普通、みんな、いつも~一般化の落とし穴

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普通、みんな、いつもなど、何となく曖昧な言葉を使って、誰にでも当てはまるような、意味のあるような、ないような会話をしたことはありませんか?

A:Bさんっていつもみんなよりがんばってますよね。
B:いやいや、普通です。みんなと同じです。Aさんだってそうでしょう。
A:いや~、わたしは怠け者で。
B:謙遜しちゃって~。いつもみんなAさんのこと頼ってますよ。

便利だけど厄介な言葉

わたしたちは地球に人間として生まれると同時に、言葉が作る「文化」の中に生まれてきます。その文化の中で暮らしている養育者である先輩たちの態度や言動から言葉の意味を学びます。その先輩たちも代々先輩たちから受け継いできました。その中には曖昧で単に「そういうものだ」と丸のまま飲み込むしかない「常識」というものもあります。

今回は、丸ごと飲み込んできた言葉のいくつかを、それらが本当には何を表現しているのか、よく眺めて咀嚼してみたいと思います。

もし、世界のものごとの言語化を生まれたときから各自でひとつずつやり、その意味と定義の共有をしなければならないとしたら、それはそれは大変だっただろうと思います。ありがたいことに、すでに体系化され共有された言語を使って、このようにわたしたちは一気に何かを伝え合い理解し合っています。

なかでも、「普通」「みんな」「いつも」といった曖昧な言葉は、ものごとをザクッとにグループ化して言葉で捉えることができ、非常に便利だと思います。が、一方で厄介で危険でもあると思っています。厄介で危険になるのは、個々のケースで丁寧に細かく対象を捉えた方がよいときに、善悪優劣などのように大別して白黒つけてしまうときだと思います(詳しくは「レッテルと存在」にありますのでどうぞ)。曖昧な言葉のせいもあって、わたしたちは間違った思い込みをし、その考えに縛られて偏見を持ち、外へ向くときは他人を差別したり、うちへ向くときは自分を責めたりしてしまう、ということもあるのではないかと考えています。

概念~一般化

「普通」って何と何を比較して割り出した値でしょうか?

「みんな」って誰と誰のことで、何人そこに含まれるのでしょう?

「いつも」って何月何日から何月何日までの出来事のことを指しているのでしょう?

これらの曖昧な言葉は“概念”と呼ばれるものなのだそうです。

概念とは、

1 物事の概括的な意味内容。

2 《concept》形式論理学で、事物の本質をとらえる思考の形式。個々に共通な特徴が抽象によって抽出され、それ以外の性質は捨象されて構成される。内包と外延をもち、言語によって表される。

出典:デジタル大辞泉

とあります。概括的がまた難しいので「概括」を調べると、

1 内容のあらましをまとめること。

2 論理学で、さまざまな事物に共通する性質を抽象し、その性質を一つの概念にまとめること。一般化。

出典:デジタル大辞泉

とあります。

簡単にいえば「ものごとの共通の特徴や性質を抽出して一般化した考え」のこと、ということになるでしょうか。

わたしはヒト科のメスであることから女に分類されます。また、少なくとも3世代前からみな生まれた場所が日本で日本に住んでいるし、国籍の登録も日本人なので日本人に分類されます。でも、わたしが女の代表になったら他の女性たちから「わたしたちはそんなじゃない!」とブーイングが起こるでしょうし、日本人のステレオタイプに比べたら自己主張は強めでわりと癖も強めだと思います。このように、概念はそのおおざっぱさでときに同じものを包括したり、排除したりします。

さて、続いて「普通」「みんな」「いつも」を一つずつ見ていきましょう。

普通とは何か

辞書によると、以下のような意味があることがわかります。

[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。

出典:デジタル大辞泉

セクシャリティの“普通”から外れたわたしには、「普通」という言葉が“普通”の人より「あれ?」と引っかかる言葉です。「“普通”じゃない」を根拠にした差別的な記述を散見することがあり、「“普通”ってなんだ?」と考える機会があったからです。

“普通”の人たちの“普通”のセクシャリティは異性を好きになることで、異性を好きになるのが“普通”=あたりまえなので、異性を好きになる人たちはセクシャリティというものを取り立てて意識したこともないでしょう。

“普通”を「ありふれた」という意味に限定するなら、米世論調査会社ギャラップの2021年の調査によれば12,000人の調査対象のうち86.3%がヘテロセクシャルと回答している(2022年2月のAFPの記事より)ので、86.3%の“ありふれた”セクシャリティ=“普通”のセクシャリティと言ってもいいのかもしれません。

そういう“普通”のセクシャリティの人たちから見ると、レズビアンというセクシャリティであるわたしは「“普通”」か「“普通”じゃない」かというカテゴリー分けの「“普通”じゃない」に入るということだと思います。

もしかしたら、“普通”のセクシャリティの人たちは自分のセクシャリティに、異性を好きになるセクシャリティ=「ヘテロセクシャル」という名前がついていることすら知らないかもしれません。

しかし、わたしは自分が同性を好きになるセクシャリティだと認識した9歳くらいのときに、「“普通”」vs.「“普通”じゃない」という区分けではなく、「ホモセクシャル」vs.「ヘテロセクシャル」という区分けをなぜか知っていて、そちらで自分を定義していました。また、ホモセクシャルの中に男女を区別する「レズビアン」というラベルがあることを知ったので、自分が「レズビアン」だと自認していました。

「“普通”じゃない」を偏見の根拠として性的マイノリティに限らず、マイノリティを差別する人がいるようですが、レズビアンの自認をした当時から、わたしにはマジョリティが優れていてマイノリティは劣っているという考えがありませんでした。むしろなぜか「希少であることにこそ価値がある」「マイノリティってかっこいい」という考えを持っていたので、“普通”=マジョリティをむしろ偏見をもって「ダサい」と思っていたくらいでした。今では優劣はなく、特徴の違いによる関係性のひとつでしかないと考えています。別の特徴もあってそれが誰のすべてでもないからです。

普通とは単に出現回数の多いものごとの総称だと思っています。ベルカーブの真ん中あたり。

「みんな」とは誰か

「みんな」の元は「皆」で、「皆=すべて」という意味を持っています。人であれば全員のことを指します。

子どものころ、母に「みんな持っているからわたしにも買って!」とおもちゃやサンリオグッズを買ってもらいたかったわたしは、「みんな」を引き合いに出して説得を試みたことがありますが、「みんなって誰なの?名前を言ってごらん」と言われ、せいぜい3人くらいしか名前があげられずに却下された思い出があります。それ以来わたしの「みんな」は3人以上だと理解しています。3人以上とは最小が3人で最大が世界人口の72億人ですが、ときに有史以来存在した人類全員を指していることすらあります。その範囲が広すぎることから、自分の言う「みんな」は信ぴょう性の薄いデータだと思っています(笑)

多くの場合自分が所属しているグループのメンバーを「みんな」と呼びます。子どもならクラスの仲良しグループや、近所の遊び相手などにはじまり、「子ども」「女の子」などがそれにあたります。多くの人たちがこのコロナ禍で「みんなはどうしてるんだろう」と日和見的にどう振る舞うかを考えたりしているのではないでしょうか。

「みんな」の便利さは、どの範囲を抽出するかを自分の求めたい結論に合わせて選べるということにあると思います。

例えば、先の例でいえば、わたしは母に「みんな」と言いましたが、クラスの女子全員なのか、仲良しグループのメンバー全員なのか、わたしが欲しいものを持っていると気付いた人全員なのか、その抽出範囲を限定していません。3つ目の全員ならそれは確証性バイアスということになります。

つまり自分の先入観を肯定するデータとして範囲を好きなように決めて、自分や他人を責めて思い通りにするなどの目的のために「みんな」を持ち出すこともできるし、逆に安心したり励ましたりする目的のために「みんな」を持ち出すこともできるわけです。

繰り返しになりますが、概念(=一般化)の便利さは、おおざっぱに捉えられた「共通な特徴」でいいという点にあります。しかし、確証バイアスが隠れている可能性がある以上、「みんな」を使った言説の信ぴょう性は非常に疑わしいと言わざるを得ません。

“みんな”が「みんな」の持つ二面性(良さと悪さ)を理解し、同じ確証バイアスなら自分や相手を励まし安心させるために使われるといいなと思います。

「みんなとは誰か」については「自我と自己~チップからの解放は可能か」にもちょっと書きましたので、よかったら読んでみてください。

「いつも」とはいつのことか

「いつも」の意味は辞書によると、

[名]普通の場合。ふだん。平生。
[副]いつと限定しないさま。どんな場合でも。常に。

出典:デジタル大辞泉

とあります。

「“普通”の場合」となっています。曖昧な言葉は曖昧な言葉でしか説明ができず、どこまでいっても曖昧なままという印象がありますね。さらに、「いつと限定しないさま」とあり、やはりどこまでも曖昧さを強調されている感じがあります。「どんな場合でも」「常に」となると、例外がないという意味にとれますが、何か一定の条件下で観察される「どんな場合でも」であって、気圧によって水の沸点は100℃ではなくなるので「いつも水は100℃で沸騰する」というのは当てはまりません。事実を把握したいなら、いつと限定し、どんな条件下なのかを説明しないと「いつも」は適切ではないでしょう。

日常生活の例でいえば、わたしはお風呂に入る前にトイレに入る際、スリッパをトイレの前に脱いで忘れることがたまにあります。裸足で廊下を歩いても足が冷たくない気温の低い日だけです。夏はそもそもスリッパを履かないので忘れることはありません。冷え性で寒い日は冷たい廊下をたった数歩でも裸足で歩きたくないので、めったに脱ぎ忘れないのです。でも、わたしのパートナーは置き忘れた日に限って「いつもトイレの前にスリッパを脱ぎ忘れている」と言うことがあります。理屈っぽくめんどくさい性格のわたしは、彼女の印象に強く残った置き去りにされたトイレ前のスリッパだけをカウントされて「いつも」と大げさに表現して揶揄されることに抗議して「いつもではありません」と返します。

悪用例と誤用例

あまり共通の話題がない、あるいはそれほど親しくない相手と当たり障りのないやり取りがしたいとき、冒頭のような曖昧な言葉の羅列の会話は、お天気の会話と同じように便利です。

一方、子どものわたしが母におねだりする方法として「みんな」を使って母に罪悪感を感じさせて買わせようとしたならば、これは曖昧な言葉の悪用例です。いじめや差別などにも使われ、具体性のない「普通」や「みんな」や「いつも」が悪用されます。

また、子どものわたしが本気で「みんな」が持っているのに自分だけ持っていないと考えて、仲間外れで悲しい気持ちでいるならば、それは「みんな」の誤用例でしょう。母がわたしに尋ねたように、「みんなって誰?名前をあげてみて」と自分に問うことで、「みんなって3人だけだ」という事実に気がついて悲しみから抜け出すことができます。

なぜこういうことが起きるのかとわたしなりに考えてみると、いくつか思い当たることがあります。

便利だと思ったことから離れられない

足し算は189個のリンゴが入った箱と36個のリンゴが入った箱があるときにリンゴを箱から出して225個ひとつずつ数えなくていいという便利さをもたらします。189+36=225

さて、36個のリンゴが入った箱が189個あるとしましょう。足し算の便利さに取りつかれ、掛け算を知らなかったり、理解できなかったり、信用できなかったりという理由で36を188回足すしかないと思い込んでいるなら、どんな場合に足し算が便利で、別の場合は別の方法が便利だということ便利さを享受できていない可能性があります。36×189=6804

決して間違ってはいませんが、ちょっと残念だし、助けてあげたいけれど頑ななケースが多くなかなか難しい感じがします。

「普通」「みんな」「いつも」が必ずしもすべての場面で便利というわけではありません。

めんどくさい

説明がめんどうなとき十把ひとからげにする便利さはわたしもよくわかっています。めんどくさいときには「普通」「みんな」「いつも」と言えば済んでしまいます。説明してわかってもらおうという意欲よりも、思い通りにしようと結果を急いでいるときは、理解してもらうことなど考えていません。

でも、わかってもらっていないのだから、相手には強引に同意させられた嫌な気分が残るでしょう。人との関係を大切にしたいなら、めんどくさいを超え、言葉をたくさん使って共通の話題を増やし、一つひとつの出来事や思いを共有し、「普通」「みんな」「いつも」では表現できない個別のつながりを持つ方がよいと思います。自分との関係においても、めんどくさがらずにより明確な言葉で自分の気持ちや状況を捉えることで、自分の中の誤解を解き、思い込みから解放され、心の平和を持つ方がよいと思います。

逆利用

一般化は個々の事象の特徴を抽出し、共通のパターンを読みだしてそれに名前を付けることで成り立ちますが、それをわたしたちは逆方向に考えることがあります。

例えば、生き物でいえば動物と植物、動物の中に脊椎動物と無脊椎動物があり、脊椎動物の中に哺乳類・鳥類・魚類・爬虫類・両生類があり、すべてはその特徴によって分類され、名前がそれぞれついています。

人間の世界になると、すでに特徴で分けられたジェンダーや人種といったものの特徴に、自分合わせようと努力してしまうことがあります。

一般化された「女性とはこういうものである」という概念を「自分は女だから」と背負って「女らしい自分」や「女らしくない自分」を「女とは」のイメージに合わせようと振り回されたり縛られたりする人も少なくないと思います。逆利用で「女のくせに」などと悪用する人に言われて追い込まれてしまう可能性もあります。

もしも、生き物の分野で特徴による分類と合わない個体が見つかったら、その個体の特徴を分類に合わせるのではなく、分類を変えるかその個体を新種として名付けます。しかし、人間界はそうではありません。

「こういう時は悲しむものだ」「こういう人はこう考えるべきだ」「こういう場面ではこう振る舞うべきだ」などなど、「~べき」がやってしまう逆利用はあるがままの世界を捻じ曲げてしまいます。

一般化は包丁のようなものだと思います。自分や誰かのためにおいしい料理を作ろうと包丁を使うのはいいですが、気を付けて使わないと指を切ったりなど怪我をします。時に人を傷つけるために使われてしまうこともあります。こういうことを意識して、一般化された言葉を使っていきたいものです。

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