自己保身は欲張りではない

コロナウイルス感染拡大のために、今まで無かったようなタイプの難しい選択や面倒な選択を迫られることが多いように感じます。マスクをするしないから自粛するしないなど、まだ習慣化されていないことが多く意識して選択するので間違うことがありますね。今回は選択を間違ったときのどう振る舞うのかのひとつ「自己保身」ということについて考察したいと思います。

「私」として存在する

非常時でなくてもわたしたちの脳の中では選択が常に行われています。朝、目が覚めた瞬間からすぐ起きるかもう少し寝るか、先ずトイレに行くか歯を磨くか、朝ご飯を食べるかどうか、何を食べるかなどなどです。習慣化されているから気がつかないだけです。

わたしはそういった選択の繰り返しが「私」という存在としてあるのだと思っています。難しくいえば、選択という行為が「私」を実存たらしめると思っています。

「私」という実存は「飛ぶ」という行為に似ていると思います。

例えば、鳥は羽ばたくことで空気を下に押して上昇します。そして、いったん上昇してしまうと、今度は下に落ちる力(地球の引力)と前に進む力によって、羽で乗れるほどの空気の存在の状態を作ります。

鳥の最初の羽ばたきのように、人も存在すると決断した時点があり、それが「私」という旅の始まりだと思うのです。そして、いったん存在してしまうと、今度はいずれ死ぬという事実と無数の選択によって、他と区別して認識できる「私」としての存在の状態を保ちます。

そういった世界観の中では、選択したと意識されていないだけのことや、「選択しない」ことを選択することはあっても、選択は常にしており、「私」と「選択」は不可分なのです。逆にいえば「選択」によって「私」は認識されるものなのです。

そして、選択と結果は連続的に繰り返され、その運動によって「私」はエネルギーを与えられ、現実化します。

選択すると必ず「私」とその選択の条件だったものとの間に結果を得ます。それは選択によってもたらされる状態の変化です。結果の想定はできますが、自分でコントロールできるのは選択という行為だけです。選択するという行為のうちに「私」が存在するとするなら、結果を受けてどう反応するかというところにしか「私」は存在しえません。したがって、「私」とは過去の結果ではありません。

選択の究極の目的

人は間違った選択をすることがあります。「間違い」とは、「問題」と同じで「理想と現実の差」だと考えていいと思います。

思わなかった結果を得たときの落胆はとても大きいものですよね。例えば筋トレするかしないかという選択であれば、自分だけがそのコントロールの範囲ですから、自分が自分の選択の思わしくない結果のガッカリを受け止めるだけです。一方で、例えば2人以上の人が関係する計画の施行には自分と相手の選択が絡んできます。例えば単純な会話という計画の施行でも、お互いが相手が何と返事をするかを想定して言葉を選び、思わしい結果を得ようとします。

さて、想定した結果が他者の選択によって叶わなかったとき、次に何を選びますか?人によって、答は様々でしょう。そして、どんな選択もその基になるさかのぼれる目的があります。

さかのぼると「自分の幸福のため」という究極の目的に行き当たると思います。

露骨に自分の幸福を目指すのを「自分勝手で自己中心的」だと思う人もいるでしょう。でも、わたしは前のブログでも書いたとおり、「欲」を隠すことが人間関係にもたらす害の方が悪い結果を招くと考えています。なぜなら、「選択」は「私」であり「欲」だからです。

自己保身

例えば誰かと会話を楽しもうとしていた時に、自分が発した言葉で意外にも相手が自分に賛同しなかったとしましょう。会話の目的が楽しむことであった場合は、相手の賛同を得ることで会話を楽しもうとしていた自分の選択が間違っていたのであって、相手が賛同しなかったことではない可能性もありますが、たいていは相手が賛同しなかったことで得た楽しくなくなった会話の責任を相手に求めてしまいがちです。これは自己保身でしょう。良かれと思ってやったことを否定された時にありがちな反応です。ここから会話は議論に変わり、正しさを争うことになるかもしれません。争っているのは内容ではなく、会話が楽しくなくなった責任の追及かもしれません。

自己保身はわたしもついやってしまうことです。思わしくない結果について自分が傷つくのを避けようという心の動きで、仕方のないものだと思います。でも、ここで欲を捨ててはもったいないと思うのです。

自己保身は自分の利益や幸福を優先させているからやるのですが、結果としては利益にも幸福にもつながらないと思います。

なぜなら、もっと欲を露骨に自分に認めて頭を働かせたら、自己保身のためについた小さな嘘や、正当化のために練りだした屁理屈や、責任逃れで押し付けた責任や、無理やり相手に納得させるためにかけた圧力は、その意図は自分が思っているより相手に伝わっているし、それで失う信頼の損失の方がよっぽど大きいと思うからです。

本当に心底欲張りならば、「いい人」という評価も欲しいはずです。「慕われる」という評価も欲しいはずです。人とつながっていることで得られる安心感は人類が社会を構成して生きている生き物である限り消えません。それを切り捨ててまで欲しいものに偏るのは欲張りではなく偏向です。本当に欲張りなら、「人類」の一部としての「自分」も考えないと生き延びれないからです。

どうせ自己保身をするならば、もっと徹底的に欲得ずくで露骨に自分の幸福に貢献する力を発揮した方がよいと思うコロナ禍の冬の日でした。

皆さんの安全と健康をお祈りしています。生き延びましょう!