと思いますので、ちょっと頑張ってみます。

物事の終わりは別の物事の始まりである

当たり前のことですが、10時台が終わると、11時台が始まります。

存在は同時に他も存在しないと個別には存在できない

卵が先か鶏が先か、それを確定できる人はいるでしょうか?
どちらも同時に存在しないとお互いが存在できないというロジックに納得することはできますか?
犯罪者がいないと犯罪被害者も存在しませんし、逆も同じです。
被害が出ていない犯罪は犯罪未遂ですよね。

わたしはあいつにモラハラされたのか

そういう意味では、わたしはモラハラされたと言えるでしょう。
そして、モラハラさんが悪意を持って何度もわたしにそれをするのをわたしが許した瞬間がたくさんあります。
でも、わたしは嫌だと言えなかった。
理由はたくさんあり、山ほどあり、どれも正当な理由で、何にも悪くはないのです。
ただ、わたしはもうある程度の回数が重なった後には、この先自分が傷つくのを知っていたのに、自分のために戦ったり、立ち上がったり、立ち去ったり、きっぱりとした態度を取ることを選びませんでした。

ゲシュタルト心理学

心理学の学派の中に、ゲシュタルト心理学というのがあります。
それが何ぞやということに関しては、長くなるのでWikipediaさんに頼っていただくとします。
下の図をご覧ください。上と下の線の長さは一緒なのに、矢印のような補足線が逆方向についているだけで、開いた補足線がついた方(下)の方が長く見えますね。
ゲシュタルト
このように、人は単一の対象から物事を認識する能力があるのではなく、関係性から物事を認識していくという能力が備わっているというわけです。
関係性なので、補助線の形が与える視覚的な印象によって、事実と異なる認識をしたのです。
それ自体良い悪いの価値はありません。

このブログの中の「壮大な問題に取り組む」の中でも書いたように、認識というのはどうしてもaであるものとaではないものというカップルの差異を比較することでしか、aというものを認識できないと書きましたが、このゲシュタルトというものもまさにそれを言っています。

そこに、「良い」「悪い」のような価値が予め真理として用意されていて、固定され定義され変えることができない不変の真理としてあるわけではなく、とあるものが存在すると認識されるためには存在するそれ以外の全てが同時に存在しなければ成り立たないのです。

つまり、わたしがモラハラ被害者であったのは、モラハラすることでしか生きられない人からモラハラを受けることを許したからであり、最初に言葉の暴力を受けた時は知らなかったから選択肢はなかったものの、その後の何年もの間のモラハラ被害はわたし自身が「No」ということができないと思い込んでいたから起きたことでした。

モラハラさんは、モラハラをしても逃げ出さず、許し、かつ自分の役に立ってくれそうな人を探し求めて生きています。
わたしでなくても良かったわけで。

私たち人間はお互いに関係し合いながら、関係性の中で自分というものを認識し、自分の欲望を知覚し、行動し、影響を与え会うのです。

目的のために選ぶ

関係性の中では、他者の選択の結果がわたしの次の選択の条件となります。

つまり、他者(モラハラさん)との関係性においては、わたしが「No」を言うとモラハラさんにはそれが選択の条件となり、モラハラさんが不機嫌になる怒鳴る無視するなどの選択が、わたしの次の選択の条件でした。

重要なのは、わたしたちが自分の選択によって少なからず未来や状況や他人に影響を与えることができることをどこかで知っていて、その可能性の中から実現したい目的に沿った選択をするということです。
そして、わたしが選んだことの結果は、次の瞬間から他の誰かの選択の条件となるのです。
でも、その次の誰かの選択の条件となるということであって、何をその相手が選択するかは、期待はできても完全にコントロールすることはできません。

わたしは相手が誰であれ、その人と一緒に居たいなら「No」をあまり言わないことが幸せになる方法だと思っていたんだと思います。誰かと長く一緒にいることが幸せだと思い込んでいたんだと思います。そして幸せになりたいので、どうしても「No」を言わないようにしていたのだと思います。コントロールはしようとしていなかったけれど、期待はしていたと思います。そのうちわたしの価値に気づいてありがたがってくれ、変わってくれるのではないかとか、わたしの犠牲の分わたしは幸せになれるのではないかとか。

でも、その方法でうまくいく相手というのがそもそも長く一緒に居られない相手なんだと気が付いたこと、つまり「No」を言わないことでわたしを大切にしてくれない人とその人が変わることを期待しながら長く一緒にいようとすることがダメなんだということに気がつきました。

わたしは単純に幸せになりたかった。わたしの究極の目的はそれでした。
だから一緒にいて幸せじゃない人と頑張る理由がなかった。
やがてモラハラさんをはじめ、わたしが「No」を言うことを嫌う人たちは去って行きました。

今では友だちも含め、「No」を言っても大丈夫な、それどころか、「むしろ言ってくれないと本心がわからなくて困る」人たちと、安心して自分の意志をまっすぐ表現しながら、お互いを尊重し合いながら暮らしています。

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