人は誰でも、賢く見極めてよりよい選択をして生きていきたいと考えているのではないでしょうか。
わたしは時に欲に目がくらんで間違った選択をすることがあります。また、間違った思い込みのために間違った選択をすることがあります。
「間違った」というのは何を指しているでしょうか。
「自分のためにならない」ということだと思います。
では、何が自分のためになるのでしょうか。
「その選択によって満足を得る」ということだと思います。
この場合、損得や正邪は間違ったかどうかの指標ではありません。損をしようが得をしようが、正しかろうが邪悪だろうが、満足を得ることは可能だからです。
満足とは何か
満足とは辞書によると以下のような意味なのだそうです。
1 心にかなって不平不満のないこと。心が満ち足りること。また、そのさま。
コトバンク デジタル大辞泉より
2 十分であること。申し分のないこと。また、そのさま。
3 数学で、ある条件を満たしていること。
数学では条件を満たすことを満足と呼びますが、人間の世界では条件が人に満足を与えることはありません。
この場合の条件とは外側にある価値基準であることが通常わたしたちが考えるものです。
美人でスタイルがよく健康に問題がなく、仕事で成功していて人々に人気があり、お金持ちで素敵な人と結婚していて子どもがいて、欲しいものがすぐに手に入り何不自由なく暮らすことでしょうか。
お金が十分にあっても満足しない人は山ほどいます。素敵なパートナーがいても満足しない人もいます。子どもがいることが満足になっていない人もたくさんいます。
では、満足はどうやって得ることができるのでしょうか。
おそらく、わたしたちは満足を得ようとして得ることはできないのではないかと思うのです。生きていて「満足を感じる瞬間がある」ということがあるだけで、得ようとして得ることがないようなものが満足でしょう。
以前のブログ「幸福と希望」で書いた幸福と同じで、満足とは「対象」ではなく「状態」のことだからではないかと思います。
その気分になる
わたしたちは関係性の中で暮らしており、常に影響を与え合って生きています。状況は刻一刻と変わっていきます。ある状況が過去の状況と同じ場面に見えたとしても、まったく同じということはありません。めぐってきた秋だって、今年の秋は去年の秋とは違いますよね。
それらの変化し続ける状況の中で、わたしたちは必ず選択をします。起きるのか寝るのか食べるのか何を食べるのかなどなどなど。自分で選択をした気がないならば、どこかの時点で頼ることを選択した通念や概念や信念を通して自動的に反応しています。
出来事のパターンを解析して分類し、こういう時はこうすると決めているようなことが山ほどあるはずです。出来事のパターンにパターンで対応すれば、いちいち考えて決めなくても素早く対応することができるからです。
非常に便利ではありますが、これに頼っていると、自分が何を感じているかということに気付きにくくなります。反応しているだけなので、こなしてしまっている感じです。
満足を得たいと生きていて、幸福を望んで生きているわたしたちにとって、この反応として生きることは満足からも幸福からもわたしたちを遠くへ押しやってしまう気がします。
しかし、不思議なことに、わたしたちは満足の気分を思い出すだけで、満足します。レモンを思い出してよだれが出てしまうのと同じです。
条件に制限されずに満足は今すぐ感じることができるのです。
わたしなら気持ちいい温泉に浸かっている自分を想像すると、今ここでもすぐに満足や幸福を感じることができます。美しい自然の景色に囲まれている自分を想像してもいいですし、おいしいものを食べているところを想像してもそうなるのです。
選択
賢い選択というのはあるかといえば、条件が整わなくても満足を得ることができるのであれば、賢い選択とはいい気分かどうかを自分に問うことではないでしょうか。
もしもそれを得るために誰かを責めて怒っているならば、それはそもそも賢い選択ではない可能性があります。満足を得る選択はどれなのか、そちらに心の顔を向けてみて(傾注、フォーカス)、すぐにわかるものではないでしょうか。
もちろん、冒頭で書いたとおり、わたし自身間違った選択をすることがあります。誰かのせいにしたり、時代のせいにしたり、自分の努力不足のせいにしたりすると、満足からは遠のきます。間違えたら、選び直します。常に敗者復活戦のような選択肢が用意されています。気分がいいかどうか。
賢い選択をするための違いを見分ける力とは、その選択をして気分がいいかどうかを感じるかどうかを自分に問う、それだけのことなのかもしれません。
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